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第23話 囮と餌

 その夜、ハインツは橋の正面でも兵を動かすことにした。

 狙いは渡河ではない。敵にそう思わせることだ。


 橋頭に盾兵を寄せ、戦奴隷を前へ押し出す。資材を運ばせ、篝火(かがりび)を増やし、今夜こそ橋をこじ開けるつもりであるかのように見せかける。

 実際に血も流す。悲鳴も上げさせる。そうして敵の目を、橋とその周辺に縫いつける。


 その役を命じられたのは、バートとエティを含む戦奴隷たちだった。


「よぉし! やっと俺の出番ってわけだな!」


 太い腕に橋板を抱え、バートが豪快に笑う。夜陰の下でも、その巨体はやたらと目立った。

 それを見上げながら、エティは露骨に顔をしかめた。


「出番、じゃねぇよ……。どう見ても囮だろ、これ。思いっきり餌じゃねぇか……」


 縄束を引きずりながら、ぶつぶつと文句を垂れる。声は小さいが、恨みがましさだけはたっぷりだった。


「いいじゃねぇか。橋の上で好きなだけ暴れられんだぞ?」


「よくねぇよ! 俺ぁもうすぐだったんだぞ! あと二戦! あと二戦生き残れば、ようやく戦奴隷からおさらばできたんだ!」


 エティが唾を飛ばす勢いで言う。

 縄を握る手が白くなるほど力を込めていた。


「それがなんだよ、この任務! 夜襲の先駆けだかなんだか知らねぇけど、どう考えたって一番矢が飛んでくる場所じゃねぇか! あーあ、終わった! 俺は終わった! 橋の上で串刺しだ! 魚の餌だ!」


「うるせぇなぁ」


 バートは笑いながら、空いた手でエティの頭を小突いた。


「痛ぇよ!」


「死ぬ死ぬ言ってる奴ほど、案外死なねぇもんだ。だいたい、お前はしぶとそうだしな」


「慰めになってねぇって……」


 エティは頭を押さえながら、心底嫌そうに橋のほうを見た。


 北岸のこちら側でも篝火が増やされ、盾や板が次々と運び込まれている。いかにも今夜こそ押し渡る気であるかのような騒がしさだった。

 だが、その様子を眺めるうちに、エティはふと眉をひそめた。


「……なぁ」


「ん?」


「エルネストのヤツ、一体どこにいやがるんだよ」


 バートが目を瞬かせる。


「知らねぇのか?」


「知るかよ。さっきから姿が見えねぇだろうが。こういう時こそ、あいつみてぇなのを真っ先に前へ出すもんじゃねぇのか?」


「さぁな」


「さぁな、じゃねぇよ」


 エティは舌打ちした。


「こっちは橋の上で針鼠(はりねずみ)にされるってのに、あの一番使えそうなヤツだけ姿が見えねぇって、どういうことだよ。まさか、後ろでぬくぬく寝てるわけじゃねぇだろうな」


「そんなタマかよ」


 バートは鼻を鳴らした。


「だったら、どこ行ったんだよ」


「知らねぇって言ってんだろ」


 あっさり返され、エティはますます顔をしかめた。


「ちっ……。こういう時に限って消えてんじゃねぇよ、あの野郎」


 悪態をついてから、少しだけ声を落とす。


「……いや、別に心配してるわけじゃねぇぞ。ただ、その、だな……」


「頼りにしてんだろ?」


「してねぇよ!」


 反射的に怒鳴ったあと、エティは気まずそうに視線を逸らした。


「……あいつが前にいると、少なくとも自分の番が後ろに回る気がするだけだ」


「同じようなもんじゃねぇか」


「うるせぇ」


 バートは笑った。

 その笑い声だけは、今から死地へ出る男のものとは思えないほど太く明るい。


「ま、あいつにもあいつの仕事があるんだろ」


「仕事ぉ?」


「病み上がりだしな。後ろで大事にされてんのかもしれねぇし」


「ふざけんな」


 エティの眉がつり上がる。


「こっちはあと二戦なんだぞ! あと二戦で終わりだったんだ! それをこんなところで死ねるかよ!」


「それ、さっきも聞いたぞ。――なら、生き残ればいいじゃねぇか」


「簡単に言うな」


「簡単だなんて言ってねぇ」


 バートは肩に担いだ橋板を持ち直した。腕の筋肉が、篝火の赤い光を受けて鈍く浮き上がる。


「けどよ。橋の前で縮こまってても、矢は飛んでくる。だったら前へ出て、殴って、生き残るしかねぇだろ」


「嫌な理屈だなおい……」


 エティはぼやくように言った。


 そのとき、戦奴隷たちを集めていた下士官が怒鳴った。


「おい、そこの二人! 無駄口を叩くな! 配置につけ!」


「へいへい」


 エティが気のない返事をする。

 対してバートは、待ってましたとばかりに足を踏み出した。



 橋の手前には、陽動に使う戦奴隷たちがすでに集められていた。

 盾を持つ者。橋板や縄を抱える者。石を運ぶ者。いずれも、使い捨ての駒として選ばれた顔ぶれだ。

 そこに連帯感などない。ただ、誰もが理解していた。今夜、自分たちは敵の目を引く餌だと。


 エティはその顔ぶれを見回し、小さく舌打ちした。


「ほんとに終わってんな……」


「なにがだ?」


「なにもかもだよ」


 エティは吐き捨てるように言う。


「オーランジュも、ジルニッツも、戦も、橋も、全部だ、くそったれ! ったく、俺ぁなぁ、本当なら今ごろ、妹のガキたちの面倒をみてたかもしれねぇんだ」


「……似合わねぇな」


「うるせぇよ!」


 怒鳴り返してから、エティはふと声を落とした。


「……あと二戦だったんだ」


 今度の声は、さっきまでより少し小さかった。


「ここを生き残って、次も生き残れば終わりだった。ようやく、奴隷から抜けられるはずだった」


 バートはしばらく黙っていた。

 それから鼻を鳴らす。


「何度目だよ、それ。いいかげん、しつけぇって」


「うるせぇよ」


「前向け、前。――知ってるか? 矢は前から来るんだぜ」


「知ってるよ!」


 思わず怒鳴ったエティだが、その口元には、ほんのわずかにいつもの軽口めいた色が戻っていた。


 そのとき、橋の正面で角笛が短く鳴る。

 周囲の空気が、ぴんと張り詰めた。


 始まる。


 バートが口元を吊り上げた。

 エティは顔をしかめたまま、喉を鳴らした。


「行くぞ、エティ」


「行きたくねぇよ……」


「足は動いてんじゃねぇか」


「止まったら後ろから蹴られるだろうが」


 そう言いながらも、エティはすでに前を向いていた。


 橋の向こうには敵。

 橋のこちらには味方。

 そのどちらからも死が飛んでくる場所へ、戦奴隷たちは押し出されていく。


 バートは笑ったが、その目だけは篝火の炎をじっと見つめていた。

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