表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/23

第22話 帰る場所

 橋を正面から抜くのは不可能。


 二日のあいだで、それは誰の目にも明らかになっていた。

 戦奴隷を押し出せば矢に倒れ、盾兵を前に立てれば魔術で崩される。狭い橋上では数も活かせず、死体だけが石畳の上に積み重なっていく。



 夕刻。

 オーランジュ軍の陣幕に、ハインツ配下の主だった者たちが集められていた。

 机上にはローゼン川周辺の粗い地図が広げられ、橋、南岸の陣地、林地、下流の浅瀬――斥候が拾ってきた情報が、簡素な印と文字で書き込まれていた。


「正面は捨てる」


 誰より先にハインツが言った。

 異論は出ない。もとより、出せる段階はとっくに過ぎていた。


「橋で兵を潰すのは無駄だ。敵の思う壺でもある」


 副官のマティアスが地図の西側を指した。


「西岸の林に、獣道の跡があります。川沿いに南下すれば、敵本陣の側面へ出られるかと。ただし、道幅は狭く、大人数では動けません」


「何人通れる」


「夜闇に紛れるなら十名から十五名。多くても二十が限界でしょう」


 別の士官が顔をしかめた。


「少なすぎる。見つかれば終わりだ」


「見つからねばよい」


 ハインツは即座に切って捨てた。


「狙うのは橋ではない。敵の頭だ。指揮所を潰し、伝令線を断ち、橋の統制を乱す。混乱したところへ正面から叩き込む」


 その場にいた者たちは口を閉ざした。

 できるかどうかではない。やるしかない。


「では、誰を回しますか」


 マティアスの問いに、ハインツは一拍も置かずに答えた。


「エルネストだ。――奴を連れて来い」


 陣幕の空気がわずかに変わった。



 呼ばれたエルネストが軍議に加わる。

 そして作戦を伝えられたが、顔色ひとつ変えなかった。


 全身の包帯は外れたものの、肌にはまだ生々しい傷が残る。顔色も悪い。だが、それでもこの場の誰より現実味を持っていた。


「お前が先頭に立て」


 ハインツが告げる。


「敵指揮所に食い込み、混乱を起こせ。それだけでいい。後は本隊が橋を押し渡る」


 エルネストは黙っていた。


「できぬとは言うまいな」


 しばしの沈黙ののち、掠れた声が落ちる。


「……やってやる」


 簡単すぎる返事だった。

 まるで、自分が死地へ送られる話ではないかのように。


 それを聞いて、幹部の一人が顔をしかめた。


「大隊長。本当にこいつ一人に任せるおつもりですか」


「一人ではない」


 ハインツが答える。


「数名の戦奴隷を付ける。囮でも盾でも、なにかしら使い道はある。加えて口の堅い者を数人。橋頭を乱すまで生き残ればよい」


 露骨な言い方だった。戦奴隷たちは使い潰しの駒でしかないことを、最初から隠そうともしていない。

 だが、それで反発する者はこの場にはいなかった。


「選抜はお前に任せる、マティアス。正規兵は八。戦奴隷は五。多すぎれば足手まといになる」


「はっ」


 ハインツは最後にエルネストを見た。


「敵の頭を落とせ。橋の上の虫けらどもは、その後でいくらでも踏み潰せる」


 エルネストは答えない。

 ただ、わずかに目を伏せただけだった。




 陣幕を出ると、外はすでに薄暗かった。

 日が落ちるのが遅くなったとはいえ、川沿いの風はまだ冷たい。湿り気を帯びたそれが火照った肌を撫でていく。


 天幕のあちこちで篝火(かがりび)の準備が進められていた。

 橋の正面では、夜を迎えてなお睨み合いが続く。向こう岸にも灯が並び、ローゼン川を挟んで無数の火が揺れていた。


 その一角に、選抜された者たちが集められていた。数だけ見れば、あまりに少ない。しかし、これ以上増やせば潜行の意味がなくなる。

 少数で敵本陣へ回り込み、混乱を起こし、橋の守りを乱す。それが今夜の役目だ。


 集められた戦奴隷たちの顔には、緊張と高揚が半ばずつ浮かんでいる。

 死地に選ばれた恐怖と、あのエルネストと同行できるという期待。そのどちらも隠しきれていなかった。


「おい、本当に裏から回るんだよな……?」


 ひとりが小声で言った。顔つきは強張っている。

 握った槍の柄に、汗ばんだ指が絡みついていた。


「橋の上で蜂の巣よりはマシだろ」


 別の戦奴隷が吐き捨てるように言う。だが、その声にも余裕はなかった。


「マシ、ねぇ……」


「少なくとも、突っ立って矢を受けるだけじゃねぇ」


 そこへ、正規兵のひとりが苛立ったように口を挟んだ。


「黙れ。無駄口を叩くな」


 声をかけたのは、奇襲部隊を率いる正規兵の隊長格らしき男だった。三十前後。頬に古傷が一本走っている。

 目つきは険しいが、怯えてはいない。ただ、これがどれほど危険な任務かは嫌でも理解している顔だった。


 戦奴隷たちは口を閉ざす。沈黙のあと、その男は視線だけをエルネストへ向けた。


「お前が先頭だ」


 エルネストは答えない。


「敵本陣へ入るまで、案内はこっちがする。入ってから先は、お前が切り開け」


 それでも返事はなかった。

 男はわずかに眉をひそめたが、それ以上は言わない。さっきの会議で、ハインツがこの男をどう扱っていたかを見ていたからだ。

 下手な言葉を足しても意味がないと知っている顔だった。


 エルネストは黙ったまま、渡された剣帯を確かめる。

 腰に下げた剣は、奴隷が持つにはあまりに上等だった。砦での功によって与えられた戦利品か、あるいは接収品か。いずれにせよ、手にはよく馴染んでいる。


 病み上がりの身体には、まだ回復しきらぬ重さが残る。傷口は閉じた。だが、深いところに残る鈍い痛みまでは消えていない。

 肩を動かせば張り、踏み込めば脇腹が軋む。それでも、顔には一切出さなかった。


 隣では正規兵たちが短剣を差し込み、外套の留め具を確かめ、弓弦を張り直している。使うのは長槍ではなく、短槍と剣。林と崖道を進むには、その方が都合がよかった。


「出るぞ」


 隊長格の一声で、空気が変わった。


 篝火の明かりから離れ、部隊は西側の暗がりへ移動を始める。

 橋の正面では、正規の夜警交代が大袈裟に行われていた。あえて目立つように兵を動かし、敵の視線を橋へ縫いつけるためだ。

 陽動である。


 闇の中を進む足音は小さい。鎧の擦れる音すら、やけに大きく聞こえる。

 その途中、エルネストは不意に足を止めた。少し離れた天幕の陰に、アンナが立っていた。


 月は薄い。

 それでも、その小さな影が誰なのか見間違えることはなかった。


「……行くんですね」


 小さな声だった。


「あぁ」


 いつもの短すぎる返し。アンナはそれに少しだけ眉を寄せる。


「危ないんですよね」


「戦だからな」


 また同じだ。

 短く、乾いていて、隙がない。


 アンナは言葉を探した。

 止める気はなかった。止めたところで無駄なのはわかっている。

 なら、なにを言えばいいのか。自分でもよくわからないまま、唇だけが先に動いた。


「……戻ってきてください」


 その言葉に、エルネストはわずかに目を向けた。


 返事はない。

 無表情のまま、ただアンナを見るだけだった。

 アンナは視線を逸らさず言った。


「わたし、待ってますから」


 言ってから、自分でも少し驚いた。

 そんなことを口にするつもりはなかったのに、出てきたのはまるで帰る場所を示すような言葉だった。

 帰る場所など、自分には二度と持てないと思っていたのに、とアンナは気づいて少し戸惑った。


 エルネストの表情は変わらない。

 だが、ほんの一瞬だけ、その目が遠くを見た気がした。


「……あぁ」


 やがて返ってきたのは、それだけだった。

 アンナから視線を外し、再び闇へ向き直る。その背中に、アンナは最後にひとつだけ声を投げた。


「ちゃんと、生きて帰ってきてください」


 今度は足を止めなかった。


 隊列の後ろへ戻り、エルネストは再び他の者たちと同じ闇に紛れる。

 やがて、篝火の明かりも届かぬ林の縁へと消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ