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第25話 不穏

 南岸へ渡り切った時には、全員がずぶ濡れだった。


 外套は水を吸って重く、靴の中では踏み出すたびに水が鳴る。冷えきった身体に夜風が刺さるようだったが、誰一人として弱音は吐かなかった。

 いや、吐ける空気ではなかった。


 中州からさらに南へ渡り、岸の泥を踏みしめたところで、正規兵の隊長格が低く告げる。


「ここから先は灯を避けて進む。声は出すな。見つかれば終わりだ」


 誰も答えない。

 息を潜めたまま、一行は川沿いの低地を離れ、暗い林の中へと身を滑り込ませた。


 枝が濡れた外套を打つ。ぬかるみに足を取られ、何度も体勢が崩れそうになる。

 渡河だけでもかなりの消耗だった。病み上がりのエルネストが先頭にいることに、正規兵たちは内心でなお納得しきれていなかったが、その背は少しも鈍らない。


 無言。

 無表情。

 ただ、迷いなく前へ進む。


 それが、かえって気味が悪かった。


 前を行く隊長格が手を上げる。全員がその場にしゃがみ込んだ。

 林を抜けた先、わずかに開けた場所に篝火(かがりび)が見えた。

 敵本陣外縁の歩哨だ。二人。槍を持ち、火のそばで周囲を警戒しているが、ここを抜けねば先へは進めない。


 隊長格の男が後ろを振り返り、手振りで左右からの接近を指示しかけた。

 その時だ。先頭にいたエルネストの指先が、わずかに動いた。


 声はない。

 詠唱もない。


 次の瞬間、暗闇の中を淡い光の残滓が二筋だけ滑り、篝火の赤を無音で切り裂いた。

 矢のように細いそれは、歩哨の喉元へ真っ直ぐ吸い込まれる。音は、ほとんどしなかった。


 一人は喉を押さえたまま崩れ落ち、もう一人は何が起きたのかも理解できぬまま前のめりに倒れた。

 悲鳴ひとつ上がらない。火のはぜる音だけが残る。


 後ろにいた者たちが、一斉に息を呑んだ。

 奴隷の一人が、思わず(ささや)く。


「……すげぇ」


 その声には、恐怖より先に純粋な驚嘆が混じっていた。隣の戦奴隷も、目を見開いたままエルネストの背を見つめている。

 まるで、人ではないなにかを見たような顔だったが、その視線の底には明らかな敬意があった。


 対して正規兵たちの反応は違う。

 誰も声を出さない――出せなかった。

 目の前の無言の魔術行使が、あまりに滑らかで迷いがなかったからだ。


 つい先ほどまで「味方ごと吹き飛ばすなよ」と皮肉を飛ばしていた痩せた兵も、今は口を閉ざしている。

 その顔にあるのは畏怖だった。気に食わぬとか、奴隷の分際でとか、そんな感情では追いつかない種類のそれ。


 隊長格の男ですら、一瞬だけ動けなかった。

 だが次の瞬間には我に返り、低く命じる。


「……死体を引け。火はそのままにしろ。異変に見せるな」


 兵たちが慌てて動く。

 倒れた歩哨を草むらへ引きずり込み、血の跡へ土をかける。篝火だけは消さない。遠目には、まだ歩哨が立っているように見えなくもない。


 その間もエルネストはただ前を見ていた。そして隊長格の指示を待つこともなく、再び歩き出す。


「お、おい」


 反射的に隊長格が呼び止めかける。だが、声はそこで途切れた。


 この状況で、誰が先頭を進むべきか。

 もう答えは出ていた。


 敵の歩哨を音もなく消し、しかも躊躇なく最短を進んでいく男。今この場で、その背を見失うことのほうがよほど危険だった。


 隊長格は舌打ちを飲み込み、短く言う。


「……続け」


 誰に向けたものだったのか、自分でもよくわからない。だが、一行は自然に動いた。

 先頭はエルネスト。その半歩後ろに隊長格。

 以後、正規兵も戦奴隷も、その背中へ吸い寄せられるように隊列を整えていく。


 誰もそれを口にしない。しかし、全員が理解していた。

 いま自分たちは、この男の後ろについていくほかないのだと。



 ◆◆◆◆



 一方その頃、橋の正面では相変わらず地獄が続いていた。


 石橋の上に、矢が降る。盾を打ち、橋板に突き立ち、避け損ねた戦奴隷の肉を貫く。

 倒れた者を踏み越え、後ろの者が押し出され、また倒れる。血と泥と水とが混じり合い、石畳はひどく滑りやすくなっていた。


「死ぬ死ぬ死ぬぅ! 今の絶対当たってたろぉ!」


 エティが橋板の陰に頭を押し込み、半泣きの声を上げる。

 直後、その板に一本の矢が突き立った。ほんの指二本ぶん横へずれていれば、顔面に入っていた。


「見ろ! ほら見ろぉ! やっぱり死ぬぅ!」


「まだ生きてんじゃねぇか!」


 すぐ横で、バートが吠えるように笑った。

 肩で橋板を押し上げ、その隙間から無理やり前へ出ようとする。さっきから何本矢を受けたのか、自分でも数えていないような顔だった。


「笑ってる場合かよ!」


「こんなもん、笑わなきゃやってられねぇだろうが!」


 バートは豪快に言い放ち、さらに一歩踏み出した。

 その足元で、別の戦奴隷が脚を射抜かれて崩れる。バートは迷いなくその身体を跨いだ。


 橋の後方では、わざとらしいほど大袈裟に資材が運ばれ、号令が飛び、まるで今夜こそ本気で押し渡るつもりであるかのような騒ぎが続いている。

 実際、流れている血は本物だ。

 叫びも死も、その一切が偽りではない。


 エティは橋板の裏で歯を食いしばりながら、思わず毒づいた。


「くそっ……。エルネストの野郎、一体どこにいやがるんだよ……!」


 こういう時に限って姿が見えない。

 あの男が前にいれば、それだけで矢の飛び方まで変わるような気がした。少なくとも、自分の番は後ろへずれる。そんな根拠のない確信があった。


「知らねぇよ!」


 バートが笑う。


「どうせどっかで、あいつも死ぬような仕事させられてんだろ!」


「こっちのほうがよっぽど死ぬ仕事だろうが!」


 そう怒鳴った直後、また矢が降ってきた。

 エティは悲鳴と一緒に頭を引っ込める。

 バートは笑う。


 死ぬかもしれない夜だった。

 だが、橋の上の戦奴隷たちには、もはや笑うか喚くかくらいしか残っていなかった。



 ◆◆◆◆



 南岸本陣では、次々と報告が飛び込んでいた。


「西側林縁にて敵影! 小規模ながら接近中!」


「橋正面、なおも敵の動き活発!」


「西へ回した二隊、交戦開始!」


 ランドルフ・ヴェルナーは、そのすべてを聞きながら橋と西の両方へ意識を張っていた。

 正面は派手だ。血も流れている。

 西側林縁でも火と物音が上がり、兵が接触している。


 だが――


「……妙だな」


 誰にともなく呟く。

 副官が顔を向けた。


「なにがですか」


「件の奴隷が見えぬ」


 ランドルフは短く言った。


 正面の橋攻めが本気にしては、あの異様な戦奴隷が前へ出てこない。

 西の林側にいるにしても、報告が軽すぎる。騒ぎの規模はそれなりだが、決定打の匂いがしない。まるで、こちらの目だけを引いているかのような――。


 その時、ランドルフの背筋を、言いようのないざらつきが這い上がった。


「……いや」


 視線が橋から、西から、さらに別の闇へと揺れる。


「まさか――」


 言い切る前に、遠く後方で悲鳴が上がった。

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