第27話 揺れる火
橋の上は、相変わらず地獄だった。
弦鳴りが橋上に降り注ぐ。魔力弾が石畳を抉る。
盾を叩き、橋板へ突き立ち、足を止めた戦奴隷を石畳へ縫いつける。倒れた者を踏み越え、後ろの者が押し出され、また崩れた。
狭い石橋の上では、死体すら障壁になった。
バートは橋板を肩で支えながら、その陰に身を寄せて前へ出ていた。
腕にはすでに何本も矢が掠めている。血は流れたが、そんなものは気にしていない。
「おらぁ! まだかよぉ!」
吠える。
笑う。
その神経が、エティには本気で理解できなかった。
「だから言ったんだよ俺は! こんなの絶対死ぬってぇ!」
橋板の影にへばりつき、エティが半泣きで喚く。
ちょうどその時、板に一本の矢が深々と突き立った。顔のすぐ横に。
「危ねぇって! ほら見ろ! 今の絶対顔だったろぉ!?」
「おうよ! そりゃよかったな!」
「殺す気か!」
エティが怒鳴り返す。その直後、不意に矢の勢いが鈍った。
決して止んだわけではない。だが、それまで執拗に橋頭へ集まっていた射線が、明らかに散っていた。
弦鳴りの密度が落ち、盾を叩く音が減る。
それが意味すること。エティは気づかなかったが、一方で、後方から橋を睨んでいたハインツは違った。
高台の陣幕脇。
夜風に外套の裾を揺らしながら、彼は橋の上へ視線を注いでいた。
矢の密度が落ちる。魔力弾の間隔が空く。それはほんのわずかな変化だった。
だが、死線の上に立つ兵の数ではなく、飛来する矢の間隔を見ていたハインツの目には、それで十分だった。
目が細められる。
「……やったか」
司令部強襲。
橋正面への射撃統制が乱れたということは、少なくとも敵中枢に混乱が生じた証だ。あの無言の凶器が届いたのだと、ハインツは即座に悟った。
口角が、ほんのわずかに上がる。
「いまだ! 押し渡れ!」
命令が飛ぶ。
角笛が鳴る。
待ち構えていたオーランジュの正規軍が、一斉に動き出した。
橋の手前に控えていた盾兵が前へ出る。長槍兵が続く。後方では弓兵が応射を開始し、さらにその後ろから新たな兵が雪崩れ込んでくる。
橋の上にいた戦奴隷たちは、もはや自分の意志では止まれなかった。
後ろから押される。前へ前へと押し流される。
「うおおおっ!」
バートが豪快に笑った。肩の橋板を押し上げ、そのまま巨体ごと前へ出る。
「がはははっ! そうこなくっちゃなぁ!」
「危ねぇって! 押すんじゃねぇぇぇ!」
対して、エティは悲鳴を上げていた。
正規兵に背を押され、死体につまずき、橋板に顔をぶつけそうになりながら、それでも前へ進むしかない。
「待て待て待て! まだ心の準備が!」
「そんなもん戦場にあるか!」
「あるだろ普通ぅ!」
叫んだ瞬間、横をかすめた矢が橋の欄干に当たって砕けた。
思わず首をすくめる。けれど、次の一本が飛んでこない。
矢が減っていた。反撃もどこか鈍い。
橋頭に立つ敵兵たちの動きに、明らかな迷いが見える。後方を振り返る者。怒鳴り合う者。隊列を保とうとして、逆に足並みを乱す者。
魔術師隊の魔力弾も途切れていた。つい先ほどまで、橋上へ嫌というほど降り注いでいた光弾が、今はひとつも来ない。
バートが歯を剥いた。
「崩れたな!」
「だったら早く言えよ! こっちはずっと死ぬ思いだったんだぞ!」
「まだ死んでねぇって!」
「うるせぇよ!」
その時だ。
南岸、司令部付近から声が上がった。
「副司令が討たれた!」
一人ではない。すぐに別の声が重なった。
「ランドルフ閣下が斃れたぞ!」
「本陣が破られた!」
怒声が動揺に変わる。
隊列が乱れる。
そこへ押し渡ってきたオーランジュ正規軍が容赦なく食い込んだ。
盾がぶつかり、槍が突き出される。橋の上という狭さが、今度は守る側の首を絞めた。
混乱したまま足場を失ったジルニッツ兵たちは、踏みとどまることも、整列し直すこともできない。
バートが先頭で敵兵を殴り倒す。文字通りの意味で、だ。
剣より先に肩と腕がぶつかり、よろめいた敵をそのまま橋の欄干へ叩きつけた。
「どけぇっ!」
怒号とともに前進する。
その横でエティは半泣きのまま短槍を振り回していた。
「うわあああっ! 来るな来るな! 死ねぇ!」
もはや叫び声に整合性はない。ただ、必死だった。
足を止めれば押し潰される。止まらなければ敵にぶつかる。どちらにせよ地獄なら、前で暴れるほうがまだマシだった。
橋を渡り切ったところで、オーランジュ軍は一気に南岸へ雪崩れ込んだ。
ジルニッツ軍はもう持たない。
副司令戦死の報は、夜の湿った空気の中を毒のように広がっていく。真偽を確かめる余裕など誰にもない。
ただ、皆が一番聞きたくない報せとして、それを受け取った。
「下がるな! 持ち場を守れ!」
誰かが叫ぶ。しかし、その声に従う者は少ない。
後ろを振り返る。逃げ腰になる。隣が崩れる。そこへ刃が入る。
あとは蹂躙だった。
統制を失った軍は弱い。
しかも橋頭という限られた地形で一度乱れてしまえば、立て直しはほとんど不可能だった。
正規軍が押し込み、戦奴隷がなだれ込み、弓兵が背を撃つ。ジルニッツ兵たちは後退しながら各個に斬られ、あるいは川へ落ち、あるいは自軍の足に巻き込まれて倒れていく。
バートが笑った。
「がはははっ! 見ろよエティ! 向こうから勝手に崩れてくぜ!」
「そんな余裕あるかよ!」
エティは喚きながら、倒れた敵兵を半ば踏み越えた。肩で息をし、顔は恐怖で引きつっている。それでも足だけは止まらなかった。
橋の向こう、ジルニッツの司令部付近ではなお火が揺れている。
その中心に、誰がいるのか。
エティにはわからない。バートにもわからない。だが、少なくともひとつだけは確かだった。
今夜の戦の流れを変えたのは、橋の上ではない。あの向こうだ。
それを悟りながらも、二人に今できるのは目の前の敵を叩き潰すことだけだった。




