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第21話 ざらつき

 夜明け前の空はまだ薄暗く、重く垂れ込めていた。 


 焚き火の残り火がぱちぱちと音を立て、兵たちの吐く白い息が冷えた空気に溶けていく。荷駄車の車輪が地面を軋ませ、馬のいななきが遠くで響いた。


 誰も声を出さない。

 言葉は最低限に抑えられ、代わりに金属の擦れ合う音と、革帯の締まる音だけが規則正しく響いてくる。


 進軍再開の合図は、日の出とともに鳴る喇叭(らっぱ)。その瞬間を待つように、エルネストはすでに武装を整え、陣地の端に立っていた。


 包帯は半分ほど外され、代わりに薄い鎖帷子と黒い外套を纏う。腰にはハインツから手渡された、奴隷が持つには過ぎた業物(わざもの)の剣。

 表情は変わらず、無。瞳にはなにも映っていないように見える。

 彼の周囲だけが、奇妙な静けさに包まれていた。



 その静寂を突き破るように、低く、長く、朝霧を切り裂くような喇叭の響き。


 一斉に兵が動き出す。

 隊列が整い、旗がはためき、馬蹄が地を叩く。前衛の槍兵が、ゆっくりと歩を進めた。

 その後ろに、重装歩兵、弓兵、魔術兵、荷駄隊。そして、最後尾を歩く戦奴隷の中にエルネストの姿があった。


 泥濘(ぬかる)んだ道を踏みしめ、エルネストは無言で歩を進める。

 足音は他の奴隷のそれと変わらない。ただ、その背中だけがどこか違って見えた。


 誰も触れられない、誰も寄せ付けない、凍てついた刃のような背中。

 遠く王都の玉座に座る女へ、一歩ずつ近づいていく。 


 アンナは炊事隊の荷駄車の陰から、その背中を見送っていた。

 呼びかけようとした言葉を、喉の奥で凍りつかせたまま。



 ◆◆◆◆



 ソルボ砦から南へ三日。

 ローゼン川が東西に長く横たわっている。


 ジルニッツ王国内陸の水運を担う大河だ。川幅はおよそ百メートル。その両岸を繋ぐように、古い石橋が一本だけ架かっていた。


 北岸に陣取るのは、オーランジュ大公国軍。

 南岸で待ち受けるのが、ジルニッツ王国軍。


 橋は細い。馬車がようやくすれ違える程度の幅しかなく、オーランジュが南へ渡るにはそこを通るほかなかった。


 よって、戦は単純だ。


 オーランジュは軍が橋を押し通る。

 ジルニッツは橋へ入った敵を射る。落とす。詰まらせる。


 それだけでいい。


 実際、最初に投げ込まれたのは戦奴隷だった。

 消耗品として橋へ押し出され、矢を浴び、魔力弾に弾かれ、石の上に折り重なる。盾を掲げたところで、狭い橋上では避ける場所もない。


 橋を挟んだ睨み合いが始まって二日。

 北岸には死体だけが増え続け、戦況は一歩も動いていなかった。




「例の奴隷、出てきたか?」


 ジルニッツ王国、北方国境軍副司令ランドルフ・ヴェルナー。彼が橋を見下ろす陣幕の脇で尋ねた。

 副官が返す。


「それらしき者は、未だ確認できておりません」


「……そうか」


 ランドルフは短く答えた。


 北岸の敵陣を見渡す。旗列の向こうに人影が慌ただしく行き交っている。

 距離がある以上、個々の顔までは見えないが、相手もこの膠着(こうちゃく)を良しとしていないことだけは明らかだった。


 ただの橋攻めで終わるはずがない。

 ランドルフはそう考えていた。


 ソルボ砦を落とした戦奴隷。

 『紅い悪魔』コンラートを討ち取り、砦の一部を吹き飛ばした魔力持ち。

 伝わってくる報せの一つ一つが常軌を逸していた。


 最初は誇張かと思った。だが、砦から逃れてきた兵の証言を繋ぎ合わせるうちに、さすがのランドルフも一笑に付す気にはなれなくなる。

 ただ強いだけではない。剣技も、魔術も、出自も、なにもかもが異様だった。


 ジルニッツ人。

 異常な剣技。

 魔力持ち。

 元は上位貴族ではないかという噂。


 そこまで揃えば、ひとりの男が脳裏をよぎらぬはずもない。だが、ランドルフはその考えを口に出したことはなかった。

 あまりに荒唐無稽だったからだ。


 仮にそうだとして、ではなぜ敵国の戦奴隷に身を落としているのか。

 なぜ名を捨て、姿を変え、こんな最前線にいるのか。

  

 考えるたびに、思考は霧の中へ沈んでいく。



「副司令」


 呼ばれて、ランドルフは視線を戻した。


「見張り台からの報告です。北岸にて小規模な移動あり。ですが、依然として橋正面に大きな動きはありません」


「橋に兵を寄せているか?」


「はい。戦奴隷が中心かと」


「予定通りだな」


 ランドルフは頷いた。


 敵が兵を橋正面に集めるのは当然だ。

 正面突破を諦めていないように見せるだけでも意味がある。守る側に気を張らせ、兵を釘付けにできる。

 問題は、その裏だ。


「橋の両翼、見張りを増やせ。特に西側の林縁と、下流の川岸だ」


「はっ」


「正面で動かぬ以上、敵は必ず別の手を打ってくる。あの奴隷が本当にソルボ砦の報せ通りの化け物なら、なおさらだ」


 部下が一瞬だけ怪訝そうな顔をした。


「それほどまでに警戒なさるのですか」


「当然だ」


 即答だった。


「橋の上で兵を潰すだけなら、我らが有利だ。敵もそれは承知している。ならば戦局を動かすには、橋ではない場所を崩しに来る」


 そこまで言って、ランドルフは目を細めた。


「指揮所、魔術師隊、伝令線。狙うならそのどれかだ」


 言いながら、橋の向こうに広がる北岸陣地を改めて眺める。

 どこにいるのかはわからない。だが、もしあの戦奴隷が出てくるとすれば、それはただ前へ押し出される時ではない。戦況をひっくり返す時だ。


「……来るなら、今夜か」


 誰に言うでもなくランドルフは呟いた。


 春とはいえ、日が落ちれば川風は冷える。空は薄曇りで、月明かりも弱い。

 奇襲には向いた夜だ。


「各隊に伝達。夜警を増やせ。篝火(かがりび)は絶やすな。異変があれば即座に角笛を鳴らせ」


「はっ」


 部下が駆け去っていく。


 ランドルフはなおも橋を見つめた。

 石橋の上には、昨日射殺された戦奴隷の死体がまだいくつも転がっている。引きずり下ろす余裕すらないのだろう。

 乾き始めた血が黒くこびりつき、その上を風が吹き抜けていた。


 この橋は落とさない。

 落とせば確かに敵は止まる。だが、いずれ反攻に出る時、自ら喉を潰したも同然になる。


 守り切れる。

 守り切らねばならない。


 そう考えながらも、胸の奥に沈んだざらつきは消えなかった。


 もし、本当にあの男だったなら。


 そこまで思って眉を寄せ、ランドルフはすぐにその考えを振り払う。


 馬鹿げている。

 ありえぬことだ。


 だが――。


 北岸の旗列の向こうに広がる薄闇を見つめたまま、ランドルフが長く息を吐く。

 その胸の底で、消えないざらつきだけが微かに軋んでいた。

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