Grumpy Cup - グランピー・カップ -
今日が始まるだけ……。
朝の陽射し差し込む窓辺にて、真中沙代里・50歳は大あくびをしている。
「よく寝たな。今の精神薬と眠剤、バッチリだわ」
散らかった部屋はゴミ屋敷とは呼び難い。お屋敷ではないから。お隣のくしゃみも聞こえるような古いワンルームマンションの中、グチャグチャの部屋に置かれた玩具の人形のごとくに動く沙代里。否、そんなに無機質ではないか。子犬のように蠢く少女……いや、そこまで無邪気ではない。
ただ、沙代里は部屋と同じくどこかが雑だ。大雑把だ。しかし散歩している犬などには声を掛け、飼い主に必ず挨拶を交わすような細やかな情を持つ。
長い緑の黒髪をポニーテールにしつつ、短いようで長かったこの1月からの約3カ月を想う。
(もう盗んじゃダメよね)
あの夜、インターホンが鳴った。
「はい」と沙代里が返事をしても相手は何にも言わない。不審に思い覗き穴を除くが、相手は覗き穴から見えない所にいるらしい。気になって仕方がないのでドアを開けた沙代里。
「警察です。何の事か……わかる?」
沙代里は足が付いたかと観念した。
「ああ、薬屋の事?」
「うん、わかってるなら話が早いね。行こうか」と警察官。
警察で1時間ぐらいの事情聴取。
沙代里は逃げる気は無かった。無理だと思った。
隠しカメラに映っている自分を見せられた。
「これ、真中沙代里さん? あなたですか?」
「……はい」
そして逮捕状が発布され、沙代里の細い手首に手錠がはめられた。手錠と繋がっている腰紐も沙代里を捕らえた。
蜘蛛の巣に絡め取られた蝶ほどジタバタしない。沙代里は不名誉にもこんなの慣れっこなのだった。
*
沙代里は今、新緑のフワフワした森を自宅から見下ろしボンヤリ誓う。
(もう盗まない……)
あんまり自信はない。
拘置所を出所したのがこの間の4月。
(寒かったな。国選弁護士が生活保護費をおろして持ってきてくれるまで心も寒く、ひもじかった)
拘置所に入っている他の未決囚はおやつが自由に買えているんじゃないかと羨んでいた。しかし、お金が手元にあっても、糖尿のある沙代里にはおやつは限られる。
糖尿のみならず精神病を持っている沙代里は希望したし、拘置所の配慮だったのか、さっそく独居房に収容されていたので、雑居房の様子は想像でしかないが……。その想像がつくゆえんは沙代里が4回懲役に行っている事からだ。
「ンー、今度捕まったらまたムショだわ。嫌だから盗まない」
そもそもなぜ沙代里が拘置所に正月から花芽吹く季節まで居たのか……。罪名は窃盗だった。
沙代里の初めての万引きは5才の時。スーパーでチョコレート菓子を盗り、そのまま開けて食べた。すぐに母親に見つけられ、ぶん殴られた。
ぶん殴られただけで何の意味が分かる?
しかし沙代里はその時(ダメな事なのか。殴られたくないからもうできない)と感じた。
『殴られたくない一心』で抑えつけていた欲望が再発したのは小学校2年生の時。
お菓子が欲しいから万引きを繰り返した。
中学生になると、グレた沙代里は、制服のセーラー服とスカートを改造する資金集めの為、恐喝に手を染める。気の弱そうな女子を見つけては、睨みを利かせ、言う言を聞かなければ殴り蹴倒し「金を出せ」と従わせた。
今振り返っても、沙代里には『何で物を盗んじゃいけないのか』理由が分からない。
母親から虐待を受け続け育った沙代里は、殴られ、鼻血を出している間中も、自分が今何をされているのか、どうして叩かれるのかも理解できなかった。
当然だろう。正当防衛以外の暴力を理解し、受け止めるなど狂気の沙汰ではないか?
今回は……ドラッグストアで咳止めシロップを盗んだ為の逮捕だった。監視カメラに映っていたのだ、沙代里が。
沙代里は元々ヤク中だ。刑務所へ4度行ったのは皆覚せい剤使用が発覚した為だった。
クスリを憶えたのは、自立してから暮らし始めた東京の勤め先である居酒屋の寮生活中での事だった。
沙代里は一生懸命ホール係をこなしていた。怖い母親から逃れせいせいした心地で寮に暮らしていた。
「沙代里、あたしの部屋、来なよ。いいもの見せてあげるから」
店の休日の夜、沙代里を普段かわいがってくれているハタチの民子先輩が悪戯な目つきをして言った。
当時18歳の沙代里は好奇心旺盛だった。
(なんだろう?)
すぐに民子に従い隣の部屋へ行った。
(えっ! ダレ、この男!)
男性が入ってはいけない筈の寮。民子の部屋にはニヤニヤしている中年男性が居た。
注射器を持っている。
(まさか?!)
「姉ちゃん、あんたもシャブやるか?」と男。
(やっぱり覚せい剤……)
クスクス笑いながら、蛸のような動きをしている民子が沙代里を誘った。
「最高に気持ち良いわよ?」
民子のそばへ座り、ゴクリと生つばを飲み込む沙代里。
「あたしも、やりたい」
そこから沙代里の地獄が始まる。
確かにハイになった。しかし沙代里はいつの間にか中年男性と裸で抱き合っていた。後から気色悪くなった。そして、明け方近くになると爆発的なダルさと憂鬱・倦怠感だ。翌日の仕事が辛かった。
民子はその度に「楽にしてあげる」と言っては、また男の居る自室に沙代里を呼び、同じ事を繰り返させた。いわゆる『ヅケられて』行った状態の沙代里。薬漬けにさせられて行った訳だ。
そんな異様なテンションの上がり下がりを繰り返す中、沙代里に異変が起きた。
『バッドトリップ』だ。
クスリに惚け、数時間し、風呂に入っていた。
キーンと辺りが静まり返り(バスルームに盗撮器が仕掛けられている! 盗聴器もある!)と感じる。覗かれている気配。
この妄想は留まる事を知らなかった。遂に沙代里は(殺される! つけられている! 誰かがあたしを狙っている! 殺される!)との悪魔的な疑念に取り憑かれ、仕事どころではなくなった。
そんな最悪な状況の中、初めて手錠をはめられた。民子もだった。中年男についてはわからない。
刑務所では真面目に過ごし、割と早く出所できた沙代里。
しかし被害妄想が治まらない。
沙代里は考え付いた。ハイになり続けておけばこの恐怖心から逃げられる。
それでクスリにまた手を出した。遅れて出所した民子に付きまとわれていた沙代里が、クスリを手に入れるのは簡単なことだった。
その後3度も繰り返し捕まり懲役へ行った。
出所したが、クスリの後遺症がたまらない。でもいい加減にもう捕まりたくはない。どうして良いかわからない。
沙代里は、殺されちゃいけないと被害妄想を120%信じ込み、東京から京都へと逃げた。逃げた先では、即入寮可能な風俗店へ勤めた。
そこで、信じられないようなミラクルが起こった。
京都へ引っ越した当時30歳の沙代里の挙動不審な様子を見て、親身になってくれた嬢が居たのだ。嬢といっても、彼女・直美は沙代里の10歳年上のベテラン風俗嬢だ。
「未由ちゃん」
未由は沙代里の源氏名だ。
「なんですか? 直美さん」
「あんた、病院行ったほうがええで。うちが連れてったるわ」
金髪の長い巻き毛をかき上げながら直美が言った。
未由こと沙代里の吸っているタバコを持つ指が震える。
「え、な、何で? 何の病院?」
「精神科や」
その日のピンクサロンは暇だった。昼の女の子は未由と直美だけだ。直美のはっきりとした、それでいて優しさを含んだ言葉を聞いた途端、沙代里から堰を切ったように涙が溢れ出た。
(あたしは、あたしはなんなの? あたしは未由なんかじゃない。体なんて張りたくない。あたしは沙代里だよ! あたし、逃げてきたのに怖さが止まらないっ!)
「シャブか?」
直美は言い当てた。
「……」
何も言えない沙代里。
「うちのツレでおるから知っとる。心配せんでええ。誰にも言わへん」
ところで沙代里は、その時点でも相変わらず万引きは止まっていない。でも、その時も盗みについて罪の意識がない。
『何で盗んじゃいけないのか』良くわからない。
沙代里は生まれて初めて精神科へかかった。直美が静かに付き添ってくれた。
万引きの事は一切問題視していないので「見張られているから筆談でお願いします」とドクターに、薬物が与えた苦しみについてだけを伝えた。
若い男性・小野内ドクターは、とても安心感を与える医師だった。
「なるほど。真中さん、ここは大丈夫ですよ。ただ、あなたが安心するまで筆談しましょう」と応じてくれた。
初診で沙代里は、PTSD・境界型人格障害・強迫観念などとカルテに記された。
*
「明日、精神科通院だな」とアイスクリームをムシャムシャ頬張りながら沙代里。
20年経った今では小野内先生に声を使って自分の症状を訴えるまでに、薬物の後遺症は回復している。追跡妄想を沙代里が数値で表すとする。当初が10なら今は3といったところだ。
小野内ドクターは、沙代里が拘置所に入っている際『カウンセリング』と称し、外へ連れ出してくれた。沙代里を週に一度は拘置所から病院へ連れて行き、外の空気を吸わせてくれた。
独居房は心の病を持つ沙代里にとって、他者に気疲れせずに済むというメリットがあるが、音も何にもない所で長時間一人きりでひたすら『反省だけをしなければならない』ので、イライラがジリジリと押し寄せてきておかしくなりそうになる。それでも他者に気を遣う雑居房よりはましだが。
拘置所では6時半起床。布団をたたむ。そして朝食を7時に食べ終わる。
7時~お昼12時まではつまんない独りぼっちの反省会だ。イライラする中沙代里は思った。
(あたしまた、刑務所へ行くのかな……)
3月初旬。第1回公判を迎えた。
その時沙代里はびっくりした事があった。
東京の裁判ではこんな事がなかった。
(え?! 万引きの裁判でこんなに?)
沙代里が振り返ると、物凄い数の傍聴人がいたのだ。今でもその理由は謎だ。
裁判の前、国選弁護士からは「落ち着いて冷静に答えるように。素直に事実だけを受け入れるように」とアドバイスされていた。
思いのほかたくさんの傍聴人がいる中(あたし、旨く受け答えできるかな)と沙代里は緊張した。
裁判官が事件の詳細を述べる。
盗みを悪い事とも思えない沙代里は、述べられたって罪の意識を感じ得ない。もう一人の自分が自分を見、その事を不思議がっているのが救いか?
「間違いないですか?」と、裁判官の口から聴こえてきた。
その通りだったので沙代里は「はい、間違いありません」と答えた。
検察官が次に言った。
「更生への道よりも、クスリの威力のほうが大きいですか?」
ムカッとするが、相手は検察官だ。沙代里はそういうものだと流れを知らないでもない。
「そんな事はありません」
弁護士も言う。
「真中さんは改善の余地があります。真中さんは、盗癖を持ち苦しむ仲間のグループミーティングへ通うと話しています。真中さん、あなたはグループミーティングへ行くつもりですか?」
沙代里ははっきりと答えた。
「はい。行きます」
懲役を免れるためにはそう言うしかないではないか。
*
第2回公判は4月中旬だった。
それまで、いつも通りに6時半に起床し、7時までには朝食を済ませる。
夜の入浴時間も長くは取られていない拘置所のスケジュール。刑務所暮らしを何度もしている沙代里にはおなじみの生活である。
第2回公判当日の朝、いきなり刑務官が部屋に入って来た。
「真中、ある物全部鞄に詰めといて」
歯ブラシやコップ、石鹸など沙代里の私物の事を言っている。
沙代里はハッとした。
(釈放だな)
それはこれまでの経験上分かった。公判後にもし刑務所行きが決まるなら、再度拘置所にいる必要性があるのだ。
第2回公判の為外へ連れ出された際、沙代里は……満開の京都の桜に心奪われた。
桃色と桃色でおしゃべりし合うかのようにトンネルをつくる花々に息を飲んだその時……なぜだか涙がこぼれた。
自分でも良くわからない。(やった! 帰れる!)という喜びの涙ではなかった。
実は沙代里、盗癖と薬物依存に呆れられ、夫に離婚を申し渡された経験を持つ。
東京にいた頃だ。2度目と3度目の懲役の間に電撃結婚していた。相手はフツーの会社員だった。
夫と見た目黒川の桜が美しかった。とても。
「被告人は前に」
裁判官が述べる。
「主文、被告人は懲役一年、執行猶予三年とする」
(帰れる!)
これは刑務執行が猶予されたという意味だ。
3年間罪を犯さなければ、刑務所行きにはならないという意味。しかし罪を犯せば直ちに懲役なのだ。
*
沙代里は、お金がないから盗む。
しかし、お金があればあるだけ全部使ってしまう。
つまり、お金はどのみちなくなり盗む。
今は捕まりたくない思いだけが彼女をありふれた日常に繋ぎ止める。
(あたしは……満たされるということを知らないのかな。満たされた記憶が無いのかなぁ)
優しい夫との結婚生活の間にも、市販薬のオーバードーズと万引きを辞められなかった。辞めようと思ったことも無い。
今沙代里が飽きずにスプーンを舐めながら食べているアイスクリームは、盗んで来た物ではない。お金を払って買った。
沙代里は母を愛している。あんなに毎日殴られたのに。もうおばあさんだから殴って来ない。
むごいよね。
グラスに水を入れれば、簡単にいっぱいになり、溢れるのに……月は決まってお行儀よく欠けようが、ふっくらと満ちるのに……海だって潮が引こうとも、また満つ。
無花果は夏から秋へとたわわに実をつける。漢字はこうだが、美しい花さえつけるのに、だ。
それなのに。
沙代里は満タンじゃないのか?
それともいっぱいいっぱいなのか。
もしくはあるがままの姿なのか?
沙代里がアイスクリームを食べ終えた。
ピンクの口紅を丁寧に塗り直し、嬉しそうにドアを開け出て行った。
※ この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
今日も始まるだけ。




