第26話 問い
指揮所の後方から悲鳴が上がった。
夜気を裂く怒号。剣戟。倒れる音。駆け込んでくる足音。
静かに張り詰めていた本陣の空気が、一瞬でひっくり返る。
「何事だ!」
副官の怒声に、伝令が転がり込むように現れた。
顔色は蒼白。息も絶え絶えだ。
「後方より奇襲! 敵は少数! ですが、その中に――」
一瞬、言葉が詰まる。
「件の奴隷と思われる者がいます!」
ランドルフ・ヴェルナーは目を細めた。
やはり、と思う。
同時に、まんまと嵌められたのだと理解した。
橋正面の騒ぎ。
西側林縁の不審な動き。
どちらも偽りではなかった。血は流れ、兵もぶつかっている。だが、それらはすべて本命を通すための目眩ましに過ぎなかったのだ。
「副司令、ここは危険です。後方へ!」
副官が退避を促す。
ランドルフは首を振った。
「まだだ」
「ですが――」
「やはりあの奴隷が来たか」
その声は低く、ひどく落ち着いていた。
「もしそうなら、この目で確かめねばならん。彼奴の正体をな」
副官はなおなにか言いかけたが、ランドルフはすでに剣へ手をかけていた。
ただの奴隷ではない。
ソルボ砦での戦いぶり。魔力持ち。異様な剣技。元上位貴族とも囁かれる出自。そして、あまりにも悪い符合。
もし本当にあの男なのだとしたら、己の目で確かめねばならない。
胸の奥にざらついたものが走る。
だが、もう目を逸らすことはできなかった。
「近衛を集めろ。お前も来い」
「はっ」
ランドルフは副官を従え、指揮所を飛び出した。
◆◆◆◆
後方は、すでに乱戦になっていた。
篝火の明かりが揺れるたび、血飛沫が赤黒く浮かぶ。
倒れた兵の向こうで誰かが絶叫した。次の瞬間にはその声も途切れる。
鬼神のごとく暴れている男がいた。
火傷痕の刻まれた顔。
濡れた外套。
返り血に染まった剣。
周囲を取り囲む兵たちが次々と斬り伏せられていく。
横から槍が出る。身を沈めてかわす。踏み込みざまに喉を裂く。別の兵が背後から斬りかかる。振り向きもせず、半身の捌きだけで躱し、返す刃で腹を割く。
迷いがなかった。
容赦もなかった。
ただ最短で処理している。
しかし、奇襲側も無傷ではない。
戦奴隷はすでに二人が倒れていた。正規兵も一人が死に、二人が地に伏している。残った二人も追い詰められ、隊長格の男でさえ呼吸を荒げていた。
敵の多さに押され、このままでは本来の標的まで届かない。
そう思い始めていた、その時だった。
ランドルフの姿が篝火の向こうに現れたのは。
奇襲側の隊長格が、わずかに目を見開いた。
願ったり叶ったりだ。探す手間が省けたどころではない。指揮官自らが殺されに来たようなものだ。
だが、ランドルフの目には、もう周囲の兵などほとんど映っていなかった。
その男を見た瞬間、わかった。
傷で顔が変わっていようと。
肉が落ちていようと。
表情が死んでいようと。
わからぬはずがない。
邪竜討伐の褒賞と、貴族位授与の式典。
あの場でランドルフは、勇者エルヴァン・レヒナーと直接言葉を交わしている。
王都中が熱狂していた。
邪竜を討った英雄。国を救った若き勇者。大広間には貴族も武官も文官も居並び、誰もがその名を口にしていた。
けれど、当の本人はひどく静かだった。自らの武勲を誇るでもなく、授けられる栄誉に浮かれるでもなく、ただ真っ直ぐ前を見ていた。
華やかな場には似つかわしくないほど、実直で、朴訥としていた。
謙虚なだけではない。あの若さで、すでになにかを背負いきった者のような落ち着きがあった。
祝いの言葉を向けた時もそうだ。
深く頭を下げ、飾り気のない言葉で礼を返した。その目だけが妙に強く印象に残っている。
誠実で、揺るがず、少し不器用で――だが、芯だけは剣のように真っ直ぐだった。
だからこそ、今目の前にいるこの男が信じられなかった。
返り血を浴び、無表情のまま人を斬り伏せるこの姿と、あの日の青年がどうしても結びつかない。
喉元まで名が込み上げる。
エルヴァン、と。
だが、その瞬間にランドルフはそれを飲み込んだ。
ここでその名を口にすれば、兵たちに動揺が走る。
勇者エルヴァンの名を知らぬジルニッツ人などいない。しかもそれが敵として現れたなどと知れれば、ただでさえ乱れかけたこの場は一気に崩れる。
だから、言えない。
兵たちには、言ってはならない。
ランドルフは剣を構えたまま、唇の隙間から吐き出すように言った。
「……やはり、貴殿だったか」
その言葉に、エルネストの眉がぴくりと動いた。次の瞬間には、いつもの無表情へ戻っている。
それでも、ランドルフは問わずにいられなかった。
「なにがあった」
返答はない。
「国の発表は、偽りだったのか」
なおも答えない。
エルネストはただ、一歩踏み出した。
それだけで周囲の空気が変わる。
ランドルフの前へ兵たちが割って入った。
「副司令を守れ!」
「囲め!」
怒号とともに槍と剣が一斉に伸びる。
だがエルネストは止まらない。
この距離では、魔術より剣のほうが早い。
大きな術を組むには呼吸と集中が要る。しかし乱戦は、そのどちらも与えてはくれなかった。
最初の槍を刃で外し、踏み込みざまに喉を裂く。
横からの斬撃を半身でいなし、返す刃で脇腹を断つ。
さらに一人。
さらに一人。
血飛沫が篝火の赤に重なる。
兵たちは斬られているのではない、押し流されていた。
ランドルフの副官が斬りかかる。
鋭い一撃だった。だがエルネストはわずかに身を捻ってそれを外し、柄頭で顔面を打ち据える。
骨の砕けるような音とともに、副官の身体が横ざまに吹き飛んだ。そこへ別の兵が割って入り、かろうじてその場を繋ぐ。
その一瞬を逃さず、ランドルフは自ら前へ出た。
剣を振るう。
エルネストの刃がそれを受けた。
鋼がぶつかり、火花が散る。
重い。
腕にかかった圧が記憶よりなお重く感じられた。
若き勇者として宮廷に立っていたあの男は、もっと整った、もっと人の形をしていたはずだ。
だが今、刃越しに伝わってくるのは、感情を削ぎ落とした獣じみた殺意だけだった。
「……答えては、くれぬか」
刃を押し返しながら、ランドルフが再び問う。
「なにがあった」
エルネストは答えない。
無表情のまま、ただ押し返してくる。
その瞳は底の見えぬ井戸のようだった。
怒りも、悲しみも、恨みすら見えない。ただ、燃え尽きたあとに残る黒い熱だけ。
ランドルフは歯を食いしばる。
刃が軋む。
肘が震える。
「貴殿は――」
そこまでだった。
力の均衡が、不意に崩れる。
エルネストの剣が滑るように角度を変え、ランドルフの刃を外へ流した。空いた胴へ、ためらいなく切っ先が潜り込む。
息が止まる。
血の熱だけが、やけにはっきりとわかった。
膝が折れる。
視界が揺れ、篝火の明かりが滲む。
崩れ落ちながら、ランドルフはなおも目の前の男を見上げた。そこには、かつて大広間で見た若き英雄の面影がたしかに残っていた。
だが、それはもう灰の下に埋もれた火種のようなものでしかない。
口から血が溢れる。それでも、最後にどうしても零れた言葉は、責めるものでも、呪うものでもなかった。
「……なにが、貴殿を……ここまで変えた……」
掠れた声が、血泡とともに途切れた。
返事はない。
エルネストはただ無表情のまま、その血に濡れた剣を引き抜いた。
ランドルフの身体が、ゆっくりと地へ倒れる。
篝火の揺れる夜の中で、その目だけが最後まで目の前の男から逸れなかった。




