第18話 無能と無価値
飛びかける意識を、かろうじて精神力で繋ぎ止める。
それでもエルネストの視界は暗く揺れていた。
血の気の引いた顔。裂けた傷口。震える腕。
もはや身動きすら満足にできないその身体へ、ラファエルの斬撃が振り下ろされる。
迫りくる刃。
まさに絶体絶命だった。
アンナの瞳が大きく見開かれる。床に伏したまま、必死に腕を伸ばした。
届くはずのない距離だとわかっていても、それでも伸ばさずにはいられない。
指先が虚空を掻く。冷たい床板だけが、掌に触れた。
その時だった。
不意に、ラファエルの胸からなにかが生えた。
「えっ……?」
ラファエルとアンナ、二人の口から同時に声が漏れた。
振り下ろされる剣の軌跡がわずかに逸れる。髪の毛一本の差でエルネストの横を通過し、寝台の縁を深く抉った。
鈍い音が小屋に響いた。
ラファエルが自身の胸を見下ろす。
そこに――銀色の刃が突き出していた。
信じられないものを見るように、ラファエルの瞳が見開かれる。
手から剣が滑り落ち、口の端から血が溢れ、顎を伝い、床へ滴る。
その音が、やけに大きく聞こえた。
そしてゆっくりと、後ろを振り返った。
そこにいたのは――ハインツだった。
侵攻軍の大隊長にして辺境伯爵家の現当主。そして、ラファエルの叔父でもある男が、無表情のまま剣を突き出し立っていた。
切っ先はラファエルの背から入り、胸を突き破る。
返り血ひとつ浴びていない。まるで最初からそこに立っていたかのように、ハインツは動かなかった。
小屋の中に、奇妙な静寂が落ちた。
「がはっ!」
ラファエルが吐き出した。
血飛沫が舞う。両掌が赤く染まる。自身の胸を貫く刃と、べったりと濡れた掌を、交互に見つめた。頭では理解できているはずなのに、痛みがどこか遠かった。
やがて力が抜けたように膝を折る。その背に低い声が降りかかった。
「ラファエル。貴様には謹慎を申し渡したはずだ」
静かな声だった。だが、その響きは鋭く冷たかった。
「剣も取り上げた。にもかかわらず、この有様だ。――説明してみろ」
冷静だった。いや、冷淡と言った方が正しい。
底冷えするようなその声は、血の繋がった甥へ向けられるものとは思えなかった。怒りすら滲んでいない。ただ淡々と、事実を確認するような声だった。
「お、伯父上……なぜ……」
ラファエルの顔に、理解できないという色が浮かぶ。
早くして妻に先立たれ、子のいないハインツには、幼い頃から実の息子のように扱われてきた。剣術を教えられ、騎士の心得を説かれ、武家貴族として恥ずかしくないよう厳しく躾けられてきた。
遠征では小隊を与えられ、指揮を学ばせてもらった。今回の侵攻では、中隊を任されるまでになっていた。
この先さらに経験を積み、やがてはハインツの補佐として軍を支える――そう信じて疑わなかった。いや、そうなるのだと確信していた。
なのに、なぜ。
なぜ自分の胸に、伯父の剣が突き刺さっているのか。
理解が追いつかない。その疑問のせいで、胸を貫かれた痛みさえ曖昧だ。肺の中になにか温かいものが満ちていくのを感じながら、それでも意味を探し続けた。
「なぜ……だと?」
ハインツが静かに言った。
「規律違反だ。それ以外に理由があるか」
「ごほっ……き、規律違反……?」
「そうだ。お前には俺自らが謹慎を申し渡した。だが、それを破った。軍において規律違反は重罪だ。例外はない」
言いながらハインツは、ラファエルの背に片足をかけた。
剣を引き抜く。
「ごはっ!」
刃が抜けた瞬間、血が噴き出した。ラファエルの身体が崩れ落ちる。
最後の糸まで断ち切られたように、もはやその身を支えることもできない。冷たい床板に頬をつけたまま、それでも目だけは伯父を追っていた。
床に倒れ伏す甥を、ハインツが見下ろす。その瞳には、わずかな感情も浮かんでいなかった。
「お、伯父上は……俺よりも……奴隷を選ぶのですか……」
掠れた声だった。喉に血が絡み、言葉がうまく出てこない。それでも問わずにはいられなかった。
「奴隷云々ではない」
ハインツは一拍も置かず答えた。短く、切り捨てるように。
「使えるか、使えぬか。それだけだ」
間を置き、続ける。
「無能はいらぬ」
吐き捨てるような一言だった。
ラファエルの目が見開かれる。
無能。
それは彼が生涯かけて遠ざけてきた言葉だった。
だからこそ身体を鍛え、剣技を磨き、貴族としての品格を守り続けてきた。努力してきた。積み上げてきた。すべては、その一言を向けられぬために。
それが今、たった一言で崩れ去った。
積み上げてきたものが、音もなく瓦解していくのを感じた。
「俺を伯父と呼ぶなと、何度も言ったはずだ」
ハインツの声に感傷はない。
「……まぁいい。お前がここで斬られたことは、包み隠さず実家へ伝えてやる。規律違反の件も含めてな」
「う……」
「安心しろ。まだ弟がいる。フライ家の跡目には困るまい」
無能。無価値。
突きつけられた現実に、ラファエルの口はもう動かなかった。
呼吸が浅くなる。
瞳の焦点が揺らぎ始める。
冷たい床の感触だけが、かろうじて現実と繋ぎ止めていた。
そして――視界の端に、寝台の男が見えた。
それからどれほどの時が経ったのか。
息子同然の存在であったにもかかわらず、その最期を見届けることもなく、ハインツは視線を横へ流した。
「貴様ほどの男が、なんともだらしがない」
視線の先に、エルネストがいた。
抵抗した時の姿勢のまま、動きを止めている。
蒼白な顔。荒い呼吸。
それでもなお、目だけは鋭くハインツを見据えていた。消えかけた灯のような身体の中で、その二つの瞳だけが、まだ燃えていた。
「今なら俺でも殺せそうだな」
ハインツが言った。
わずかな沈黙の後、口元にかすかな笑みが浮かぶ。値踏みするような、それでいてどこか愉しげな笑みだった。
「――そういうわけだ」
静かに剣を下ろしながら続けた。
「これで貴様は、俺に命を預けたことになる」
獲物の正体を確かめる狩人のような瞳が、エルネストを見下ろす。
床ではラファエルの血が、音もなくゆっくりと広がっていた。赤黒い染みが、二人の足元へじわじわと近づいていく。
小屋の中は静まり返っていた。
やがてハインツが口を開いた。
「――勇者、エルヴァン・レヒナー」
その一言に込められた意味を理解できるのは、この場にいる二人だけだった。




