第11話 誰がための褒章
やがて、部屋からエルネストが退出し、集められていた幹部たちもそれぞれの部隊へと戻っていった。
残ったのは、ハインツとその副官であるマティアス・ヘーゲルだけ。
重い扉が閉まり、広かった室内は急に静けさを取り戻す。 ハインツが扉の鍵をかけ、窓の外を一瞥してから振り返った。
「よろしいのですか?」
主語のない短い言葉。しかし彼らにはそれで十分だった。
辺境伯爵家に生まれたハインツは、乳母――すなわちマティアスの母に育てられた。
幼少期から同じ屋敷で過ごし、同じ食卓を囲み、同じ教師の下で学んだ二人は、血の繋がりこそないものの、ほとんど兄弟のような関係である。
公の場では上司と部下。しかしこうして二人きりになると、空気は自然と昔のそれに戻る。
マティアスの問いに、ハインツは小さく肩をすくめ、言いようのない苦笑を浮かべた。
「問題ない」
「しかし、あの不遜な態度はさすがに看過しかねます。あれを許すことが、兵たちが貴方様を軽んじる原因にならないとも限りません」
慎重な口調だが、その奥には副官としての危惧が滲んでいた。
軍という組織において、規律は絶対だ。たとえどれほどの功績を立てようとも、秩序を乱す存在は本来許されるべきではない。
ハインツはゆっくりと首を振った。
「言いたいことはわかる。だが放っておけ。それを差し引いてもあれは使える」
言葉は淡々としている。そこには人を評価する温度ではなく、道具の価値を測る冷静さがあった。
それへマティアスが答える。
「そうでしょうか。確かにあの『ジルニッツの紅い悪魔』を倒したのは称賛に値しますが、それとこれとは話は別です。軍の風紀、ひいては兵たちの秩序を守るためにも、あの奴隷には態度を改めさせるべきかと」
「無駄なことはよせ」
ハインツは椅子の背に体を預け、顎を軽く撫でた。
「そもそもあれがそのようなことを聞き入れる玉に見えるか? 彼奴が何者かは知らぬが、権力に諂うつもりがあるなら、とっくにそうしていただろう」
そう言って、しばし中空を見つめる。
脳裏には、先ほど対面した戦奴隷の姿が浮かんでいた。
焼け爛れた顔。感情の見えない瞳。あれほどの腕を持ちながら、まるで己を誇る様子もない。
あれは、普通ではない。
「……あれだけの腕なのだから、以前は相当に名を売っていた者に違いない」
やがてハインツは視線を戻した。
「そこでだ、マティアス。――お前に命を下す」
マティアスが背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「はっ! なんなりと」
「ジルニッツ国内において、ここ数年内に失脚、追放、処刑された者を調べろ。中でも騎士、剣士、闘士などを中心にだ。恐らくはエルネスト――もちろん偽名だろうが――彼奴の正体はそこにある」
マティアスはわずかに眉を動かした。だがすぐに深く頷く。
「かしこまりました。さっそく手配いたします」
「それともう一つだ」
ハインツの声が少しだけ低くなる。
「我が愚かな甥を見張れ。奴のことだ。面子を潰されたなどと言って、あの奴隷に因縁をつけるくらいはするだろう。目立たぬように監視し、それとなく守ってやれ」
「はい。そちらも私にお任せを」
果たして守るべき対象はどちらなのか。それを明言することなく、ハインツは踵を返した。
その背を見送りながら、マティアスが小さく頷く。
彼にはわかっていた。
主君が本当に守ろうとしているのが、どちらであるのかを。
◆◆◆◆
「ようエルネスト、やっと戻ってきたか。なぁなぁ、大隊長の用って一体なんだったんだ?」
死体運びの現場へ戻ってきたエルネストに、真っ先に声をかけたのはバートだった。
砦の中庭には未だ血の臭いが濃く残る。兵たちは敵味方の死体を分別し、武具を外し、次々と積み上げていく。
戦の終わりとは、いつもこういう作業から始まる。
エルネストがバートの問いに小さく頷く。しかしそれ以上なにも語らず、黙って死体を担ぎ上げた。
その様子を見た周囲の奴隷たちも自然と作業の手を止める。
彼らの視線には、明らかな変化があった。
好意。羨望。あるいは、わずかな畏怖。
戦奴隷とは、いつ死ぬかわからない存在だ。
犯罪者、脱走兵、異端者――社会から弾かれた者たちの寄せ集め。負傷しても治療はされず、動けなくなればその場で捨てられる消耗品。
これならば庇護のある家畜の方が遥かにましだ。
そんな世界で唯一意味を持つもの。
それが――力。
強い者の近くにいれば、生き延びる確率が少し上がる。それだけの理由で、彼らの視線は変わっていた。
エルネストはそれすら気づいていないかのように、黙々と死体を運び続ける。
「なんだよお前。相変わらずダンマリかよ」
今度はエティが声をかけた。
「敵の司令を倒すなんざぁ、誰にもできねぇことを成し遂げたんだぜ。少しは愛想良くしたっていいじゃねぇか」
言葉は辛辣だが、声色はどこか柔らかい。
彼もまた、エルネストの力を認めざるを得なくなっていた。
「それで、褒章はもらえたのか?」
エティが身を乗り出す。
「お前が倒した奴ってな、曰くつきのヤツだったそうだぜ。おかげで戦がすぐに終わったんだから、お前の手柄って相当でかいんだろ?」
その問いに答える前に、バートが豪快に笑った。
「がははは! おいエティ、俺たち戦奴隷はどんなに手柄を立てたって、なんも貰えやしねぇよ。精々が正規兵に登用してもらえるのが関の山だ。まぁ、それも願ったり叶ったりだけどな」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
エティが慌てて叫ぶ。
「まさかそうなのか!? おいエルネスト!」
エルネストは黙ったままだ。
「勘弁してくれよ……俺はあと三戦なんだ!」
エティの声は半ば悲鳴に近い。
「三戦生き残れば、こんなクソみてぇなところから抜け出せるんだ! 妹に会えるのに……お前がいなくなったら――」
その言葉を、バートの笑い声が遮った。
「だから言ってんだろ」
顎でエルネストを示す。
「こいつがそんな褒章を受け取ると思うか?」
視線が一斉に集まる。
そこには、相変わらず無言で死体を担ぎ続けるエルネストの姿があった。
半分が焼けただれた顔から表情は読めないが、その沈黙がすべての答えなのだろう。
そのときだった。
「あ、あの……」
遠慮がちな小さな声。
振り向くと、そこに立っていたのはアンナだった。
痩せた身体。腕や首筋には、奴隷仲間に弄ばれた痣がまだらに残っている。だが最近では、彼女に手を出す者はいない。いつの間にか、こういう噂が広がっていたからだ。
――あれはエルネストの女だ。
アンナはエルネストの背へ頭を下げた。
「私は後方へ下がることになりました。皆さんの食事番が新しい仕事です」
小さな震える声で続ける。
「エルネスト……さん、あなたが口をきいてくれたと聞きました。こんな私のために……本当に……ありがとうございました」
エルネストの肩が一瞬だけ止まる。けれどなにも答えない。振り向きもしない。
まるでなに事もなかったかのように、再び死体を担ぎ上げた。
それでもアンナの表情には、安堵が浮かんでいた。たとえ一瞬でも、自分の言葉にエルネストが耳を傾けた事実がそうさせたのだろう。
それだけで十分だった。
アンナは何度も頭を下げた。
その様子を見て、エティが叫ぶ。
「おいおいマジかよエルネスト! せっかくの褒章を、こんな小娘にくれてやるなんて正気か!?」
信じられないという顔で叫び続ける。
「どうして自分のために使わねぇんだ、もったいねぇ! せめて俺たちのために使うとかよぉ、他になんかあんだろ!」
責めるようなエティの言葉。
だがエルネストは、ただ黙っていた。
視線も向けず、ただ、ひたすらに死体を運び続ける。
まるで、最初からそれ以外のことには興味がないかのように。




