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第12話 束の間

「それはいったいどういうことだ!? なにがあった!?」


 野戦テントに怒号が叩きつけられた。

 薄い布一枚で隔てられた外の風がびくりと震え、天幕の継ぎ目から細い砂埃が舞い込む。

 幾人もの兵たちが背筋を伸ばし、肩をすぼめ、視線を彷徨(さまよ)わせて嵐が通り過ぎるのを待っていた。

 喉が渇く。唾を飲み込む音すら、この場では不作法に聞こえた。


 ここは国境沿いのソルボ砦からジルニッツ王国内へ三日ほど入った野戦指令所。移動式の簡易テントが立ち並ぶその中心で、壮年の男が口角を飛ばした。


「まさか、我らを油断させるための陽動ではあるまいな。もちろん確認はしているのであろう?」


「はっ! 同様の報告が複数上がっておりますし、早馬を飛ばして現地を確認してもいます。その結果ですので、事実に相違ありません」


「うぬぅ……」


 目つき鋭く、自身の顎を撫でる男――ジルニッツ北方国境軍副司令ランドルフ・ヴェルナーは、もたらされた報告を咀嚼しかねるように、眉間へ皺を寄せた。


 無理もない。ソルボ砦の総司令、コンラート・カーミールといえば、敵のみならず味方からも『ジルニッツの紅い悪魔』と恐れられ、名は国境を越えて周辺諸国へまで響いている。


 その彼が、瞬殺された。


 しかも相手は、兵の中でも最下層に沈められた戦奴隷だという。

 人間扱いすらされず、家畜の方がまだマシと言われる境遇の者が、単騎で「紅い悪魔」を屠った。

 あまりに出来すぎていて、嘘だと断じたくなる。だが、報告は一本ではなかった。複数。しかも現地確認の追認つき。つまり――紛れもない事実である。


「しかし……それにしても、なぜ戦奴隷などと一騎打ちする羽目になったのだ? 仮にも砦の司令たる者があまりに迂闊(うかつ)ではないか」


 ランドルフの声は低く、怒りというより疑念に濁っていた。副官は背筋をさらに固くし、即座に返す。


「報告によれば、司令が出なければならないほどの手練れがいたとか。実際に、その戦奴隷には一個中隊ほどの人数を殺られておりますし、放置すれば敵軍の突破を許すことにもなりかねなかったと聞いています」


「一個中隊……」


 ランドルフが吐き捨てるように復唱した。歩廊に転がる死体の山が脳裏に浮かんだのかもしれない。

 血に濡れた石、滑る足元、断末魔の熱……そういう光景は、報告書の紙面からは決して立ち上がらないのに、言葉の端々から生々しく漏れてくる。


「あのコンラートが一撃か……それで、その奴隷とやらは何者なのだ? それだけの手練れなのだから、これまでも戦果を上げているのであろう?」


 答えを引き出すというより、己に言い聞かせているような口ぶりだった。副官は短く息を吸い、首を垂れる。


「それが……この度初めて目撃された者でして……正体はまったくの不明です。ただいま総力をあげて情報を集めておりますので、いま暫くの猶予をいただきたく」


「ふむ……」


 知りたいことになに一つ届かない。

 ランドルフの表情からは不機嫌が滲んだが、感情のままに声を荒げるほどの短気はない。貴族出身の高位武官として、それだけの理性は備えている。

 最前線ゆえに手入れが行き届かず、無精髭の目立つ顎を撫でながら、ランドルフは再び口を開いた。


「まさか地から湧いてきたわけでもあるまい。これまでも何処(どこ)かしらに名を残しているはずだ。――記録を調べよ。騎士団の名簿、傭兵組合の登録、地方領主の私兵記録……すべて洗い出せ。オーランジュのみならず周辺諸国まですべてだ。もちろん我が国もな」


「はっ!」


 命令一下、副官が踵を返して走り出す。テントの入口が捲られ、外の光が一瞬差し込む。

 ランドルフはその背を見送ったまま、しばし黙していた。


 胸の奥で、ひとつの感情がざらりと動く。

 警戒――ではない。嫌悪――でもない。もっと冷たく、もっと厄介なもの。


 それは『制御不能な変数』への苛立ちだった。



 ◆◆◆◆



 それから数日が経った。


 あれほど血の臭いにむせ返るようだった砦の中庭も、今やすっかり片付けられ、以前のような落ち着きを取り戻しつつある。

 もちろん、臭いが消えたわけではない。洗っても石の目に染み込んだ鉄の匂いは残るし、日が当たれば脂の甘ったるさがふと鼻先を刺す。


 砦を落としたことで戦の前線はジルニッツ側へ四キロほど前進し、後詰めの部隊が到着次第、再び進軍を開始する手筈(てはず)になっていた。


 戦がなくとも、戦奴隷の手が休まることはない。日常の細々とした雑務はもとより、拠点の整備、バリケードの敷設、食料の運搬、行軍の準備……役務は尽きず、押し付けられる先は決まっている。

 正規兵も働くが、「汚れる仕事」の多くは奴隷の肩へ落ちてくる。それが、この軍の秩序だった。


 それはエルネストも例外ではない。先の砦戦では単身で敵司令を討ち取るという戦果を上げていようと、所詮は戦奴隷。与えられる仕事は同じだ。

 血に染みた衣を着替える時間すら惜しいように、黙々と運び、積み、整える。


 その隣にはアンナがいた。

 普段の彼女は奴隷たちの(まかな)い婦を務めている。鍋をかき混ぜ、硬いパンを配り、ぬるい水を回す。けれど、それ以外の時間、彼女は意識してエルネストの近くに身を置いた。

 理由はひとつ。生き延びるため。


 今やエルネストの実力を疑う者はいない。そして、この砦の空気は恐ろしく単純だった――強い者の近くは安全だと、皆が知っている。


 アンナはそれを利用した。いや、利用せざるを得なかった。彼の近くにいるだけで、男たちの視線が変わるのだ。

 以前なら、にやけながら触れてきた手が、今は途中で止まる。乱暴もなくなった。誰が言い出したのかは知らないが、噂はもう根を張っている。


 ――あれはエルネストの女だ。


 肝心のエルネストは、それについてなにも言わない。いや、気にかけてさえいないように見える。

 会話がないのも不自然なので時折アンナが話しかけるが、その多くは返事のないまま流される。それでも、たまに頷きや「あぁ」という短い声が落ちる。


 疎ましいと思っているようには見えないが、優しいとも違う。たぶん、そもそも「そこ」に感情が向いていないだけなのかもしれない。


 アンナは常にエルネストの半歩後ろを歩き、男たちの視線が逸れる瞬間を、肌で感じ取っていた。


 進軍が始まるまでの束の間、そんな日常が続いた。



 その日の夕暮れ時。仕事が一段落ついたエルネストが砦の回廊を歩いていると、背後から甲高い声が刺さった。


「おい貴様。先日はずいぶんと恥をかかせてくれたな」


 まだ変声期さえ迎えていないような、中性的にさえ聞こえる声。

 聞き覚えがある。取り巻きの靴音が二つ、揃って近づく。金具が鳴る。鎧の擦れる音が、狭い回廊でやけに響いた。


 しかしエルネストは振り向かない。関係ないと言わんばかりに歩みを続け、通り過ぎようとした。


「ラファエル様に返事しろ!」


 取り巻きの巨漢が肩を掴み、


「先日の無礼は許さんぞ!」


 痩せた方が唾を飛ばす。


 だが、返事はない。その沈黙が、相手の癇に障ったのだろう。巨漢の指の力が衣越しに食い込み、引き倒そうとした。


 エルネストがようやく立ち止まり、ゆっくりと振り向く。

 そこにいたのは、大隊長の甥――ラファエル・フライ。顔を真っ赤に染め、目尻を吊り上げ、怒りで呼吸が浅くなっている。

 取り巻き二人も同じ顔ぶれだ。あの指令所で、声だけを大きくしていた連中。


 エルネストの視線はまず肩の手へ落ち、それから取り巻きの顔へ移った。まるで、邪魔な荷物の位置を確認するような無機質さで。

 それがまた、ラファエルの神経を逆撫でした。


「貴様ぁ……重ね重ね愚弄しやがって……俺をフライ伯爵家の次期当主と知っての狼藉か!」


「……」


「それだけでも万死に値するが、まずは先日の態度を謝罪してもらおうか! さぁ、そこに(ひざまず)け!」


 名門の名。血筋。地位。ここではそれが刃よりも強いことがある。普通なら逆らえない。気に障ったというだけで手打ちにされても抗議はできない。

 にもかかわらず、エルネストは視線を向けようとしない。返事もない。ただ、肩に置かれた手だけを見つめていた。


 取り巻きが一斉に口を開く。


「おい貴様! ラファエル様が話しているのだ、返事くらいしたらどうだ!」


「あまりに不遜なその態度。先日は許されたが今日は許されると思うなよ!」


 掴む手に力が込められる。引き倒す。押し付ける。肩を揺さぶる。


 ――だが、動かない。


 エルネストの身体は、微塵もずれなかった。粗末な衣を纏っただけの男が、まるで石柱のようにそこにいる。取り巻きの腕だけが震え、額に汗が浮く。


 ラファエルの怒りが臨界へ達した。


「貴様ぁ! おとなしく謝れば許してやろうという、この俺の温情を無視しやがって! 許さんぞ、そこへ直れ!」


 狭い回廊に鎧の擦れ音が反響し、三人の影がエルネストを壁際に追いつめる。逃げ場のない石壁が、冷たく背中に触れた。


 抜刀したラファエルが、勢いよく剣を振り下ろす。

 刃が落ちる風切り音。鎧が鳴る。怒気が熱を帯びて回廊を満たす。


 対してエルネストは、わずかに身を屈めただけで、寸前で(かわ)した。髪の先すら触れない距離で、刃が空を裂く。


 戦奴隷は戦闘時以外、武装が許されていない。帯剣どころか鎧もない。反乱を防ぐための鉄則だ。

 それはエルネストも例外ではない。


 鼻息荒く剣を構えるラファエルたち三名に対して、粗末な衣服を(まと)っただけの彼は完全な丸腰だった。


 片や完全武装の騎士三名。片や寸鉄も帯びぬ一人の奴隷。

 もはや結末は誰の目にも明らか――そう思わせるには十分な光景だった。

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