第28話 それぞれの帰還
ランドルフ・ヴェルナーの亡骸が、篝火の揺れる地面に横たわっていた。
血だまりの中に立つエルネストは、ただそれを見下ろす。
濡れた外套。返り血に汚れた剣。傷の開いた脇腹からは、なおじわじわと血が滲んでいたが、本人はまるで意に介していない。
周囲を取り巻いていたジルニッツ兵たちは、その場から動けずにいた。
副司令が討たれた。
その事実が、まだうまく呑み込めない。
今しがたまで自分たちの中心にいた男が、地に伏している。そのすぐ傍に、まるで死神のような男が無表情で立っていた。
数瞬の静寂。
それを破ったのは、奇襲に加わっていたオーランジュ側の兵たちだった。
「副司令が討たれた!」
わざとらしいほど大きな声。
「ランドルフ閣下が斃れたぞ!」
「本陣が破られた!」
ひとりが叫ぶと、またひとりがそれに重ねる。声は夜気の中を鋭く走り、周囲の兵たちの耳へ嫌でも飛び込んでいった。
直後にジルニッツ兵たちの顔色が変わる。
「う、嘘だ……」
「ランドルフ閣下が……?」
「そんな、はずは……」
だが、目の前にあるのは紛れもない現実である。
血に濡れた副司令の亡骸と、その傍らに立つ無言の男。
誰かが後ずさる。それを見た別の誰かも、つられるように足を引いた。
「ひるむな! 囲め!」
しかし、なおも怒鳴る者はいた。
近衛と思しき兵が数人、怒りに顔を歪めて斬りかかってくる。
「よくも副司令を!」
しかし、絶対数が少なすぎた。
エルネストは振り向きもせず、横から踏み込んできた兵の剣を受け流し、そのまま首筋を断つ。
もうひとりが槍を突き出す。半歩だけ身体をずらし、刃を返して喉を裂く。
最後のひとりは怒声の途中で胸を貫かれ、そのまま地へ倒れた。
あまりにあっけなかった。
それを見た、残っていた兵たちの目からも完全に戦意が消えた。
その時、遠くで角笛が鳴った。
短く、鋭く、そしてどこか切羽詰まった響き。
撤退の合図だった。
「退け!」
「南へ下がれ!」
「持ち場を捨てるな、応戦しながら後退しろ!」
怒号が飛ぶ。しかし、もはや隊列も統制もあったものではない。
兵たちは競うように南へ向かって駆け出し、ある者は武器を捨て、ある者は味方を押しのけ、ある者は転んだ仲間を踏み越えて逃げていく。
司令部は崩れた。
いや、崩れたのではない。中心を失って形を保てなくなったのだ。
奇襲部隊の隊長格の男が、荒い息を吐きながらエルネストへ目を向けた。
「……やったな」
静かな声だった。
だが、エルネストは反応しない。
目も向けない。
口も開かない。
ただ、ランドルフの亡骸を見つめていた。その瞳に映るのは、死体でも自分自身でもない、もはや取り戻せないなにかだった。
篝火の明かりの中で、その横顔は相変わらずなにも語らない。
勝利の実感も、高揚もない。まるで最初から、この場のすべてが決まっていたかのような顔だった。
隊長格の男はそれ以上なにも言わなかった。
返事を期待するだけ無駄だと、もう理解していたから。
◆◆◆◆
橋の上では、ようやく戦闘終結の角笛が鳴り響いていた。
その、どこか間の抜けたようにも聞こえる音色に皆が力を抜く。
「終わったぁぁぁ!」
エティが泣き叫ぶように声を上げ、その場にへたり込む。
顔は泥と汗と血でひどい有様だった。橋板にしがみついたまま肩を震わせ、笑っているのか泣いているのか自分でもわからない顔をしていた。
「がはははっ! 勝ったぜ、ざまぁ見ろ!」
その横で、バートが笑い続ける。
腕も肩も血だらけだったが、どうやら本人にとっては致命傷ではないらしい。橋の向こうに散らばる死体を見回しながら、ひたすら豪快に笑い声をあげていた。
周囲の戦奴隷たちも、それぞれだった。
その場に座り込み、呆然と空を見ている者。
生き残ったことに気づいて、急に嗚咽を漏らす者。
重傷のまま助けを呼ぶ者。
傷の痛みすら理解できずに立ち尽くす者。
戦いは終わった。
だが、終わったという事実に、未だ身体も心も追いついていなかった。
◆◆◆◆
高台の陣幕脇で、ハインツは南岸の崩れゆく敵軍を眺めていた。
副官のマティアスが傍らで言う。
「やりましたな」
ハインツは小さく鼻を鳴らした。
「向こうが勝手に崩れただけだ」
視線の先では、撤退するジルニッツ兵たちが夜の闇へ散っていく。
追おうと思えば追えた。だが、ハインツはそうしなかった。
「追撃のご指示を」
「不要だ。逃がせ」
マティアスがわずかに目を細める。
「よろしいので?」
「かまわん」
ハインツは淡々と言った。
「副司令を討たれ、橋を奪われ、あの化け物に本陣を裂かれた。生きて逃げた連中の口から、その全部を語らせればいい」
時に恐慌は、矢や剣より早く届く。
敗残兵の口は、こちらがなにもしなくとも勝手に死を広めてくれるだろう。
マティアスは無言で頷いた。
夜明けの気配が、東の空をわずかに薄くする。その頃には、橋の上の勝敗もすでに決していた。
ローゼン川の戦いは、こうして終わった。
橋を巡る二日の膠着。
血を流して作られた陽動。
その裏で行われた少数奇襲。
それらすべてが一つに噛み合い、最後に勝敗を決めた。
夜が明ける頃には、南岸はすでにオーランジュ軍のものとなっていた。
川面を渡る風は冷たいままだが、橋の上を流れる空気だけは、もはや昨日までのそれではなかった。
その変化を作り出した男の名を、まだ誰も知らないままに。
◆◆◆◆
ローゼン川を越えて半日ほど南下した先で、オーランジュ軍は野営に入った。
日は落ち、夜の冷たい帳が天幕の列へ降りてくる。
炊事場では火が焚かれ、湯気が立ちのぼり、鉄鍋の縁で煮立つ音が絶え間なく続く。
アンナはその中で忙しく立ち働いていた。
水を運び、鍋をかき混ぜ、怒鳴る下士官に返事をし、木椀を並べる。
やることはいくらでもあった。だが、仕事に手を動かしながらも、意識の端はずっと別のところから離れない。
生きているのか。
戻ってきているのか。
怪我はあるのか。
仕事をしながらも、地に足が着かない。
その時、ふと、炊事場の外に人影が差した。
振り向く。
エルネストだった。
一瞬、アンナは動けなかった。
無表情。
血に汚れたままの外套。
顔色はひどく悪い。それでも、たしかにそこに立っている。
次の瞬間には駆け出していた。
けれど、目の前まで来たところで足が止まる。勢いのまま抱きつきそうになって、ぎりぎりでそれを堪えた。
それでも、止まりきれなかった身体が、ふっと近づく。気づけばアンナの額は、エルネストの胸に触れていた。
鎧の冷たさ。その下に、ちゃんと人の体温がある。
アンナは小さく息を吐いた。
「……よかった」
声は驚くほど小さかった。
エルネストは何も言わない。
ただ黙って突っ立っている。
アンナはすぐに顔を上げた。泣きはしない。泣きそうではあったが、ぐっと堪えた。
「怪我、ないですか」
返事はない。
「痛いところは?」
やはり答えない。しかし、そこでアンナは気づいた。
脇腹。
外套の下、布が濃く染まっている。新しい血だ。
「……怪我、してるじゃないですか」
エルネストはようやく、ぼそりと口を開いた。
「痛くはない」
「そういう話じゃないです」
アンナの声が少しだけ強くなる。
エルネストは無表情のまま、こちらを見下ろしている。
「テントの中、入ってください」
「別に――」
「いいから」
アンナは遮った。
「治療します。早く」
ほんのわずかに、エルネストが黙る。
それから視線を逸らした。
従うつもりがあるのかないのか、少しわかりにくい間があって、やがて彼は静かに踵を返す。
アンナはその背を追い、天幕の入り口をめくりながら振り返りもせずに言う。
「……服、脱いでください」
中へ入ったエルネストは、相変わらず何も言わなかった。
ただ、面倒そうな沈黙をひとつ落としてから、仕方なさそうに手を動かし始めた。
アンナはその様子を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
生きて帰ってきた。
それだけで十分なはずだった。
なのに胸の奥では、別の感情がまだざわついている。
この人はまた、どこか遠くへ行ってしまいそうだった。
そう思うたびに、もっと強く引き止めたくなる。
けれど今は、その前にやるべきことがあった。
アンナは布と薬草を取り出し、エルネストの前へ膝をつく。
外では、勝ち戦のあとのざわめきがまだ続いている。
だが天幕の中だけは、不思議と静かだった。




