第22話 帰る場所
橋を正面から抜くのは不可能。
二日のあいだで、それは誰の目にも明らかになっていた。
戦奴隷を押し出せば矢に倒れ、盾兵を前に立てれば魔術で崩される。狭い橋上では数も活かせず、死体だけが石畳の上に積み重なっていく。
夕刻。
オーランジュ軍の陣幕に、ハインツ配下の主だった者たちが集められていた。
机上にはローゼン川周辺の粗い地図が広げられ、橋、南岸の陣地、林地、下流の浅瀬――斥候が拾ってきた情報が、簡素な印と文字で書き込まれていた。
「正面は捨てる」
誰より先にハインツが言った。
異論は出ない。もとより、出せる段階はとっくに過ぎていた。
「橋で兵を潰すのは無駄だ。敵の思う壺でもある」
副官のマティアスが地図の西側を指した。
「西岸の林に、獣道の跡があります。川沿いに南下すれば、敵本陣の側面へ出られるかと。ただし、道幅は狭く、大人数では動けません」
「何人通れる」
「夜闇に紛れるなら十名から十五名。多くても二十が限界でしょう」
別の士官が顔をしかめた。
「少なすぎる。見つかれば終わりだ」
「見つからねばよい」
ハインツは即座に切って捨てた。
「狙うのは橋ではない。敵の頭だ。指揮所を潰し、伝令線を断ち、橋の統制を乱す。混乱したところへ正面から叩き込む」
その場にいた者たちは口を閉ざした。
できるかどうかではない。やるしかない。
「では、誰を回しますか」
マティアスの問いに、ハインツは一拍も置かずに答えた。
「エルネストだ。――奴を連れて来い」
陣幕の空気がわずかに変わった。
呼ばれたエルネストが軍議に加わる。
そして作戦を伝えられたが、顔色ひとつ変えなかった。
全身の包帯は外れたものの、肌にはまだ生々しい傷が残る。顔色も悪い。だが、それでもこの場の誰より現実味を持っていた。
「お前が先頭に立て」
ハインツが告げる。
「敵指揮所に食い込み、混乱を起こせ。それだけでいい。後は本隊が橋を押し渡る」
エルネストは黙っていた。
「できぬとは言うまいな」
しばしの沈黙ののち、掠れた声が落ちる。
「……やってやる」
簡単すぎる返事だった。
まるで、自分が死地へ送られる話ではないかのように。
それを聞いて、幹部の一人が顔をしかめた。
「大隊長。本当にこいつ一人に任せるおつもりですか」
「一人ではない」
ハインツが答える。
「数名の戦奴隷を付ける。囮でも盾でも、なにかしら使い道はある。加えて口の堅い者を数人。橋頭を乱すまで生き残ればよい」
露骨な言い方だった。戦奴隷たちは使い潰しの駒でしかないことを、最初から隠そうともしていない。
だが、それで反発する者はこの場にはいなかった。
「選抜はお前に任せる、マティアス。正規兵は八。戦奴隷は五。多すぎれば足手まといになる」
「はっ」
ハインツは最後にエルネストを見た。
「敵の頭を落とせ。橋の上の虫けらどもは、その後でいくらでも踏み潰せる」
エルネストは答えない。
ただ、わずかに目を伏せただけだった。
陣幕を出ると、外はすでに薄暗かった。
日が落ちるのが遅くなったとはいえ、川沿いの風はまだ冷たい。湿り気を帯びたそれが火照った肌を撫でていく。
天幕のあちこちで篝火の準備が進められていた。
橋の正面では、夜を迎えてなお睨み合いが続く。向こう岸にも灯が並び、ローゼン川を挟んで無数の火が揺れていた。
その一角に、選抜された者たちが集められていた。数だけ見れば、あまりに少ない。しかし、これ以上増やせば潜行の意味がなくなる。
少数で敵本陣へ回り込み、混乱を起こし、橋の守りを乱す。それが今夜の役目だ。
集められた戦奴隷たちの顔には、緊張と高揚が半ばずつ浮かんでいる。
死地に選ばれた恐怖と、あのエルネストと同行できるという期待。そのどちらも隠しきれていなかった。
「おい、本当に裏から回るんだよな……?」
ひとりが小声で言った。顔つきは強張っている。
握った槍の柄に、汗ばんだ指が絡みついていた。
「橋の上で蜂の巣よりはマシだろ」
別の戦奴隷が吐き捨てるように言う。だが、その声にも余裕はなかった。
「マシ、ねぇ……」
「少なくとも、突っ立って矢を受けるだけじゃねぇ」
そこへ、正規兵のひとりが苛立ったように口を挟んだ。
「黙れ。無駄口を叩くな」
声をかけたのは、奇襲部隊を率いる正規兵の隊長格らしき男だった。三十前後。頬に古傷が一本走っている。
目つきは険しいが、怯えてはいない。ただ、これがどれほど危険な任務かは嫌でも理解している顔だった。
戦奴隷たちは口を閉ざす。沈黙のあと、その男は視線だけをエルネストへ向けた。
「お前が先頭だ」
エルネストは答えない。
「敵本陣へ入るまで、案内はこっちがする。入ってから先は、お前が切り開け」
それでも返事はなかった。
男はわずかに眉をひそめたが、それ以上は言わない。さっきの会議で、ハインツがこの男をどう扱っていたかを見ていたからだ。
下手な言葉を足しても意味がないと知っている顔だった。
エルネストは黙ったまま、渡された剣帯を確かめる。
腰に下げた剣は、奴隷が持つにはあまりに上等だった。砦での功によって与えられた戦利品か、あるいは接収品か。いずれにせよ、手にはよく馴染んでいる。
病み上がりの身体には、まだ回復しきらぬ重さが残る。傷口は閉じた。だが、深いところに残る鈍い痛みまでは消えていない。
肩を動かせば張り、踏み込めば脇腹が軋む。それでも、顔には一切出さなかった。
隣では正規兵たちが短剣を差し込み、外套の留め具を確かめ、弓弦を張り直している。使うのは長槍ではなく、短槍と剣。林と崖道を進むには、その方が都合がよかった。
「出るぞ」
隊長格の一声で、空気が変わった。
篝火の明かりから離れ、部隊は西側の暗がりへ移動を始める。
橋の正面では、正規の夜警交代が大袈裟に行われていた。あえて目立つように兵を動かし、敵の視線を橋へ縫いつけるためだ。
陽動である。
闇の中を進む足音は小さい。鎧の擦れる音すら、やけに大きく聞こえる。
その途中、エルネストは不意に足を止めた。少し離れた天幕の陰に、アンナが立っていた。
月は薄い。
それでも、その小さな影が誰なのか見間違えることはなかった。
「……行くんですね」
小さな声だった。
「あぁ」
いつもの短すぎる返し。アンナはそれに少しだけ眉を寄せる。
「危ないんですよね」
「戦だからな」
また同じだ。
短く、乾いていて、隙がない。
アンナは言葉を探した。
止める気はなかった。止めたところで無駄なのはわかっている。
なら、なにを言えばいいのか。自分でもよくわからないまま、唇だけが先に動いた。
「……戻ってきてください」
その言葉に、エルネストはわずかに目を向けた。
返事はない。
無表情のまま、ただアンナを見るだけだった。
アンナは視線を逸らさず言った。
「わたし、待ってますから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
そんなことを口にするつもりはなかったのに、出てきたのはまるで帰る場所を示すような言葉だった。
帰る場所など、自分には二度と持てないと思っていたのに、とアンナは気づいて少し戸惑った。
エルネストの表情は変わらない。
だが、ほんの一瞬だけ、その目が遠くを見た気がした。
「……あぁ」
やがて返ってきたのは、それだけだった。
アンナから視線を外し、再び闇へ向き直る。その背中に、アンナは最後にひとつだけ声を投げた。
「ちゃんと、生きて帰ってきてください」
今度は足を止めなかった。
隊列の後ろへ戻り、エルネストは再び他の者たちと同じ闇に紛れる。
やがて、篝火の明かりも届かぬ林の縁へと消えていった。




