第17話 光の残滓
ソルボ砦での爆発から十日が経った。
意識不明の重体で搬送され、生死の境を彷徨い続けたエルネストは、それでも死ななかった。
まさに奇跡。――いや、そう呼ぶには語弊がある。正確には、死なせてもらえなかったのだ。
アンナが許さなかったから。
昼も夜も区別なく、汗を拭い、包帯を替え、匙で粥を口へ運ぶ。
命じられたからではない。そうしなければならないと、彼女自身が決めたのだ。
理由を問われても、うまく答えられなかっただろう。ただ、やめようと思わなかっただけだった。
小屋には定期的に物資が届けられた。
清潔な包帯。薬草の軟膏。奴隷には過ぎた食料。
それを見るたびにアンナは思う。上の者たちがこの男を必要としているのだ、生かすことに意味があるのだと。
ならば自分も、必要だと思えばいい。
そう言い聞かせながら、今日も匙を手に取った。
「はい、エルネストさん。お食事ですよ」
「……」
返事はない。いつものことだ。
口を開く。飲み込む。それだけ。
それだけなのに、アンナは笑みが零れるのを止められなかった。
起き上がることはまだできないが、かろうじて右手は動く。他はすべて包帯に縛られたままで、エルネストは寝台に横たわるほかなかった。
生きることのすべてを他人に委ねている。それでも、文句ひとつ言わずにただ黙ってされるに任せていた。
少なくとも、疎ましいとは思っていないのだろう。それだけはわかった。
ふと気づく静寂。
以前のアンナは、それが怖かった。
だが今は違う。この静けさが、どこか心地よかった。
夕暮れ時のことだった。
硬い寝台の上で、エルネストが浅い眠りに落ちかけていた頃、小屋の外で音がした。
最初は風かと思ったが、すぐに少女の声だとわかった。
「な、なんですか! やめてください!」
アンナの声だ。
バケツが転がる音。乱れた足音。男の怒声。
意識が覚醒し、嫌な予感が腹の底を冷やす。
ここは警備対象のはずだ。それでも騒ぎが起きているということは、内部の者の仕業だろう。
扉が乱暴に開け放たれる。
「おい、クソ奴隷。よくもやってくれたな」
憤怒に歪んだ顔の男が、そこに立っていた。
ラファエルである。
アンナの首に腕を回し、盾にしながら入ってくる。右手には抜き身の刃が光っていた。
鎧は着ていない。軽装だった。非番か、謹慎か、すでに任を解かれたか。
どれであっても、この男がここにいる理由はひとつしかない。
「エルネストさん、逃げて!」
アンナが叫ぶ。
それを聞いたラファエルが笑った。愉悦というより、どこか虚ろな笑いだった。
「逃げる? 見てみろよ、その有り様を。死にぞこないじゃないか。念のためお前を盾にしてみたが、どうやら必要なさそうだな」
焦点の合わない瞳。半開きの口。微妙に裏返った声。
以前の男とは別人のようだった。
アンナを放さず、用心深く様子を窺う。仲間が数秒で屠られた光景を、彼はまだ忘れていなかった。
「奴隷。俺は戦線を外された。中隊長の任もだ。後詰めが来たら実家へ帰れ、だとよ」
誰に話しかけているのか。視線はエルネストではなく、その向こうの虚空へ向いていた。
「伯父上にどうやって取り入った? 甥の俺より奴隷を選ぶなんて、どうかしてるだろ」
腕に力が込もる。アンナが苦痛に顔を歪めた。
「俺が悪いのか? 俺のせいなのか? 俺はただ、生意気な奴隷に思い知らせてやろうとしただけだ。なのに……なのに……」
エルネストは黙っていた。
それがまた、ラファエルの神経を逆撫でした。
「すべて貴様が悪いのだ! その態度も、声も、話し方も、すべてが気に入らん! 殺してやる、殺してやるぞ!」
激高とともに剣が振り下ろされる。
エルネストは右手だけで枕元の盆を跳ね上げたが、重い斬撃は防ぎきれず、切っ先が肩口を裂いた。
「くっ……」
たったそれだけだった。叫ばない。怒鳴らない。くぐもった一声が漏れただけ。
「エルネストさん!」
絶叫するアンナ。
瞳から溢れた涙が頬を伝い、顎から零れて石床へ落ちた。
その時だった。
これまで無表情を貫いてきたエルネストが、凄まじい形相でラファエルを睨みつけた。
無表情ではなく、空白でもない。それは、これまで一度も見たことのない顔だった。
燃えていた。
憤怒、と呼ぶにはまだ足りない、もっと根源的な、抑えようとして抑えきれないものが目の奥から溢れ出す。
親の仇を前にした者の顔。あるいは、守るべきものを奪われようとしている者の顔。
「ぐあぁぁぁぁ!」
迸る咆哮。エルネストが必死に起き上がろうとする。
動かない両足に力を込め、壊れた身体に命令を下した。
けれど、叶わない。どれほど精神を奮い立たせても、壊れた肉体がついてこなかった。
ラファエルが再び剣を振り上げる。
「だめぇ!」
アンナが飛びついた。身を挺してエルネストを守ろうとする。
剣の柄で顔を殴られても、腹を蹴られても、それでもラファエルを離さなかった。
「邪魔だ、どけぇ!」
だが、長くは続かなかった。
どれほど食らいつこうと、所詮アンナは小柄で痩せた少女に過ぎない。鍛え上げられた騎士の力には、どうにも敵わなかった。
壁へ叩きつけられる。鼻から血が噴き出る。
それでも床を這い、ラファエルの足を掴もうとした。その時。
「ぐあっ!」
ラファエルが肩を押さえていた。
指の間から血が溢れ、床を汚す。驚愕に目が見開かれる。
何が起きたのかわからなかった。
ただ言えるのは、アンナがやったわけではないということ。もちろんラファエルでもない。
ならば――
前を見る。
エルネストが震える右腕を持ち上げ、掌を突き出していた。
淡い光の粒子が零れ落ちる。空気が震え、かすかな焦げ臭が漂った。
魔力の残滓が、埃のように揺れていた。
その光景が意味するものを、アンナには理解できなかった。だがラファエルは違った。
「ま、魔法だと……?」
声が掠れていた。
無理もない。「魔力持ち」は千人に一人しか生まれない。それもほとんどが貴族階級からで、魔力持ちの奴隷など聞いたことがなかった。
なぜ伯父が奴隷を優遇するのか。その答えはここにあった。
魔術の才は生まれ持つものであって、努力で得られるものではない。だからこそ渇望する者は多く、得られた者は羨望を受け、得られなかった者は――
「貴様ぁ……奴隷のくせに……奴隷のくせにぃ! どうして俺が望んでも手に入らなかったものを、貴様が持っている! これほどの不公平がどこにある!」
怒りで全身を震わせる。
理性はとっくに消えていた。顔は皮を剥がれた獣のように歪み、瞳だけがぎらぎらと光っていた。
エルネストは動かない。
いや、動けなかった。
憤怒の表情を浮かべながらも、肩で大きく息をしている。顔は青白く、今にも意識が飛びそうだった。放った魔法の反動だろう。右腕がかすかに痙攣していた。
その頭へ、ラファエルが剣を振り下ろす。
ゆっくりと、しかし確実に、刃が落ちてくる。
エルネストの視界が揺れ、アンナの血の匂いが鼻を刺す。
もはや逃げ場はなかった。




