第20話 知らない背中
三週間後。
オーランジュ本国から後詰めの部隊が到着した。
本来なら戦後一週間ほどで届くはずだった。だが、予想以上に早い砦の陥落が補給計画を狂わせ、増援の編成を組み直させることになった。
その分、兵たちは休めたが、同時に、後退したジルニッツ側にも軍を立て直す猶予を与えてしまった。
進軍再開の通達が出たのは、冬の気配もすっかり薄れた、よく晴れた日のことだった。
弛みきっていた空気が引き締まる。
武具の点検、物資の積み込み、兵站の確認。奴隷たちが慌ただしく行き交う中、一人の男が姿を現した。
エルネストだ。
魔力暴発から一ヵ月。全身に巻かれた包帯が未だ痛々しいが、今では自ら歩けるまでに回復していた。
顔色は悪く、足取りも覚束ない。それでも、その無表情だけは以前となにも変わらなかった。
その半歩後ろをアンナが付き従う。
これを最後に、彼女はもとの炊事係へと戻ることになっていた。
久方ぶりに持ち場へ戻ってきたエルネストは、相変わらず無表情のままだった。向けられる視線にも応えず、口も開かない。
そんな彼の肩を、筋肉の塊のような巨漢――バートが遠慮なく叩いた。
「よぉ、エルネスト! 五体満足で戻ってきやがったか! 一時は死んだって噂も立つくらい、酷ぇ有様だったんだぜ!」
病み上がりの怪我人には容赦ない歓迎だ。
さすがに骨まで響く痛みが走ったはずだが、エルネストは眉ひとつ動かさず、小さく頷くだけだった。
「エルネスト! やっと戻ったか! お前がいない間に戦が始まったらって、気が気じゃなかったぜ」
エティも声をかける。
それを皮切りに、顔見知りの奴隷たちが口々に帰還を迎えた。
もちろん、誰もが同じ顔をしているわけではない。
露骨に安堵する者もいれば、ただ遠巻きに眺めるだけの者もいる。それでもそこには、強い者を重んじるこの場所なりの空気があった。
もっとも、正規兵たちの反応は異なる。
彼らは歓迎よりも先に、恐れと緊張を覗かせた。
砦の一部を吹き飛ばしたあの日以来、エルネストが魔力持ちであることは隠しようがなかった。
魔力持ちはたいてい貴族だ。とりわけ上位の家に偏る。
それだけで十分だった。兵たちの間で、エルネストは「落ちぶれた上級貴族」という認識になっていた。
奴隷たちは畏れながらも、その力に惹かれる。
だが正規兵たちは違う。一部の幹部を除いて、多くは平民か、せいぜい下級貴族の出だ。元とはいえ、上級貴族と聞けば、それだけで身構える者が出るのも仕方のないことだった。
結果として、エルネストは奴隷たちからは以前にも増して迎えられ、正規兵たちからはより一層避けられるようになっていた。
◆◆◆◆
約一ヵ月にわたったエルネストの看病から解放され、アンナは元の炊事係へ戻っていた。
とはいえ、手が空けば相変わらずエルネストの傍にいることが多い。もっとも、彼が忙しそうにしている時は邪魔にならぬよう、自分から炊事場へ下がるようにもなっていた。
進軍を翌日に控えたある日のこと。
アンナは地下牢に収容されたジルニッツ兵の捕虜へ食事を運ぶよう命じられた。
初めての仕事だ。アンナは緊張を隠せない。
食事を入れた籠を抱え、狭い通路を進む。
饐えた臭いが鼻を刺す。肌にまとわりつく湿気。腐った藁と汚物の臭気。息を吸うたび、喉の奥がむかついた。
牢番に用件を伝え、鉄格子の前へ立つ。
ガシャリと鎖が鳴った。
暗がりの奥から、いくつもの顔が浮かび上がる。
どれもひどく痩せていた。頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、髭の伸びた口元は乾ききっている。生気は乏しいのに、目だけが妙にぎらついていた。
誰もすぐに動かない。籠の中身が食べ物だとわかってから、ようやく数人がのろのろと鉄格子へ歩み寄ってくる。
戦奴隷に落とされて以来、アンナはすっかり暦の感覚を失っていた。
自分がまだ十五なのか、もう十六になったのかも定かではない。
もっとも、それに大した意味などないことも、アンナ自身よくわかっていた。男という生き物は、相手が女でありさえすれば、それが何歳であるかなど気にしない。
抱ける身体であるかどうか。それだけだ。
嫌というほど思い知らされてきた。
だから、たとえ鉄格子越しでもアンナは男たちへの警戒を解こうとはしない。
可能な限り腕を伸ばし、硬いパンを牢の中へ放った。
乾いた音を立てて床へ落ちる。
捕虜たちが無言でそれを拾う。奪い合うほどの力も残っていないらしいが、ただ、誰もが目だけはパンに吸い寄せられていた。
割り、分け合い、口へ運ぶ。
乾いた口でそれを噛み砕く音だけが、しばらく牢の中に続いた。
その様子を見つめていたアンナの唇が、ためらうように開いた。
「あ、あの……」
話しかけられるとは思っていなかったのだろう。一人の捕虜が噛むのを止め、訝しげに顔を上げた。
「……なんだ」
「勇者……エルヴァンさん、って知ってますか?」
一瞬、牢の中が静まり返った。
やがて、男が低く答える。
「知っているもなにも……ジルニッツで、その方を知らぬ者はいない」
声には棘があった。
いまさら何を聞くのだ、と顔に書いてある。
アンナは怯みながらも続けた。
「す、すいません。それで……エルヴァンさんって、どんな人だったんですか?」
別の捕虜が顔を上げる。
目の下には濃い隈が落ちていた。
「……あんた、オーランジュの人間か」
「は、はい」
「なぜ訊く?」
「えっと……その……」
男たちの視線が集まる。
アンナは咄嗟に取り繕った。
「格好いい人だ、って聞いたから……」
「ふっ……」
数人の捕虜が、かすかに鼻で笑った。
だが、その笑いに明るさはない。乾ききって、すぐに途切れた。
「顔は知らん」
最初の男がぼそりと言う。
「だが……ブロスト家の令嬢が一目で惚れたって話は有名だったな」
「俺は見たことがある」
奥にいた男が、壁に背を預けたまま口を開いた。
「邪竜討伐の時だ。遠目だったが……そりゃあ、綺麗な顔をしてた。背も高かった。ジークリット様と並んだ姿は、まるで物語の中みてぇだったよ」
そこまで言って、男は黙る。
乾いた喉を鳴らし、わずかに目を伏せた。
「……ああいうのを、似合いって言うんだろうな」
また別の捕虜が、パン屑のついた手を膝の上で握った。
「見た目だけじゃねぇよ。あの方は……威張らねぇ方だった」
「勇者だってのに、兵にも、下働きにも、同じように声をかけるって聞いた」
「誰にでも頭を下げるような人だったそうだ。そんな英雄、他にいるかよ」
「ああ……」
誰かが短く同意する。だが続くはずの言葉はなく、そのまま沈黙が落ちた。
パンを持つ手が止まる。
視線が床へ落ちる。
誰もが同じところへ行き着いていた。
「……なのに、なんであんなことになった」
ぽつりと零れた声は、独り言のようだった。
「俺は今でも信じちゃいねぇ」
奥の男が低く言う。
「あの方が王室の跡目争いなんぞに加担したなんてな」
「するわけがねぇよ」
「嫁と娘まで殺されたって話だろ」
「一族もだ」
「そんなことして、誰が得する」
言葉が重なるたび、牢の空気がさらに沈んでいく。
「嵌められたに決まってる」
最初の男が、吐き捨てるように言った。
「勇者様がいなくなって、国はこの有様だ。砦は落ちた。俺たちはこうして薄暗い牢に詰め込まれて、明日どうなるかもわからん」
「……全部、あの日からだ」
誰も反論しなかった。
ただ、すすけた石床に視線を落としたまま、重たい息だけが漏れる。
「勇者様さえ、おられたらな……」
その一言は、願いというより、もはや死にかけた火の残り香のようだった。
アンナは何も言えなかった。
鉄格子の向こうにいるのは、自分と同じ敗者たちの顔だった。奪われ、打ちのめされ、なお生き残ってしまった者たち。
やがて捕虜たちの声は次第に大きくなり、とうとう牢番が怒鳴りつけた。
「うるせぇぞ! 黙って食え!」
怒声に押し潰されるように、会話はそこで途切れた。
捕虜たちは再び黙り込み、硬いパンを噛む音だけが湿った地下牢に残った。
牢番に追い立てられるようにして、アンナは地下牢を後にした。
石段を上る。
湿った空気が少しずつ薄れ、代わりに外の冷たい風が頬を撫でた。それでも、胸の奥にこびりついた息苦しさだけはいつまでも消えない。
勇者様さえおられたら。
最後に聞いた言葉が、何度も頭の中で反響する。
炊事場へ戻る前に、アンナは足を止めた。
中庭の向こう、荷駄の脇にエルネストの姿が見えたからだ。
包帯が巻かれたままの身体で、黙々と荷を運んでいる。
足取りはまだ重い。顔色も悪い。
だが、誰の手も借りようとはしなかった。
相変わらずの無表情だ。なにを考えているのか、やはり少しもわからない。
けれど、さっきまでとは違って見えた。
あの捕虜たちが口にしていたのは、勇者エルヴァン・レヒナーだ。
誰にでも頭を下げる人。
偉ぶらない人。
正義感の強い人。
優しい人。
目の前にいる男とは、まるで違う。
いや、違ってしまったのだと、アンナは思った。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
自分はずっと、この人を怖い存在と思っていた。
強くて、冷たくて、なにを考えているのかわからない人だと。
けれど違う。
最初からこうだったわけではないのだ。
奪われたのだ。
壊されたのだ。
自分と同じように。
――ううん。
自分などより、きっともっと。
アンナは小さく唇を噛んだ。
あの無表情の下にあるものを、知った気がした。
知ったところで、なにもできるわけではない。
消えたものは戻らない。
妻も、娘も、勇者だった頃のその人も。
それでも。
それでも、この人を一人にしてはいけない気がした。
理由はうまく言葉にできない。
可哀想だから――というのとも違う。
同情でもない。
ただ、放っておけばこの人はどこまでも遠くへ落ちていってしまう。そんな気がしてならなかった。
エルネストがふいに荷を持つ手を止め、浅く息を吐いた。その横顔はひどく白く、疲れて見えた。
アンナは、気づけば足を踏み出していた。
呼びかけようとして、声が出ない。
代わりに、ただその背中の傍まで寄る。
エルネストが一瞥をよこす。
いつもの、感情の見えない目だった。
「……なんだ」
短い声。
アンナは少し迷ってから、小さく首を振った。
「いえ……」
そこで言葉が途切れる。
うまく続かなかった。
だが、エルネストはそれ以上なにも言わず、また荷へと手を伸ばした。
アンナは黙ったまま、その隣に立つ。
前と同じようでいて、もう前と同じではなかった。
怖いから傍にいるのではない。
守ってほしいからでもない。
この人は、ひどく遠いところへ落ちてしまったのだと知ってしまったから。
そして、できるなら、もうこれ以上落ちてほしくないと思ってしまったからだった。




