第1話 絶望
久しぶりの新作です。
楽しんでいただければ嬉しいです。
体が重い。
それが最初に戻ってきた感覚だった。
次に、冷たさ。
石壁が背中に張りつき、鎖が手首に食い込んでいる。
それがなんなのかを理解するより先に、血と薬品の匂いが鼻を突いた。
目を開く。
視界が揺れる。輪郭が滲み、焦点が定まらない。
しかし、ここがどこなのかは、すぐにわかった。
牢だ。自分は牢にいる。
ではなぜ、という問いが浮かぶ。しかし答えが追いつかず、記憶が断片的にしか繋がらない。
熱を孕んだ視界。絡みつく柔らかな感触。耳元で囁く、甘く澄んだ声音——。
それが夢だったのか現だったのか。その境界すら、まだ霞んでいた。
「どうじゃ、意識は戻ったか?」
艶を含んだ声。エルヴァンの脳裏に疼くような記憶が蘇る。
格子の向こう。コルネリアはゆっくりと首を傾げた。
「なにを、そのような顔をしておる。いい加減に目を覚ませ」
「……妃殿下……貴女様はなにを……」
その声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。コルネリアは小さく息を吐き、退屈そうに肩をすくめる。
「なに、とな? つれぬことを申すでない。この十日間、其方はよく励んでくれたではないか。……そうか、憶えておらぬか。それはまた残念であったな。記憶に残っておれば新たな武勇伝に加わったものを」
コルネリアが意図的に言葉をぼかす。
だが、意味を理解するより先に、エルヴァンの脳裏を断片的な感触がかすめた。
柔らかく、甘く、熱い吐息。
「まさか……」
「まさか、とはなんじゃ? まったく、酷い男よのぉ。それを女の口から言わせるか」
コルネリアは一歩、格子へ近づいた。その声は限りなく優しい。
「わらわは其方に子種を注ぎ込んでもろうたのじゃ。この十日間、毎日のぉ。さすがのわらわも最後は腰が立たなくなったわ。大枚を叩いて取り寄せた薬だけのことはある」
「そんな……」
エルヴァンの指が無意識に格子を掴む。震えが止まらない。
それを眺めながらコルネリアが淡々と続けた。
「案ずるでない。昨夜は陛下にも抱いてもろうたからな。わらわが懐妊したとて、誰が疑おうか。髪の色も似ておるゆえ、露見することもなかろうて」
「妃殿下……貴女というお方は……」
「ともあれ、事は済んだ。医師も申しておったぞ、懐妊は間違いなしとな。果たして生まれ出る子が『魔力持ち』であるのか否か、今から楽しみなことじゃて」
「そ、そんな……それでは王家の血筋は――」
「そんなもの、わらわの知ったことではない。わらわは自身の血と、我が一族、ベッケンバウアー家が続けばそれでよいのじゃ。産まれる子は陛下のお子として育てるのじゃから、なんら問題はない」
「し、しかし、そんな無体が罷り通るとは思えません! 必ずや露見して――」
「馬鹿を申すでない、露見などするはずがなかろう? なぜなら、これを知る者はみな非業の死を遂げるのじゃからな。――エルヴァン、もちろんお前もじゃ」
差し込む西日が逆光となり、王妃の顔は判然としない。けれど笑っているのは明らかだった。
思わずエルヴァンは両手で格子を握りしめた。
「妃殿下! 貴女様はご自身がなにをなさろうとしているのかわかっているのですか!? これは明らかな反逆行為です! 国に対する裏切り以外のなにものでもありません!」
「なにを言う! それと同じことを陛下にも言うてみぃ! 我がベッケンバウアー家は、王家とともに建国の父ルードルフから続く由緒正しき血筋なのじゃぞ。言わば第二の王家でもある」
王家。その言葉に、背後に佇む騎士長が背筋を伸ばした。
「にもかかわらず、あんな女に現を抜かして血を薄めようなどと――」
怒りを思い出したのか、コルネリアが一瞬だけ拳を強く握りしめた。しかしそれも長くは続かず、突如思い出したように話題を変えた。
「まぁ、よい。目的はすでに果たした。あとは其方の始末のみじゃ。とは言え、我が系図に『魔力持ち』の血をもたらしてくれたことには感謝しておる。ゆえに、ささやかな余興を用意した。楽しんでもらえれば幸いじゃ」
「余興……?」
言葉の響きに違和感が残る。遅れて、じわりと悪寒がせり上がってきた。
「のぉ、勇者エルヴァンよ。其方は家族を大切にする男であったな」
その一言がエルヴァンの心臓を強く脈打たせた。しかし言葉が出てこない。
コルネリアが指先で格子に触れる。冷たい鉄の感触を確かめるようにゆっくりなぞり、告げた。
「さて――そろそろ役者は揃う頃合いじゃ」
遠くから足音が近づいてくる。軽いものと、ためらいがちなもの。そしてそれらを導く重い足取り。
それは「嫌な予感」という言葉では到底足りない、もっと根本的な恐怖だった。
やがて足音が止まり、騎士の影が僅かに割れて背後から二つの影が現れた。
「ジークリット……」
「あぁ、あなた……!」
懐かしくも聞きなれた美しい声音。
エルヴァンの呼吸が止まる。これまで何度夢見てきたことか。再びその声を聞くことを。
しかし顔を上げかけて躊躇する。薄闇の中でも焼け爛れた顔は隠しようがない。皮膚は引き攣り、変色し、乾いている。
表情を作ろうとするだけで顔面に痛みが走った。それでもエルヴァンは無理に口元を緩めて顔を上げた。
「ちちうえ! ちちうえぇ!」
幼い声が響いた。最愛の娘が格子の間から小さな手を伸ばし、エルヴァンも鎖に引かれながら手を伸ばす。
そして指先が触れた瞬間、娘は泣き止み――固まった。
「……ちち、うえ……?」
最愛の娘――ヘンリケが不思議そうに、驚いたようにまじまじと見上げる。つられて妻――ジークリットも視線を上げて息を吞んだ。
エルヴァンが咄嗟に顔を背けて言う。
「大丈夫だ。少し……不格好になっただけだ」
どこが大丈夫なのか。ジークリットは問おうとしたものの、咄嗟に言葉が出てこない。代わりに守るようにしっかり娘を抱きしめた。
その胸の中でヘンリケは父から目を離そうとしない。
父の姿を見つめる穢れなき瞳。それは怖いのではなく、幼さゆえに理解できないだけだった。
沈黙を破ったのはコルネリアだった。
「可愛らしい娘じゃ」
石牢の壁をなでる柔らかな声。
さらに笑みを深めてコルネリアが言う。
「これで役者は揃った」
「ひ、妃殿下……!?」
いまさらながらに気付いたのか、ジークリットが慌てて娘の手を引き、石床に頭が触れそうなほど深く頭を下げる。
「気づかず……大変なご無礼を……」
「よい。無作法を咎めるつもりはない」
それは慈悲すら感じさせる穏やかな声音だった。
コルネリアが一歩前へ出る。牢の薄闇の中でもその笑みはやけに鮮明に見えた。
「其方が勇者の妻か。なるほど……」
言いながら値踏みするような視線を母と娘に向ける。それから小さく息を吐き、口元に手を当てた。
「さて、これよりささやかな余興を始めようではないか。のぉ、勇者殿よ」
「妃殿下……」
思わずエルヴァンが呼びかける。
それは制止なのか懇願なのか自分でもわからない。
しかしコルネリアはそれには答えず、微笑んだままジークリットへ声をかけた。
「ジークリットと申したか? エルヴァンの妻よ」
「は、はい」
「其方、聞かされておらぬようじゃのぉ。其方の夫は罪人なのじゃ」
「つ、罪人……?」
「そう、罪人じゃ。罪名は――」
一拍。
「姦通」
意味が理解されるまでわずかな間があった。
ジークリットが首を横に振る。
「そ、そのようなことを、この人が――」
「事実じゃ」
コルネリアが遮り、断定する。
「夫ある身のわらわに無理強いし、幾度も交わり、この身に子を宿させた。王妃に対する不敬としては十分であろう?」
反論の余地はなかった。
真実かどうかは問題ではない。王妃がそう言ったならばそれが事実になる。
コルネリアが続ける。
「ゆえに」
一瞬の溜め。
「一族郎党、すべて処断とする」
一切の感情も迷いも含まれない、あまりに平坦な言葉。
空気が止まり、ジークリットの唇が僅かに動く。
「そ、そんな……」
ジークリットが本能的に娘をかばって一歩下がった。
「案ずるでない。すぐに終わる」
慰めるような声音。だが、その優しさは処刑人のそれだった。
コルネリアが視線を横へ流した。
「騎士長」
「はっ」
呼ばれた騎士長――ルッツが一歩前へ出る。
その掌は汗ばみ、指先は白んでいた。
「命令じゃ。その娘を処せ」
「は……?」
思いもよらぬ命令に、思わずルッツが訊き返す。
それは不敬な態度と言うよりなかったが、咎めることなくコルネリアは再び告げた。
「わらわの言が聞こえぬか? その娘を処せと申しておろう。よもや聞けぬとは申すまいのぉ?」
舌なめずりするような粘ついた声。
エルヴァンが叫んだ。
「やめろ……! 俺を殺せ……いくらでも罪を着せろ……だから娘は……」
「お願いです……どうかこの子だけは……」
ジークリットも崩れるように膝をつく。ヘンリケだけはなにも理解せず、不思議そうな顔をするばかり。
その姿を前にルッツは動かない。剣を抜くこともできず、ただ立ち尽くす。
コルネリアの声が静かに落ちた。
「騎士長……聞けぬのか?」
その一言ですべてが決まる。ルッツの目から迷いが消え、ゆっくり剣を抜き放った。
金属の擦れる音がやけに大きく響いた。
そして言う。
「許せ」
「ルッツ、よせ! やめろ! お前はそれでいいのか!?」
エルヴァンが必死に叫ぶ。しかし、ルッツの心は動かない。
彼とても妻も子もいる身である。ここで逆らって巻き添えを食う選択はない。
ジークリットが娘を抱きしめる。逃げようとしないのは、すでに逃げ場がないことを理解しているからだ。
エルヴァンが格子を掴んで力の限りに叫んだ。だが、鎖が身体を引き戻し、どんなに手を伸ばしても届かない。
剣が突き出される。
鈍い音。
ジークリットの体がわずかに揺れて、その胸の中の小さな体も動きを止めた。
声は出ず、ただ静かに崩れ落ちる。
石床に広がる血だまりだけが現実を告げ、その光景を胸に刻み込んだ。
エルヴァンの喉から声にならない咆哮が漏れる。
それは叫びというより、なにかが壊れる音のようだった。




