第29話 温度差
ジルニッツ王国の王都ザッテルハイム。
白銀宮の名で知られる王城は、朝の薄曇りの下でもなお白く輝いていた。
だが、その奥にある会議室の空気は重い。
ランドルフ・ヴェルナー戦死。
その報せが届けられた瞬間から、場の空気は一変した。
「まさか、ローゼン川を抜かれるとは……」
呆然としたように呟いたのは、国王フリードリヒ・ディーター・フォン・ジルニッツその人だった。
三十をいくつか越えたばかりの美丈夫は、王としての威厳を保とうとしているものの、その顔色は隠しきれぬ動揺を帯びている。
「ソルボ砦の陥落も、まさかここまで響くとは思わなかった」
誰に向けるでもなく言う。
それは言い訳に近かった。
二百年。
オーランジュとの国境紛争は、その長い年月をかけて小競り合いを繰り返してきた。
砦を奪い、奪い返し、川を挟んで矢を飛ばし合う。大きく戦線が動くことはあっても、最後にはまた膠着へ戻る。
フリードリヒも、そして王宮の多くも、今回もその延長としか見ていなかった。
だが、ローゼン川は破られ、ランドルフは死んだ。
紛れもない事実として。
会議室の一角で、宰相ヨッヘム・ハイデンベルグが深く息を吐く。
四十代前半にしてすでに髪の後退した中年男は、疲れの色を隠しきれぬ顔で伝令へ視線を向けた。
「もう一度、順を追って申せ」
「は、はい」
伝令が喉を鳴らす。
彼はローゼン川から直接来た者ではない。ランドルフの副官ウルリヒ・カルツの下でまとめられた報告を、さらに受け取って運んできたに過ぎなかった。
だから、その説明も断片的だ。
「敵は橋の正面で夜襲めいた動きを見せつつ、西側林縁でも小競り合いを起こしました。副司令閣下はそれに応じて兵を割き――その間に、少数が本陣後方へ回り込んだものと思われます」
「思われる、だと?」
法務大臣が眉をひそめる。
伝令は身をすくめた。
「申し訳ございません。現場も混乱しており……ただ、奇襲そのものは少数で、十数名ほどだったと」
「十数名で司令部を破ったのか」
低く言ったのは、軍務を預かるディーター・フライベルクだった。
五十に差しかかろうという年齢の男である。恰幅はない。むしろ痩せている。しかし、長年戦場に身を置いてきた者特有の乾いた鋭さがあった。
ランドルフの上官にあたり、王都駐留軍を束ねる司令でもある。
「はい。報告によれば、奇襲隊の中に異様に強い戦奴隷が一人いたと……」
「戦奴隷?」
ディーターの目がわずかに細くなる。
伝令は慌てて頷いた。
「は、はい。詳細は不明ですが……魔力持ちとも、元は貴人ではないかとも。ランドルフ閣下も、その者を迎撃に出られたとのことで――」
一瞬、伝令は言い淀んだ。
「生き残って撤退した兵の中には、その者を『死神』のようだったと語る者もおります。返り血を浴びたまま、無言で斬り進んだと……副司令閣下を討ったのも、その戦奴隷である可能性が高いかと」
そこで言葉が切れた。
ランドルフが出た。そのあと何が起きたかは周知の事実だ。
だが、会議の本流はすでに別のところへ流れつつある。
「つまり、本陣強襲を許したのだな」
法務大臣が言う。
「今さら奴隷一人の話をしても仕方あるまい。それより、敵は今どこまで来ている?」
その一言で、異様な戦奴隷の件は脇へ押しやられた。ディーターだけが一瞬だけ眉を寄せたが、何も言わなかった。
伝令は報告を続ける。
「敵軍は南岸を確保後、半日ほど進軍して野営に入った模様です。橋頭の損耗は大きかったものの、勢いそのものは衰えておりません。なお、敗走する我が軍への追撃は限定的であったとのことです。現場では、敵もまた損耗が大きく、深追いする余裕がなかったのではないかとの見方も出ております」
「ならば、敵も無傷ではないということか」
フリードリヒの声に、わずかな縋るような色が混じった。
「無傷でないことと、止められることは別です」
ヨッヘムが疲れた声で言う。
「勝ち戦の直後です。勢いそのものは、なお敵にあります」
ふと、沈黙が落ちた。
それを割るようにフリードリヒが口を開く。その顔は焦燥に駆られていた。
「で、では、どうするのだ。なにか策はあるのか?」
言い方は柔らかい。けれど、その実、自ら決断を引き受ける気配は薄かった。
「王都へ向かわせるわけにはいくまい? ならば、どこで止める? 誰が出る? 兵は足りるのか? 其方ら、何か言え」
問いかけばかりが並ぶ。
国王が責を問われることを恐れ、判断を周囲へ流そうとしているのは明らかだった。
ヨッヘムが咳払いをひとつする。
「陛下。まずは落ち着いて状況を整理すべきかと」
「整理だと? いまさら、なにを言う。ランドルフは死んだのだぞ」
「承知しております。だからこそ、です」
宰相は静かに返した。
彼はソルボ砦陥落の報を受けた時点で、胸騒ぎめいたものを覚えていた。だが国境紛争の長い前例と、軍からの楽観的な見通し、そしてなにより王宮内の政治案件に押され、強く押し切ることができなかった。
その後手が、今こうして現れている。
「現時点で取れる手は限られております。王都の守備兵だけでは足りません。沿道の諸侯より兵を出させ、野戦で迎え撃つほかないでしょう」
その言葉に、部屋の空気がさらに重くなる。
貴族連合軍。
聞こえこそもっともらしいが、実のところ寄せ集めに近い。各家が見栄と義務とで差し出した兵を、一つの陣として束ねねばならないからだ。
統率は難しく、士気も揃わない。だが現状、それしかなかった。
「当てになるのか?」
フリードリヒの声に、隠しきれぬ不安が滲む。
「当てになるかどうかではありません」
ヨッヘムの返答は苦かった。
「それしかないのです」
そこへ、ディーターが口を開いた。
「ならば、私が出ましょう」
短い言葉だった。しかし、それだけで会議室の空気が変わる。
フリードリヒが顔を上げた。
「ディーター卿……」
「ランドルフは私の部下でした」
感情を押し殺した声だった。
「そして軍の失態です。王都で机を囲んでいても、戦は止まりません。近隣諸侯の兵を集めるなら、なおさら現場で束ねる者が要るでしょう」
軍人として、まっとうな言葉だった。同時に、会議室のぬるさへの苛立ちも隠そうとしていない。
「だが、貴族どもが素直に従うかは別だぞ」
誰かが言う。
ディーターはそちらを一瞥せずに即答した。
「従わせます」
淡々としていた。英雄然とした熱はない。ただ、そうするしかないというだけの声だった。
ヨッヘムが目を閉じ、短く頷く。
「……では、そのように進めるほかありますまい」
「よ、よかろう」
フリードリヒもようやく言った。
「ディーター卿、其方に迎撃を任せる。必要な兵は沿道の諸侯より出させよ。王命として通達する」
「御意」
一礼して、ディーターは踵を返した。
なお何かを言おうとする者もいたが、彼は聞かず、足早に会議室を去っていく。
その背を見送りながら、ヨッヘムはひどく老けた顔で机に手をついた。
王宮は政治で動く。
軍は現実で動く。
その二つの空気は、同じ部屋にいてなお、まるで噛み合っていなかった。
◆◆◆◆
会議が終わり、銘々が散っていく白銀宮の廊下。
磨き抜かれた白い床を、コルネリアが静かに歩いていた。後ろには騎士長ルッツが付き従う。
コルネリアは前を向いたまま口を開いた。
「ルッツ。話は聞いたか?」
「……なにについてでしょうか?」
「とぼけるでない。彼奴について言うておる。其方、死んだと申しておったな?」
声音に怒気はない。だが冷たかった。氷の刃のように。
ルッツは一拍置いて答える。
「……あの状況から生き延びるのは不可能かと」
「じゃが、死体は出ておらぬ。其方の手落ちじゃ」
「……はい」
短い沈黙。
廊下には二人の足音だけが響いている。
「ならば、どうすればよいか、わかるな?」
ルッツは唇を引き結んだ。
「……確認させます。もし本当にその奴隷がそうであるなら、今度こそ引導を」
コルネリアは薄く笑った。
「愚かなことよ」
それがルッツへ向けた言葉なのか、それとも別の誰かへ向けたものなのか、判然としなかった。
ルッツの中には、まだ予感があるばかりだった。
ローゼン川で本陣を裂いた異様な戦奴隷。そこに、あまりに悪い符合を見てはいる。けれど、それでもまだ断言はできない。
しかしコルネリアは違った。
死体が出ぬ。
それだけで十分だった。
あの夜、あの高さから落ちて、なお生きるとすれば。
そして今さらになってオーランジュの戦奴隷として現れるとすれば。
そんな馬鹿げたことを成しうる男は、一人しかいない。
彼女の中では、ほとんど答えは出ていた。
あとはそれを確かなものにするだけだ。
「急げ」
コルネリアは淡々と言った。
「今度こそ、逃がすでないぞ」
白銀宮の長い廊下を、二人の足音が静かに遠ざかっていった。




