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第15話 ここだけの世界

 ジルニッツ王国の国境線上に佇むソルボ砦。

 荒れた丘陵地帯を見下ろす石造りの砦は、古くからこの地の要衝として築かれてきた。高い城壁と重厚な塔に守られ、幾度となく戦火をくぐり抜けてきた堅牢な拠点である。

 今ではオーランジュ大公国軍の制圧下にあった。

 

 その一角が突如として爆炎に包まれた。

 夜の静寂を破る轟音とともに、地下から噴き上げるように火柱が立ち昇る。

 砦の石壁を震わせる衝撃が走り、周囲にいた兵士たちは何が起こったのか理解するより先に身を伏せた。


 火元は牢獄。収容されていた戦奴隷が正気を失い突然暴れ始め、石牢という狭い閉鎖空間で爆裂系魔法を発動させたのだ。


 牢獄は吹き飛び、隣接する建物も半壊した。砕けた石材と焼け焦げた木材があたりに散乱し、瓦礫の山が通路を塞ぐ。

 炎はいくつかの施設を焼き尽くした後に鎮火されたが、焦げた匂いと煙はいつまでも砦の中庭に漂っていた。


 この出来事により、牢番一名が死亡、二名が重傷。くわえて警備兵三名が重軽傷を負い医務室送りとなった。

 そしてすべての原因となった戦奴隷は、隔離された離れの小屋で今も生死の境を彷徨っていた。



 ◆◆◆◆



「逃さんぞ、小作人ども。おとなしく縄につけ」


 甲冑の擦れる音とともに、数人の騎士が剣を構えて迫る。冷えた風が吹き抜け、枯れ草が足元でざわりと揺れた。


「お、お役人様、後生です! どうか、見逃しを!」


 騎士たちの嘲笑が聞こえる。その前で必死に叫ぶ中年の男と女。その背に隠れる少女と少年。

 粗末な衣服に身を包み、痩せた身体を寄せ合うようにして立っていた。


 その光景を眺めながら、仕立ての良い衣服に身を包んだ男が顔を愉悦で満たした。磨き上げられた革靴の先で土を踏みしめ、ゆっくりと一歩前へ出る。


「今年は冷夏だった。そのうえ水害にも見舞われた。不作もやむを得まい。だが、それは税を払えぬ理由にはならぬ。それはわかっているな?」


「で、ですから、分割でお納めすると――」


「だから言ったであろう。ならばまず、利息として娘を差し出せとな。そうすれば話を聞いてやらぬこともないと」


 言いながら役人が指を男へ突きつける。


「だが、お前はそれを断った。のみならず、勝手に土地を離れようとまでした。一体どういう了見だ?」


「そ、それは……」


「その格好、夜逃げ以外の何物でもあるまい。――さぁ、言い訳があるなら言ってみろ」


 (ねば)ついた視線。尋問の皮を被った甚振(いたぶ)り。そのすべてが嫌悪を呼び起こす。

 だが少女たちにできることはなにもない。両親の背に隠れるしかなかった。指先は震え、息を殺してその場に立ち尽くすのみ。


「忘れたとは言わせんぞ。貴様ら小作人にとって、土地を捨てるのは重罪だ」


「どうか……お許しを……」


「ゆえに、お前たち夫婦は死罪。娘と息子は奴隷落ちとする」


 その言葉に夫婦の顔が蒼白になる。

 自分たちはいい。しかし子どもたちにまで累が及ぶ現実が、どうしても飲み込めない。

 自責と憤り。言いようのない感情に支配されながら、父親が叫んだ。


「そ、そこをなんとか、お慈悲を! お役人様!」


「いいや、許せぬな。――おい、やれ」


 命令一下、騎士たちが剣を抜き放つ。

 鈍く光る刃が夕暮れの光を反射し、冷たい輝きを放った。


 少女が「おかあさん!」と泣き、少年が父親に掴みしがみつく。その小さな手が、騎士の剣影に震えていた。


 もはや彼らに、逃げる道などなかった。



◆◆◆◆



 いつの間にか眠っていたのだろう。

 びくりと身体を震わせて、アンナは意識を浮上させた。


 冷たい空気が肌を刺す。頬にはまだ涙の跡が残っていた。

 意識して忘れようとしてきた過去の記憶。夢とはいえ意図せず引きずり出されたことに、しばし呆然とする。


 涙は枯れた。そう思っていた。

 しかし頬を伝う温かな雫に否定され、忘れていたはずの感情が胸を満たす。


 突っ伏していた顔を上げて周囲を見る。

 そこはついさっきまでと変わらぬ風景だった。


 砦の離れにある粗末な小屋。

 壁は風雨に晒されて黒ずみ、隙間からは冷たい夜気が入り込む。もともとは物置に使われていたものだが、今はとある奴隷を隔離するために使われていた。


 寒空の下、軒下で夜を明かすのが日常である戦奴隷にとって、屋根と壁があるだけでも僥倖(ぎょうこう)だ。日常の雑務から解放されるなら、なおさら。


 だが、アンナの顔は浮かない。


 怪我で搬送された戦奴隷の看病をしろと命じられたのは、昨日のことだった。

 不審に思う。使えぬ奴隷は打ち捨てられるのが常である。搬送されるなど聞いたことがない。

 そうして行ってみると、そこにいたのは見知った顔。


「エルネストさん……」


 全身を覆う粗末な包帯。決して清潔とは言い難いそれが粗雑に巻かれ、木製の台の上に薄布を敷いただけの寝台に横たわっていた。

 あれだけの爆炎だ。アンナも事故のことは聞き知っていた。しかしまさか、それを仕出かしたのがエルネストだとは想像だにしていなかった。


 世話を命じられたのは、決して偶然ではないだろう。

 奴隷仲間に広まる「エルネストの女」との風評が、軍の上層部にまで届いている証なのかもしれない。

 どのみちアンナは否定するつもりもなかったが。


 見れば、意外にも顔の傷は浅かった。

 意識はない。目を閉じて眠っている。

 いつもの無表情は変わらないが、眉間のしわが幾分か浅い気がした。


 汗を拭き、替えの包帯を巻く。

 水で唇を湿らせ、部屋の空気を入れ替える。

 

 ――恩返し? それとも、ただ生き延びたいだけか。

 

 ふと、エルネストを見る。

 お世辞にも状態が良いとは言えない。


 恐らく彼は死ぬだろう。

 それまで何日かかるかはわからないが、それでも、できることはしてあげたい。

 そう思った。



 その時だった。不意にエルネストの口が動いた。

 意識がないのは変わらない。ただ、唇だけが小さく震えていた。

 普通ならば聞き取れなかったかもしれない。だが、静寂に満たされた小屋の中ではっきりと聞こえた。


「ヘンリケ……」


 アンナが息を殺す。


「ジークリット……」


 声が途切れた。


 聞き覚えのない名前だった。そもそもエルネストが人の名を口にしたのを、初めて聞いた。

 一番近くにいる自分でさえ、名を呼ばれたことはない。


 女性の名だろう。それはわかる。

 妻か子か、もしくはその両方か。


 思えば自分はエルネストのことを何も知らない。

 噂によればジルニッツ人らしいが、ここへ来た理由も、故郷を侵攻する軍に加わっている事情も、なにもかもわからなかった。

 そもそも、エルネストという名前さえ、本名かどうか定かではないのだ。


 ふと、顔を見る。頬を涙が伝っていた。

 そして再び唇が動く。


「ヘンリケ……ジークリット……すまない……本当にすまなかった……」


 とめどなく溢れる涙を、そっと指ですくう。

 それはとても温かかった。


「俺は……俺は……わからなかった……なにを守るべきだったのか……」


 この人は傷ついている。

 無表情という名の鎧をまとい、決して感情を表に出さないが、その内側では血と涙が止まらずにいる。

 アンナには、そう見えた。


 それきりエルネストが声を漏らすことはなかった。

 再び静寂が小屋を満たす。

 ただ、エルネストのかすかな寝息だけが、静かに続いていた。


 ここだけの世界。

 扉の向こうになに一つ広がっていないような気がした。

 まるでこの粗末な小屋だけが、世界から切り離されてしまったかのように。

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