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第19話 落ちた影

「勇者、エルヴァン・レヒナー」


 その名を聞いたのはいつ以来だろうか。

 はっきりとは思い出せないが、久しく耳にしていないのは確かだ。


 窓の外に広がる漆黒の闇。

 あの夜、断崖から落ちた時にその男は死んだ。いまはもう、別のなにかになっていた。



 床に広がる血だまり。見下ろす視線。不安そうな顔。

 その中心でエルネストは、身動きもせずに、ただ一点を見つめていた。

 激情はすでに消え去り、残ったのはいつもの無表情。告げられた名とは無関係であるように反応はない。


 その時だった。再び小屋の扉が開かれた。


 入ってきたのは、ハインツの副官であるマティアス。目の前の光景に驚いて脚を止め、ハインツ、エルネスト、そして床の血だまりへと視線を動かした。


 床にはアンナが座り込む。顔を鼻血で真っ赤に染め、安堵と不安と驚きが入り混じったまま、呆けたように動かなかった。


 それらをひとつひとつ確かめるように一瞥し、マティアスが口を開いた。


「ハインツ様。これは……」


「お前からの報告。あれを本人に問い質そうと思ってな。来てみればこれだ」


 小さく息を吐く。


「まさに首の皮一枚よ。劇的な登場だったな」


 ハインツが顎をしゃくる。

 血だまりの中心にラファエルが倒れていた。軽装なので最初はわからなかったが、確かにそれはハインツの甥だった。


 マティアスが訝しげに上司を見る。


「手に……おかけになったのですか?」


「規律違反を処断したまでだ。それ以上でも以下でもない。気にするな」


「……そうですか」


 それ以上、マティアスはなにも言わなかった。問いを飲み込み、目の前の光景に蓋をする。

 長年この男の副官を務めてきた者の、身に染みついた作法だった。


 そんな副官を横目に、ハインツがエルネストへ向き直った。


「エルヴァンよ。貴様の名は知っていた。この俺でもな。そしてなにが起こったのかもだ」


 エルネストは答えない。それ以前に、ハインツを見ようともしていなかった。視線はどこか遠くの一点に注がれたまま、動かない。


「とはいえ、さすがに俺も鵜呑みにするほど愚かではない。国の発表など、九割が嘘で残りは誤魔化しだからな」


 沈黙。


 かまわずハインツは続けた。


「もっとも、貴様になにがあったかなど、どうでもいい。興味もない。俺が確認したいのはひとつだけだ」


 一歩、踏み出す。


「お前のその力――最後まで惜しまぬであろうな」


 エルネストがゆっくりと視線を向けた。蒼白な顔に、かすかに生気が戻る。やがて、掠れた声が落ちた。


「……前にも言った。あの女を殺す。それだけだ」


 ハインツが満足そうに口角を上げた。


「ならばよし。俺と貴様は同じ船に乗っているというわけだ」


 そう告げると、もう用はないとばかりに身を翻した。歩き出そうとしたところで、思い出したように足を止め、振り向く。


「貴様にひとつ教えてやる。なぜ、このタイミングで我々が動いたか」


 返事を待たずに、ハインツは薄く笑った。


「貴様が消えたからだ」


 小屋の中に沈黙が広がった。


「貴様のいないジルニッツなど取るに足らん。滅ぼすなら今――そう判断したまでのこと」


 遠くを見るようにハインツが視線を外す。その横顔には、侮蔑とも憐憫(れんびん)ともつかない色が浮かんでいた。


「皮肉だな。ジルニッツは自ら守護者を捨てたのだ」


 一拍。


「精々励め」


 ハインツは背を向け、マティアスを伴って小屋を出た。

 扉が閉まる。足音が遠ざかる。やがてそれも聞こえなくなった。


 残されたのは、血だまりと、荒い呼吸と、静寂だけ。

 床に広がる赤黒い染みの上に、かつて国を照らした光の影だけが静かに揺れていた。

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