表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/30

第24話 見えぬ牙

 角笛が夜気を裂き、それを合図に北岸の空気が一変した。


 橋の手前で待機していた戦奴隷たちが、怒鳴られ、押し立てられ、石橋へ向かって動き始める。

 盾を抱える者、橋板を担ぐ者、縄束を引きずる者。どれもこれも、渡河のための備えに見せかけた餌だった。


「前へ出ろ! 止まるな!」


 後ろから飛ぶ怒声。止まれば殴られる。退けば斬られる。

 戦奴隷たちは半ば蹴り出されるようにして橋へ足を踏み入れた。

 その先頭近くに、バートとエティの姿があった。


「よぉし、来いよぉ!」


 バートが吠える。両腕に抱えた橋板を盾のように掲げ、巨体ごと前へ出る。


「来るな来るな来るなぁっ!」


 対してエティは、まるで真逆だった。橋板の陰に頭を突っ込み、腰を引いたまま叫ぶ。


 直後、南岸から弦鳴りが連なり、無数の矢が夜を裂いて飛来した。


 石橋の上に乾いた衝撃音が跳ねる。

 橋板に突き立つ音。盾に弾かれる音。肉に沈む鈍い音。

 悲鳴は一つではなかった。前へ出た戦奴隷が膝を折り、次の瞬間には後ろの者に踏み越えられる。

 狭い橋上では、倒れた者がそのまま障害物になった。


「死ぬ死ぬぅ! やっぱり死ぬぅ!」


 エティが喚く。

 橋板に背を押しつけ、ほとんど這うように身を縮める。その横を一本の矢が掠め、髪を数本持っていった。


「うるせぇ! 耳障りだ!」


 バートは笑いながら、突き立った矢を一本へし折った。

 盾の縁では、すでに十本近い矢が震えている。それでも巨漢は前へ出ようとする。


「前出んな! 的になってんだろうが!」


「出なきゃ始まらねぇだろ!」


「始めたくねぇんだよ、俺は!」


 そのやり取りの最中にも、矢は容赦なく降り続けた。

 橋の中央に差しかかる前から、戦奴隷たちの列はもう乱れている。

 橋板を落とす者。足を止める者。死体に躓いて転ぶ者。夜目にもわかるほど、石畳は血で濡れていた。


 だが、それでよかった。

 派手で、醜く、いかにも正面突破に執着しているように見えればそれでいい。



 北岸の後方、高台に設けられた陣幕の陰で、ハインツはその様子を眺めていた。

 顔にはいつもの冷たさしかない。


「食いついたか」


 隣の副官――マティアスが南岸を窺う。


「弓兵の密度が橋正面へ増しております。篝火の動きも同様に」


「当然だ」


 ハインツは短く言った。


「あれだけ馬鹿正直に喚きながら橋へ出れば、嫌でも目は引く」


 その言葉どおり、南岸の篝火は橋とその周辺へ収束しつつあった。

 ランドルフが側面を警戒していることは、斥候の報せからすでにわかっている。だからこそ、正面を捨てたように見せてはならなかった。


「西側林縁は」


「まだ動いておりません」


「そろそろだ」


 ハインツは視線も動かさずに告げる。


「偽の潜入隊を出せ。数は五。戦奴隷三、正規兵二でよい。林を揺らし、火を使え。見つかって構わん」


 マティアスが一礼する。


「すぐに」


「向こうも無能ではない。奇襲そのものは読んでいる。ならば、読ませた先で食わせればいい」


 低く笑った。


「橋で騒がせ、西で怯えさせる。そうすれば、どこかが薄くなる」


 マティアスが配下へ伝令を飛ばした。

 夜の闇の中、数人の影が西側林縁へ溶けていく。




 一方、南岸。

 ジルニッツ北方国境軍副司令、ランドルフ・ヴェルナーは、橋正面へ集まりつつある喧噪を見据えていた。


「橋頭へ戦奴隷を継ぎ込んでおります。橋板も運び出しました」


「見えている」


 答えは短い。


 無数の矢が北岸の橋上へ降り注ぎ、戦奴隷たちを石の上へ縫いつけていく。

 狭い橋では数の利も活きぬ。押し込まれるほどに詰まり、詰まるほどに射やすくなる。守る側にとっては理想的な殺し場だった。


 だが、ランドルフの眉間の皺は解けない。


「例の奴隷は」


「未だ確認できておりません」


「……そうか」


 橋を攻めるにしては、なにかが足りない。

 あの異様な戦奴隷が前に出ぬまま、ただ兵を擦り潰すだけ。

 理屈では通る。奴隷など消耗品だ。だが、ソルボ砦での報せを思えば、それだけで終わるとも思えなかった。

 そこへ、新たな伝令が駆け込んでくる。


「副司令! 西側林縁にて不審な動きあり! 数名、火を携えて接近!」


 ランドルフの目が細くなる。


「やはり来たか」


 小さく呟き、すぐに命じた。


「西へ二隊回せ。ただし橋頭の弓兵は減らすな。正面もまだ囮とは限らぬ」


「はっ!」


 伝令が走る。

 ランドルフは橋正面と西の林、その両方へ神経を張り巡らせた。


 敵は動いている。

 問題は、どこが牙かということだ。



  ◆◆◆◆



 その頃、エルネストたちは北岸本隊から大きく外れた上流へ達していた。


 篝火の光も、橋を巡る喧噪も、ここまでは届かない。

 聞こえるのは川音だけだった。


 ローゼン川の古い渡渉点(とせいてん)

 かつては荷馬車も通したというが、雪解けで増水した今は大軍など到底無理だった。敵もそのことは承知している。ゆえに見張りは薄い。無いわけではないが、主眼はあくまで橋と側面林地に置かれている。


 渡渉点の中央には低い中州があった。

 黒く湿った土と、まばらな藪。そこへ辿り着ければ、一度息を整えられる。


「……数珠繋(じゅずつな)ぎになれ。離れるな」


 先導する正規兵隊長が低く告げた。


 皆、軽装だ。盾も捨て、槍も短い。

 川へ足を踏み入れた瞬間、冷水が脛を噛んだ。さらに一歩。二歩。水位はみるみる上がり、やがて腰へ届く。


 流れは速い。

 足元の石はぬめり、踏み外せばそのまま持っていかれそうだ。


 先頭に立つエルネストは、なにも言わずに進む。

 濡れた外套が脚にまとわりつき、傷の残る体へ水の冷たさが容赦なく食い込んでいるはずだった。だが、顔色ひとつ変えない。


 後ろの兵たちは、前の背を見失うまいと必死だった。

 川音が大きい。声を張ることもできない。誰もが歯を食いしばり、足探りで進んでいく。


 中ほどに差しかかった時だった。

 後列の一人――若い騎士が、足を滑らせた。


 水飛沫。

 次の瞬間には身体ごと流れに持っていかれ、繋いでいた列が乱れる。

 悲鳴を上げかけた口へ、冷水が入った。騎士は必死に手を伸ばすが、足が着かない。重くなった外套が水を吸い、なおさら沈める。


 その手首を、横から伸びた手が掴んだ。


 エルネストだった。


 無言のまま、片腕だけで引き寄せる。流れに逆らうように踏み込み、騎士の身体を半ば力ずくでこちらへ戻した。

 周囲の兵が慌てて支えに入る。

 騎士は咳き込み、水を吐いた。礼を言う暇もない。エルネストはすでに手を放している。


 その時だった。

 無理に踏ん張ったせいだろう。エルネストの脇腹から、じわりと色が滲んだ。


 開きかけた傷口だった。

 暗がりでもわかるほど、濡れた衣の脇が黒く染まっていく。だが、本人は見向きもしない。


 ただ前を向く。

 足を進める。

 それだけだった。


 隊長格の正規兵が息を呑む。

 さっきまでこの男を値踏みするような目で見ていた者たちも、今はなにも言えない。


 エルネストは無表情のまま中州へ辿り着いた。

 泥を踏みしめ、水を滴らせながら立つその姿は、もはや人というより、夜の底から這い上がってきたなにかに近かった。


 誰も声を発しない。

 ただ、彼が再び南岸へ向かって歩き出すのを見て、列は黙って続いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ