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炎の犬  作者: REE
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炎の犬 罪と許しの間に

火は、暮らしを守る道具にもなれば、すべてを奪う牙にもなります。

同じ炎が、ある夜は鍋を温め、ある夜は家族の時間を灰に変える。

人はその残酷さを知っていても、なぜか火の光に見入ってしまうことがあります。

この物語は、ひとりの男が「炎」によって人生を断ち切られ、

そして同じ「炎」によって再び人生を問われるところから始まります。

主人公・加賀谷吉行は、かつて警察犬訓練士として働き、

犬の嗅覚と忠誠心を信じ、人の命を守る側にいました。

けれど一夜の火事が、家族も仕事も誇りも奪い去り、

彼を社会の外側へと押し流していきます。

立ち直るための言葉は見つからず、正義は届かず、

ただ夜だけが続く――そんな場所で、彼は犬と出会います。

犬は、事情を聞きません。

理由を問いません。

ましてや裁きもしません。

ただ、そこにいて、温度を渡してくる。

その沈黙が、どれほど人を救うのか。

私はそのことを、犬と生きる日々の中で何度も見てきました。

本作で描きたかったのは、単なる復讐譚ではありません。

「罪」と「許し」の間で、人はどこに立てるのか。

裁くことと、赦すことは、本当に対立するものなのか。

そして、赦しとは“忘れること”ではなく、

焼け跡にもう一度光を当て直すことではないのか――

そんな問いを、加賀谷と共に歩きながら探していきます。

この物語には、正しい答えを持つ人物はいません。

誰もが欠け、誰もが迷い、誰もが遅れてやってきます。

けれど、犬だけはいつも“いま”を生きています。

過去に縛られた人間の隣で、

犬は黙ったまま、朝を知っている。

その姿が、絶望の底にいる人の背中を、ほんの少しだけ押すことがあるのです。

『炎の犬』は、終わりよりも、始まりに近い物語です。

焼けたものの大きさを嘆くのではなく、

焼け残ったものの温度を確かめるための物語。

もしあなたが、過去の炎を抱えたまま立ち尽くしているなら、

この物語が、小さな灯りのように寄り添えたらと願っています。

――心が壊れたとき、そっと寄り添ってくれたのは。

言葉ではなく、沈黙のままこちらを見上げる、あの存在でした。

それでは、『炎の犬 罪と許しの間に』を、どうぞ。


第一章火事


その日は、訓練が長引いた。冬に近い夕暮れは早く、運動場の土は冷え、犬の吐く白い息が薄闇の中に途切れがちに漂っていた。時計は午後七時を過ぎていた。加賀谷吉行は、最後の褒め言葉を若いシェパードの耳元でささやき、短い撫でで訓練を締めくくった。耳の奥に染みついた、犬の体温と毛の匂い。これが彼の一日の終わりを告げる合図だった。


駅までの道を早足で歩く。ポケットの中のスマホは沈黙したままだった。妻のかおりからのメッセージは、いつもなら「夕飯は温めて食べてね」と短い。娘のよしこは、今日は眠っているだろう。小さな寝息の横で、かおりは絵本を閉じ、明日の保育園の準備をする、そんな情景を思い描くと、自然と足取りが軽くなった。


最寄り駅に降りると、冷たい風が頬を刺した。自宅へ続く坂道の下の方から、耳慣れない騒めきが立ちのぼってくる。サイレンのけたたましさ、無数の靴音、そして焦げた匂い。風が一陣、上がってくる。鼻腔に突き刺さるその匂いに、加賀谷の背筋は氷のように硬直した。


走った。心臓が暴れ、吐く息が喉を焼く。曲がり角をいくつも飛び、最後の横断歩道を越えたとき、視界が一気に赤く開けた。立入禁止の黄色いテープ、光るヘルメット、泡立つ放水。火はすでに鎮まりつつあったが、黒い煙がまだ空の高みへと爪を立てていた。


人だかりの向こうに、自分の家があった。窓は割れ、煤で黒く濡れている。足が止まった。世界が遠ざかり、音が遠のく。テープをくぐろうとした腕を、誰かの手が掴んだ。


「だめです、まだ危険です!!」


制服の警官が押しとどめる。なおも体をよじって進もうとしたとき、背後から落ち着いた低い声がした。


「加賀谷さん。危ない。」


振り返ると、コートの襟を立てた男がいた。杉本紘一。顔の半分が炎の赤に照らされ、もう半分が夜に沈んでいる。


「中には・・・」言いかけて、言葉が喉で砕けた。担架が二つ、視界の端を横切った。シートに覆われた小さな影と、大きな影。足元が崩れ、膝がアスファルトに落ちた。叫び声は出なかった。代わりに、息がひとつ、砕けて消えた。


杉本が肩を掴んだ。

「いまは入れない。救急が…」


「妻と、娘が……」


自分の声ではない声が口から漏れた。杉本は一瞬だけ目を閉じ、小さくうなずいた。言葉は、なかった。加賀谷は立入禁止のテープの前で、静かに崩れ落ちた。体のどこかが泣き叫んでいるのに、耳は沈黙しか拾わなかった。


夜が更けるほど、現場は冷えていった。放水の匂いと煤の匂いが混じり、靴底に水音がまとわりつく。捜査員が行き交い、記録係がシャッターを切る。そのすべてが遠い。杉本は加賀谷の横に、黙って立っていた。何も言わず、ただそこにいた。


やがて、聞き取れない声の断片が耳に落ちた。

「……出火は玄関側……」

「……油の匂い……」

「……故意の可能性……」

放火、という語が、背中に冷たい針のように刺さった。


どれほど時間が過ぎたのか分からない。空の色がわずかに薄くなり始めたころ、杉本が静かに言った。

「加賀谷さん。必ず、捕まえる。」


そのときの「捕まえる」が何を意味するのか、説明は不要だった。加賀谷は頷くこともできず、ただ拳を握った。指の爪が掌に食い込み、じわりと血の温度を感じた。


数か月が過ぎた。葬儀の香の匂いも、弔問の言葉も、すでに遠い。部屋は片づけられ、季節は少しだけ進み、風の匂いが変わった。


ある午後、杉本が訪ねてきた。古い喫茶店、金属のスプーンがカップに触れる音。杉本は封筒を机に置いた。中には、調書の写しが数枚。


「捕まった。」


その一言に、空気が止まった。


「十五歳の少年だ。名前は未成年だから言えない。火をつけた理由は曖昧だ。悪ふざけだった、という供述。油を撒いて、火を点けて、逃げた。」


加賀谷は何も言わない。テーブルの木目の一点を見つめていた。


「家庭裁判所に送致になる。恐らく少年鑑別所収容となるだろう。」


カップが小さく鳴った。加賀谷の指先が震えていた。


「法律の、限界だ。」杉本は、まっすぐに言った。

「だが、限界があることは、俺たちが何もしない理由にはならない。俺は現場に残る。お前は・・・」


言葉が途切れた。残りの言葉は、言えない言葉だった。


加賀谷は、ゆっくりと息を吐いた。息は冷たく、肺の奥が痛んだ。

「ありがとう。」


それは礼ではなく、別れの言葉に近かった。


喫茶店を出ると、午後の斜めの光が街に落ちていた。車の音、人の声、どれもが遠い。加賀谷は駅へ向かう道を、逆に歩いた。家のない帰途。風が吹くたび、遠いサイレンの幻聴が耳の奥で鳴った。


その夜、彼は川へ向かった。黒い水面に街の明かりが崩れて映る。手すりにもたれた体は、軽く、空っぽだった。岸辺に打ち上げられた段ボールの影のそばで、一頭の野良犬がこちらを見ていた。痩せて、毛は乱れているのに、瞳だけがまっすぐだった。


「お前は、どこへ帰る。」


犬は答えず、ただ近づいて、足元に座った。冷たい鼻先が、手の甲に触れた。そこに、温度だけがあった。加賀谷は、その温度に指を沈めた。


夜風の中で、決意は音もなく形成されていった。生き延びるための、もっとも静かなかたちで。炎の記憶は消えない。だが、その縁に、かすかな光が滲んだ気がした。犬の瞳に映る、川沿いの灯りのように。


第二章絶望


朝の光が、ビルの隙間から薄く射しこんでいた。

冷たい風が川沿いのベンチを撫で、新聞紙が一枚、ゆっくりと舞い上がってゆらりと落ちた。

加賀谷はそのベンチの下に身を寄せ、くたびれた毛布にくるまっている。そばには

古びた段ボールとどこかで拾ってきたキャリーその上には束ねた衣服が無造作に重なっていた。

すぐそばには一頭の雑種犬が丸くなって眠る。

茶と白がまだらに混じった毛並みは薄汚れていたが、瞳だけは澄んでいた。

名前は「シロ」。

二年前、河川敷で衰弱していたところを加賀谷が拾った。

以来、唯一の相棒だった。


加賀谷の手元には、昨日集めた小銭と、空になった焼酎の瓶。

指先には、まだ犬用ビスケットの匂いが残っていた。

「シロ、おはよう。」

犬が顔を上げ、尻尾を小さく振った。

その仕草が、かつて訓練場で見たシェパードのそれと重なり、胸の奥が痛んだ。

人を信じ、命令を待ち、ただひたすらに忠実であろうとする瞳。

その真っ直ぐさが、今の自分には眩しすぎた。


河川敷の橋下で笑い声がした。

若いカップルがスマートフォンを構え、こちらにやってくる。

やがてシロに向かって手を叩いていた。

「かわいい」

シロが合図を受けたように立ち上がり、くるりと回って伏せ、前足を伸ばして「お辞儀」をした。

カップルは拍手し、私の横にある“缶“に小銭をに入れる。

「お前はえらいな。」

加賀谷は微笑みながら、器の中の金を取り出し、犬に小さなビスケットを与えた。

それが今日の「仕事」だった。


「お前はいいよな、犬が稼いでくれて。」

隣のホームレスがぼそりと言った。

「俺たちは朝から晩まで空き缶拾いだ。」

加賀谷は反応しなかった。

言葉の代わりに、薄い焼酎をひと口だけ流し込んだ。

喉の奥にしみる痛みが、かえって心地よかった。


かつて、自分は「命を救う側」にいた。

警察犬を訓練し、事件を追い、悲しみに寄り添う人々のもとへ駆けつける。

だが今は、失った命の側に立っている。

世界は皮肉だ、と加賀谷は思う。

正義も努力も、炎ひとつで簡単に灰になる。


夜の帳が降りるころ、川沿いの風は骨の奥まで冷たくなった。

空き缶を転がすような風の音に混じって、犬の寝息が聞こえる。

加賀谷は古びた段ボールの上で、焚き火を囲んでいた。

炎は小さく、息を吹きかければ消えてしまいそうなほど頼りない。

けれど、闇の中でそれだけが「生きているもの」に思えた。


「寒いな、シロ。」

犬が顔を上げる。

炎がその黒い瞳を照らした。

シロは小さく鼻を鳴らし、加賀谷の膝に頭をのせた。

その温もりが、唯一の救いだった。


どこからか、焦げた匂いが風に乗ってきた。

最初は焚き火の煙のせいだと思った。

だが、次の瞬間、シロが短く吠えた。

「どうした?」

犬は低く唸り、暗い方角を見つめている。

川の向こう、住宅街の奥に、赤い光がちらりと揺れた。

”炎。“


加賀谷は立ち上がった。

だが足が動かない。

視界の奥に、かつて見た光が重なる。

遠くの闇の中で、また誰かの家が燃えている。

人の叫び声は聞こえない。ただ火だけが、夜の空を赤く染めていた。

火の粉が風に乗って、加賀谷の頬を掠めた。

その瞬間、5年前の声が甦る。

「よしこ!!」


膝が崩れた。

彼は焚き火のそばに座り込み、肩で息をした。

火は暖かいはずなのに、胸の奥は冷たく、凍りつくようだった。

犬がそっと彼の膝に顔を寄せた。

「大丈夫だ。」

声は震えていた。

夜の川面に、赤い光が揺れ、ゆっくりと消えていった。


それから数日、街はざわついていた。

空き家が燃えたとか、誰かが通報したとか、そんな断片的な話を加賀谷は耳にした。

ホームレス仲間たちは、ただ好奇心混じりにそれを話すだけだった。

彼らにとって「火事」は他人事だ。

凍える夜に手を温めてくれる火だけが現実だ。


加賀谷は何も言わなかった。

ただ時折、空を見上げていた。

雲の間にのぞく星の光が、遠くで揺れている。

あの火のように。


ある夜、シロがまた低く唸った。

加賀谷が顔を上げると、河川敷の向こうに人影があった。

若い男だった。

コートのポケットに片手を突っ込み、うつむいたまま歩いている。

その歩き方に、胸騒ぎを覚えた。


男はふと立ち止まり、ライターの火をつけた。

小さな炎が顔を照らし、その瞬間、彼の瞳が赤く光った。

風が吹き、炎はすぐに消えた。


その夜、加賀谷は長い間眠れなかった。

焚き火の火が小さくなり、シロが寄り添っても、胸の奥のざらつきは消えなかった。

「人はなぜ火をつけるんだろうな……」

独り言のように呟く。

答えはない。

ただ、夜明けがゆっくりと川を照らし、灰になった焚き火の跡に、細い煙がまだ立ち上っていた。



第三章炎の記憶


川辺の朝は静かだった。

風は冷たく、夜の霜がまだ草に残っている。

焚き火の跡から立ちのぼる白い煙が、薄い陽光の中でゆらゆらと漂っていた。


加賀谷はシロの首輪を直し、短いロープで手首に繋いだ。

このところ、夜の河川敷に警察の巡回が増えている。

「放火が続いてるんだとさ。危ないから火は控えろってよ。」

隣に座る年配の男が、寒そうに肩をすくめながら言った。

加賀谷は黙ってうなずいた。

心の中では、その言葉が何度も反響していた。


放火が続いている。


炎という言葉は、彼の記憶を容赦なくえぐった。

五年前の夜、赤く染まった空、妻と娘の声、

そして、立入禁止のテープの向こうで膝をついた自分。


あの夜から、炎は敵だった。

だが今、目の前の小さな焚き火だけが、

唯一、自分を温めてくれるものになっている。

皮肉なものだ、と加賀谷は思った。


風の中で、遠くからサイレンが鳴った。

その音に、シロが身を起こした。

耳を立て、じっと北の方角を見つめている。

「また、か……」

加賀谷は呟いた。

街の向こうに、薄く煙のようなものが立っている。

空が赤く染まり、夕日なのか炎なのか分からない。


その夜、河川敷には一晩中、冷たい風が吹いた。

ホームレスたちは焚き火を消し、段ボールを畳んで静かに寝床に潜った。

加賀谷だけが目を閉じられなかった。

風の音の向こうに、かすかな笑い声のようなものが聞こえた気がしたのだ。

それは子どもの声にも、青年の声にも聞こえた。


翌日、橋のたもとで、加賀谷はひとりの若い刑事に声をかけられた。

「ここで何か見ませんでしたか?」

女の声だった。

髪を後ろで束ね、真っ直ぐな目をしている。


「昨夜の火事、近くにいた人を探してるんです。」

「火事……?」

加賀谷は表情を変えずに答えた。

「いや、知らん。」


刑事は少し間を置き、じっと彼の目を見た。

その視線の中に、彼はかつての自分を見た気がした。

信念と使命で動く若者の眼。

それは、失ったものの眩しさを突きつけてくる。


「もし何か見たら、警察署に連絡ください。」


「俺みたいなのが、何を見たって関係ねぇだろ。」

声は静かだったが、その奥に沈んだ怒りがあった。

刑事は小さく頭を下げ、立ち去った。


その背中を見送りながら、加賀谷は気づいた。

若い刑事の前を、もう一人の刑事が歩いている。

少し猫背で、コートの襟を立てた男。

顔を上げたとき、彼はすぐに思い出した。


“杉本。”


五年前、焼け跡の前で自分の肩を掴んだ刑事。

「まだ、現場にいるのか。」

加賀谷は呟いた。

杉本は一瞬こちらに目をやったように見えたが、声はかけなかった。

風の中で、ふたりの距離はそのまま残った。


その夜、加賀谷は久しぶりに酒を買った。

コンビニの裏で、火の気のない焼酎を抱え、

シロの背に顔を埋めた。

「また、誰かが火をつけてるのか……」

その声は震えていた。

過去が再び歩き始める気配。

だが、まだその先に誰がいるのかは見えない。


風が吹き、川面がわずかに揺れた。

遠くでパトカーの赤い光が反射している。

加賀谷の目の奥に、それがゆっくりと滲んでいった。

あの夜の炎と同じ色で。


第四章再会


川沿いを渡る風が、冬の匂いを運んできた。

加賀谷はその日も、シロとともに町の外れへ向かって歩いていた。

昼間の陽ざしは薄く、コンクリートの隙間にしみ込んだ冷気が靴底から伝わってくる。


橋を越えた先に、小さな商店街があった。

昔ながらの八百屋、クリーニング店、シャッターを下ろした文具店。

その一角にある、古びたコインランドリー。

ガラス越しに、男がひとり、洗濯機の前に座っていた。


あの目を、どこかで見た気がする。


彼は20歳前後に見えた。

黒いパーカーのフードをかぶり、無言で洗濯槽を見つめている。

中で回る衣類の音が、低く、一定のリズムで響く。

煙草の火がちらりと光り、顔の輪郭を一瞬だけ照らした。

加賀谷の胸が、わずかにざわめいた。


そのとき、シロが小さく唸った。

男の視線がわずかにこちらに動く。

だが、何の言葉もなく、また煙草の先に視線を戻した。


「行こう。」

加賀谷は声をかけ、シロの首輪を引いた。

振り返らずにその場を離れたが、背中の奥で何かが動いた気がした。

記憶の底で、あの夜の焦げた空気が蘇る。


数日後、加賀谷は偶然、その男の姿を再び見た。

今度は町外れの空き地だった。

冬枯れの草が揺れ、夜風が冷たく吹き抜ける。

男はしゃがみ込み、ポケットから何かを取り出していた。


“ライター”


火花が散り、瞬間、オレンジの光が草の影を照らした。

だが男はすぐに火を消し、何事もなかったように立ち上がった。

その仕草の丁寧さ、そして何よりも火を見つめる眼差し。

加賀谷は、5年前の放火犯の少年に重ねた。

無表情で、どこか怯えたような瞳。


「まさか……。」

言葉が喉で途切れた。

シロが低く唸った。

男はこちらに気づき、わずかに笑ったように見えた。

だが何も言わず、暗がりの中へと消えていった。


その夜、加賀谷は眠れなかった。

段ボールの上で身を起こし、暗闇に向かって呟く。

「もし、あれがあの時の少年なら……」

五年の歳月を越えて、再び巡ってきた「火」。

偶然ではない、そう思うには十分すぎた。


彼は知らず、シロの頭を撫でていた。

犬の体温が、掌に確かな現実を伝えてくる。

「シロ……俺は、何をすればいい?」

犬は答えず、ただ静かに息をしていた。


川の向こうで、またひとつ灯が揺れた。

小さな光だが、加賀谷にはそれが夜を裂くように見えた。

炎はまだ遠い。

だが、確実にこちらへ向かっている。



第五章犬たちの沈黙


夜が深まるたびに、川面の光が少しずつ遠のいていった。

加賀谷はその日、シロを連れて町の裏通りを歩いていた。

凍えるような風が吹きつけ、街灯の明かりが黄色く滲んでいる。

昼間に見た男、その青年の顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。


「五年前のあの少年、彼かもしれない。」

言葉にしてみても、現実感がなかった。

ただ、あの火を見る眼だけは異様に感じた。

恐怖と興奮が入り混じったような、奇妙な光。

それは炎を見慣れた者の目だった。


加賀谷はシロのリードを握り直した。

「もし、あいつが本当に…」

その先の言葉を飲み込んだ。

言葉にしてしまえば、後戻りできなくなる気がした。


翌朝、河川敷に霜が降りた。

白く濁った空の下、加賀谷はシロを連れて歩きながら考えていた。

ただの偶然なのか。

それとも、あの男が再び火を求めているのか。


犬が突然、立ち止まった。

風の中で何かの匂いを嗅ぎ取ったようだ。

鼻を高く上げ、尻尾を硬直させている。

加賀谷の胸に、かすかな緊張が走った。

「おい、シロ……どうした?」

犬は返事の代わりに、川の向こうを見つめ続けた。


そこには黒い煙が立ち上っていた。

また火事だ。

だが、もう驚きはなかった。

心のどこかで、いつか起きると分かっていた。


加賀谷は静かに焚き火の棒を握った。

「炎は、あいつを呼んでいるのか……それとも俺を試しているのか。」


火事の跡地を遠くから見た。

焦げた木材、溶けた窓枠、漂う油の匂い。

そのすべてが五年前と同じだった。

ただ違うのは、今度は加賀谷が警察の外側にいることだった。


その夜、加賀谷はシロの隣にもう一頭の野良犬を見つけた。

黒い毛並みの混じった若いオスだった。

怯えてはいるが、目には闘志があった。

「お前、捨てられたのか?」

犬は答えず、ただ一歩、近づいた。


加賀谷はポケットから古びたパンを取り出し、そっと差し出した。

犬は躊躇いながらも食べ、やがて加賀谷の足元に身を寄せた。

その姿を見ながら、加賀谷の胸にひとつの考えが浮かんだ。

もう一度、訓練してみるか。


「命令を聞くこと。それが生きる術だ。」

彼は小さく呟いた。

その言葉は犬に向けたものだったが、同時に自分自身にも向けていた。

五年前、自分は守るために犬を教えていた。

今度は復讐のためかもしれない。


次の日から、加賀谷は夜明け前に犬たちを連れ出すようになった。

河川敷の奥、誰も来ない空き地で、彼は昔の癖を取り戻していった。

「伏せ」「待て」「行け」短く、静かな声。

シロが先に動き、新しい黒犬がその後を真似る。

最初はぎこちなかった動きも、数日で形になっていった。

ある日は、朽ち木を十字に立それに服を着せた。

袖を咬ませては加賀谷は「よし、いいぞその調子だ」

と叫んでいた。

犬たちの呼吸がそろい、動作が揃うたびに、

加賀谷の心にもわずかな秩序が戻ってきた。

犬を通してしか取り戻せない自分。

だがその安定の底には、

燃えさしのような黒い感情が確かに眠っていた。


「もう一度、火を見せてやる。」

加賀谷は呟いた。

それは犬への命令ではなく、自分への誓いのようだった。


夜風が吹き抜け、焚き火の火が揺れる。

オレンジの光が、加賀谷と犬たちの瞳に映る。

その光は、祈りか、あるいは復讐の炎か。

彼自身にもまだ分からなかった。



第六章杉本の訪問


冬の風は川の水面を削るように吹き抜けていた。

加賀谷はシロとクロを連れ、河川敷の片隅で小さな焚き火を起こしていた。

火の粉が風に舞い、空へと消えていく。

炎を見つめるその目は、五年前と同じように静かで、そして深く沈んでいた。


「お前たち、少し離れてろ。」

犬たちは加賀谷の声に従い、距離を取って伏せた。

その仕草を見ながら、加賀谷は昔の光景を思い出していた。


あの頃、彼は警察犬訓練所にいた。

杉本刑事がまだ四十代半ば、現場叩き上げの刑事として名を馳せていた時代だ。

ある誘拐事件で、子どもの行方を捜すために加賀谷が担当犬を連れて捜索に加わった。

夜の山林で、杉本の声が響いた。

「こっちだ! 加賀谷、犬を出してくれ!」

「了解!」

その夜、加賀谷の指示で犬は見事に子どもの衣服を嗅ぎ分け、夜明け前に山中で無事発見に至った。


あの時、杉本が肩を叩いて言った言葉を、今も覚えている。

「お前の犬は人の命を繋いだ。誇っていい仕事だ。」

その一言が、加賀谷にとっての誇りだった。


だが今、その男が再び自分の前に現れるとは思わなかった。


足音。

風の中でそれを聞いた瞬間、加賀谷は振り返った。

土手の上に、コートの襟を立てた男が立っていた。

「……やっぱりここにいたか。」


杉本だった。

五年前よりもやつれ、髪に白が混じっていたが、あの眼光だけは変わっていなかった。

「久しぶりだな、加賀谷。」

彼の声は穏やかだったが、どこかに緊張の影があった。


「こんなところまで何しに来た。」

加賀谷の声は冷たかった。

杉本は焚き火のそばに腰を下ろし、しばらく黙ったまま火を見つめていた。


「また火事が続いている。お前も知ってるだろう。」

「知ってる。」

「……あの現場近くで、お前の犬を見たという証言があった。」


加賀谷の手がわずかに動いた。

だが怒りでも否定でもなく、その指はただ膝を握っただけだった。


「俺を疑いに来たのか。」

「そうじゃない。」

杉本の声が低く響いた。

「俺は、お前が何を考えているか知っている。だから来たんだ。」


焚き火の火がパチ、と音を立てた。

ふたりの間に過去の記憶が流れ込む。


「お前と俺は、何度も現場を見たな。」

「そうだな。」

「お前は犬を信じ、俺は人間を信じてきた。」

杉本は小さく息を吐いた。

「だが、人間は犬ほど正直じゃない。だから警察をやっていても、時々わからなくなる時がある。」


加賀谷は煙草に火をつけ、吐き出した煙を風に流した。

「五年前、あの放火の少年……少年院で終わりだった。お前が言ったよな、『法律の限界だ』って。」

「覚えてる。」

「その“限界”の続きが、今、俺の目の前で起きてる。」


杉本は黙って火を見つめた。

炎が彼の頬を照らし、その表情に深い影を落とした。

「あの少年、最近、また目撃されている。だが証拠がない。誰も捕まえられない。」

「証拠なんていらねぇ。俺はこの目で見た。」


加賀谷の声には静かな怒りがこもっていた。

「俺の家族を焼いた目。」


杉本はゆっくりと立ち上がった。

「お前が何をしようとしているのか、聞かなくてもわかる。」

「止めるのか?」

「止めたいと思ってる。だが……俺にも、お前を責める資格はない。」


一瞬、ふたりの視線が交わった。

そこには敵意も憎しみもなく、ただ長い時間を共有した男たちの沈黙があった。


「お前が犬を信じるように、俺もまだ人を信じていたい。」

杉本の声は、かすかに震えていた。

「もし、それでも止まれないなら、そのときは俺が、お前を止める。」


加賀谷は何も言わず、ただ焚き火に薪をくべた。

火の粉が舞い上がり、夜空へと散っていった。

「……昔みたいだな。」

杉本が笑った。

「お前は心を扱い、俺は心を追う。」


加賀谷は視線を上げずに答えた。

「違う。あの頃は、俺たちはただ、心を救っていた。」


風が二人の間を抜け、炎が高く揺れた。

そして杉本は、何も言わずに背を向けた。

遠ざかる足音が消えると、加賀谷は小さく呟いた。

「杉本……もし俺が間違っていたら、あの時のように、もう一度肩を掴んでくれ。」


焚き火の炎が、夜の底で静かに揺れていた。



第七章闇に吠える犬


夜の河川敷は、月明かりを失っていた。

風が強く、灰色の雲が空を覆う。

加賀谷は古びた軍手をはめ、シロとクロの首輪を握った。

二頭の犬は低く唸り、闇の奥を見つめている。


「行くぞ。」

短い声に反応して、シロが一歩前に出た。

クロは少し遅れて、その背中を追う。

彼らの呼吸が白く霧煙のように立ち上る、冷たい夜気に溶けていく。


数日前、杉本が去ったあと、加賀谷の心には静かな焦燥が残っていた。

「もし止まれないなら、俺が止める。」

その言葉が、焚き火の残り火のように胸の奥で燻っている。


あの夜から、彼は毎日、犬たちに新しい訓練を施していた。

「追跡」「停止」「警戒」「襲撃」

訓練士としての技術が、徐々に鋭さを取り戻していく。

しかし、その指示の裏には、訓練士としての使命ではなく、復讐のための意図が潜んでいた。


夜明け前、河川敷の奥でクロが立ち止まった。

風に乗って、わずかな油の匂いが流れてくる。

加賀谷は身を屈め、その方向を見た。

遠くの堤防の上に、一人の男がいた。

フードを被り、ライターを指先で(もてあそ)んでいる。

火を灯し、すぐに消す。その繰り返し。


「やはり……。」

加賀谷の拳が震えた。

犬たちは、主人の呼吸の変化を感じ取っている。

シロの毛が逆立ち、クロが低く唸る。


だが、加賀谷はまだ動かなかった。

足が地面に根を張ったように動かない。

五年前の夜、焼け落ちた家の前で泣き崩れた自分の姿が、闇の中に浮かんでくる。

「復讐しても、あの二人は帰ってこない。」

杉本の声が、遠くで響く。


それでも、胸の奥に別の声が囁いた。

「正義が焼けたなら、自分が火になる。」


男がポケットからライターを取り出した瞬間、加賀谷は動いた。

「シロ、行け!」

犬が地を蹴る音が響く。

続けてクロも飛び出した。

男が驚き、振り返る。

だが犬たちは直接飛びかからず、男の前で吠え立て、動きを封じた。

炎を灯そうとする手が止まる。


加賀谷は影のように近づいた。

「お前、名前は?」

男は怯えたように後ずさった。

「な、なんだよ。犬を離せ!」


五年前、あの時の少年だという確信があった。


「5年前、一軒家を放火して二人の命を燃やした、君だろう」

男の目が見開かれた。

「俺じゃない」

「お前の火で、俺の家族は死んだ。」


彼は何か言おうとしたが、声にならなかった。

シロが低く唸り、クロがさらに一歩前へ出た。

その動きに、男の身体が震えた。


「やめろ……殺す気か?」

「犬は命令がないと噛まない。」

加賀谷の声は冷たく、静かだった。

「だが、命令次第だ。」


一瞬の沈黙。

炎の代わりに、犬たちの呼吸だけが聞こえた。

その中で、加賀谷の胸の奥で何かが崩れた。

目の前の男は、恐怖に震えるただの人間だった。

五年前の少年が、そのまま老いただけ。

怒りよりも、深い虚無が広がっていく。


「もういい。」

加賀谷は小さく呟いた。

犬たちは即座に後退し、男の足元から離れた。

「逃げろ。次に火をつけたら、今度は俺が燃やす。」


彼は言葉もなく、闇の向こうへと走り去った。

犬たちは追おうとしたが、加賀谷が首を振った。

風が冷たく吹き抜け、空の雲が流れていく。

「……お前たちは、俺より賢いな。」

加賀谷は苦く笑い、二頭の頭を撫でた。


遠くで夜が明け始めていた。

川面がわずかに光り、風の匂いが変わる。

焚き火のような朝焼けの中で、加賀谷は思った。

復讐は終わったのか、それとも始まったのか。


シロが小さく吠えた。

その声は、夜を裂くように澄んでいた。

彼が去った足元には一枚のカードが落ちていた。

佐藤診療所の診察券

名前は「友田健一」


第八章灰の誓い


夜の闇を抜けて、朝が近づいていた。

川沿いの風は冷たく、灰の匂いがまだ残っている。

加賀谷は、火事の夜から一度も眠れていなかった。

放火犯を逃したあの夜、胸の奥に燃え残ったのは、怒りではなく、説明のつかない空虚だった。


シロが足元で顔を上げた。

「行こうか。」

加賀谷は呟き、駅へ向かう細い路地に入った。

どこへ向かうのか、自分でもわからなかった。

ただ、何かを確かめねばならないという直感があった。


数日後、加賀谷は古びた団地の前に立っていた。

ポストに貼られた名前――「友田」。

診察券から住所を特定することは簡単だった。


インターホンを押すと、年老いた女性の声が返った。

「どちらさまですか。」

「加賀谷、加賀谷吉行と言います」


しばらく沈黙のあと、ドアが開いた。

現れたのは、白髪混じりの小柄な女性だった。

その目には、長い年月の疲れと、深い哀しみが滲んでいた。


「中へどうぞ。」

「あなたが……友田君のお母さんですか。」

「はい、加賀谷さん、すぐにわかりました。息子が

大変なことをして、すぐにお詫びにいったんですが、

あなたはすでに行方不明になっていて・・・本当に申し訳ないことを・・・」


母は涙を拭きながら古いアルバムを出してきた。

その一枚に、見覚えのある笑顔があった。

妻のかおりだ。

若い頃の写真、隣に立っているのは、この女性だった。


「ええ。昔、かおり先生とは同じ保育園で働いていました。」

その言葉に、加賀谷の心臓が強く打った。


「息子は、小さいころから寂しがり屋でした。

夫は事故で亡くなり、私は働きづめで……。

そんなとき、かおり先生が、よく息子に絵本を読んでくれていたんです。」


加賀谷の喉が詰まった。

その情景がありありと浮かぶ。

やさしい声、幼い笑顔、絵本をめくる指先――

そして、そのそばで笑っていた少年。


「……あの子は、あなたの家族を……」

「わかっています。」

友田の母は静かに言った。

「罪は消えません。でも、あの子は、少年院でもそこを出た後もずっと泣いていました」

「泣く?」

「ええ。炎を見ると、あの先生の声が聞こえるんだと言って……」

その瞬間、加賀谷の頭の奥で何かが弾けた。


妻の声が、あの少年の記憶に残っていた。

焼き尽くしたはずの炎の中に、彼女の“やさしさ”がまだ生きていた。


「その話を友田君には?」

「言えませんでした。息子が、先生の家族を焼いたとは、どうしても……」

彼女の声は震えていた。

「でも、あなたが来てくれて、少し救われました。息子も、あなたに会いたいと言っていました。」


加賀谷は、しばらく何も言えなかった。

怒りでも悲しみでもない、ただ静かな涙が頬を伝った。

「……俺は、もう火を憎むことをやめたい。」

「それが、かおり先生の願いだと思います。」


部屋を出るとき、友田の母は古びたノートを手渡した。

「これ、かおり先生が書いていた保育園の日誌です。息子がこっそり持っていたんです。」


ページの端に、柔らかい文字が残っていた。

《子どもたちは、寒いと泣く。だけど、光を見ると笑う。》


加賀谷は、ノートを胸に抱いた。

灰の中に、まだ温もりは残っていた。


帰り道、シロが振り返り、クロが吠えた。

その瞳に映る夕陽が、まるで再生の炎のように揺れていた。

加賀谷はその光を見つめながら、静かに呟いた。

「もう一度、生き直そう。」


灰の誓いは、静かに、確かに、胸の奥で燃え始めた。



第九章炎の赦し


冬の終わり、空は鉛色に沈んでいた。

加賀谷は、友田の母から受け取った日誌を胸に抱きながら、ゆっくりと歩いていた。

指先に残る紙の感触が、どこか温かかった。


《子どもたちは、寒いと泣く。だけど、光を見ると笑う。》


その一文が、何度も頭の中で反芻される。


シロとクロは、加賀谷の足元を静かに歩いていた。

風が吹くたびに、二頭の首輪の金具が小さく鳴った。

その音が、まるで「行け」と促すようだった。


数日後、加賀谷は郊外の古い工場跡地を訪れた。

そこが、母から聞いた彼の居場所だった。

錆びついた鉄扉の前に立つと、犬たちが一斉に鼻を鳴らした。

微かな油の匂い。

だが、今回は違う、その匂いの中に涙の匂いが混じっていた。


扉の奥で、人の気配がした。

「……来たのか。」

低い声が響いた。

友田健一だった。

やつれた顔、痩せた頬、けれどその目には、五年前の少年の影がまだ残っていた。


「母さんから聞いた。」

加賀谷の声は低く、静かだった。

「お前が、かおりを知っていたと。」

友田は驚いたように目を見開いた。


「……あの人は、僕に優しかった。

母さんが夜勤で帰らない日、園に残って泣いてた僕を抱きしめてくれた。」

彼の声は震えていた。

「でも、ある日、母さんが倒れて……病院に行けず、僕はひとりで泣いてた。

そのとき、家のライターの火が綺麗だと、なぜか“きれいだ”と思ってしまった。」


加賀谷は黙っていた。

友田の手が震えながら伸び、懐からライターを取り出した。

「炎を見てると……あの人の声が聞こえるんです。

『もう泣かないで』って。

だけど、その声を聞くために、火をつけるようになって……止まらなくなった。」


涙が落ちた。

炎ではなく、彼自身が燃えていた。

孤独、罪、そして愛への渇望。

それが彼を焼き続けていたのだ。


「俺は……許されるんでしょうか。」

その問いは、まっすぐ加賀谷に届いた。

長い沈黙。

外では風が吹き、鉄の破片がかすかに鳴った。


「俺にもわからん。」

加賀谷は静かに言った。

「でもな――お前を憎むことで、俺はあの人を遠ざけてた。」

彼の手が、かおりの日誌を取り出した。

「ここに、お前のことが書いてあった。

“あの子は寂しがり屋。でも、人の痛みがわかる子になる”って。」


友田の瞳が揺れた。

「……先生が、そんなことを?」

「ああ。」

「俺は、そんな人間じゃない。」

「違う。今、泣いている時点で、もう違う。」


犬たちが近づき、友田の足元に鼻を寄せた。

シロが優しく舌で手を舐めた。

彼は驚いたように見つめ、そして泣き崩れた。


加賀谷は、炎を見るような眼差しでその姿を見ていた。

「火はな、焼くだけじゃない。温めることもできる。」

「……俺には、まだ温める資格なんて。」

「資格なんていらん。生きるだけでいい。」


友田が顔を上げると、シロがその膝に顔を乗せていた。

「この子は、命令がなくても動く。」

加賀谷は微笑んだ。

「人間よりも、真っ直ぐだ。」


外の雲が流れ、わずかに光が差し込んだ。

埃の舞う空気の中に、やわらかな光が滲んでいた。

それは、炎ではなく、赦しの灯だった。


加賀谷はゆっくりと日誌を差し出した。

「これは、お前が持っていけ。」

「……僕が?」

「ああ。炎を見たら、今度はこれを開け。

そのときに、あの声が聞こえるはずだ。」


友田は日誌を胸に抱いた。

涙が落ち、紙を濡らした。

「先生の声が……また聞こえました。」


加賀谷はうなずいた。

「なら、もう火は必要ないな。」


外では、風がやんでいた。

シロが一声だけ吠えた。

それは、炎の終わりを告げるような、清らかな音だった。



第十章光の方へ


春の匂いが、風の中に混じっていた。

河川敷の桜はまだ蕾だったが、朝の光はどこか柔らかく、冬の冷たさを溶かし始めていた。


加賀谷はベンチに腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。

隣ではシロとクロが並んで座り、川面を見つめている。

その静けさが、何よりの贈り物のように感じられた。


「もう春か……。」

彼は呟き、ポケットから小さな日誌を取り出した。

それは、友田が最後に返してきたものだった。


日誌の最後のページには、新しい文字が加えられていた。

《僕はもう火を見ても泣かない。あの人の声が、光の方にいるから。》


加賀谷はページを閉じ、微笑んだ。

あの夜の工場での出来事以来、友田は警察に自首し、すべてを語った。

法が裁くより前に、彼自身が自分の炎と向き合ったのだ。


杉本は報告書を机に置き、言った。

「……やっと、終わったな。」

加賀谷は首を振った。

「いや、始まったんだ。俺たちの“生き直し”が。」


その日、加賀谷は新しい訓練場を訪れた。

プレハブの部屋と小さなグランド。その場所に、彼は木製の看板を立てた。


《命をつなぐ犬の幼稚園 ONE TWO CLUB》


古びた文字の上に、白いペンキで書かれた小さな言葉がある。


“光の方へ。”


そこには、シロとクロの足跡が並んで押されていた。

「お前たちがいなかったら、俺は戻れなかった。」

加賀谷はそう言って、犬たちの頭を撫でた。

シロが尻尾を振り、クロが低く鳴いた。


まるで、彼らも新しい道の始まりを知っているようだった。


夕暮れ、グラウンドに少年の声が響いた。

「先生!この子、ちゃんと“待て”できたよ!」

加賀谷は微笑み、軽くうなずいた。

「いい子だ。犬も人も、待つことを覚えると強くなる。」


教える声の中に、かつての訓練士の誇りが戻っていた。

その姿を見て、杉本が柵の向こうから小さく手を挙げた。

「お前、また現場に戻ったみたいだな。」

「いや、こっちの方がずっといい。」

加賀谷は笑った。

「今度は、命を守る訓練だ。」


風が吹き、犬たちの毛を揺らした。

その毛先に、淡い陽の光が反射する。

まるで、過去のすべてが赦されたような、穏やかな輝きだった。


夜。

グラウンドの端に、小さな花と、かおりの写真。

加賀谷は膝をつき、静かに語りかけた。


「かおり……ようやく、少しだけ笑えるようになったよ。」

風が吹き、ページのめくれた日誌が開く。

そこには、かおりの文字があった。


《どんなに夜が長くても、犬は朝を知っている。

だから、人もまた歩ける。》


加賀谷は空を見上げた。

雲の切れ間から、朝焼けが滲む。

その色は、炎のようでいて、もう何も焼かない光だった。


「行こう、シロ、クロ。」

二頭が立ち上がり、彼の横に並ぶ。

朝日がゆっくりと昇り、三つの影を長く伸ばした。


それはまるで、失われた家族がもう一度寄り添っているように見えた。


加賀谷は微笑んだ。

「生きるってのは、光の方へ歩くことだな。」


シロが一声、静かに吠えた。

その声は朝の空気に溶け、どこまでも高く、遠くへ――。


そして、一つの物語は静かに幕を閉じた。



づづく
















あとがき


私はこの物語の主人公の加賀谷と同じように警察犬訓練士の後、現在犬の幼稚園を経営しています。もちろん、このような物語は架空ではありますが、「人が挫折の中から立ち上がる為には…」という問いかけからペンを取りました。

 加賀谷という男の人生は、最初から光を失うところから始まります。愛する家族、仕事、社会的立場、すべてを炎に奪われ、彼は闇に沈みます。

 けれど、闇の底で出会ったのもまた、ひとつの「命」でした。野良犬のシロとクロ。何も語らず、ただ寄り添い、手の甲に鼻先を寄せるだけの存在。

 言葉ではなく、温度だけが人を救うことがある。そのことを、犬たちは私たちに静かに教えてくれます。


 この作品のもう一つの柱は「赦し」です。

 赦しとは、過去を忘れることではなく、そこに光を当て直す行為だと私は思います。人は許されるために許すのだと思うのです。


 加賀谷にとって、復讐は最も簡単な道でした。しかし彼は、最後に“光の方”を選びました。

 それは彼自身が聖人だからではなく、ただ誰かのやさしさを思い出せたから。

 その「誰か」が、亡き妻かおりであり、犬たちであり、そしてかつて炎を放った少年・友田だったのです。


 この物語に登場する犬たちは、単なる象徴ではありません。

 彼らは“沈黙の言葉”を持ち、人と人の間に消えかけた絆をつなぐ存在として描きました。

 彼らの視線の中には、裁きでも後悔でもなく、ただの「受容」があります。

 それこそが、人がもう一度生き直すための唯一の光だと信じています。


 「炎の犬」は、終わりではなく始まりの物語です。

 加賀谷が開いた犬の幼稚園「ONE TWO CLUB」は、きっとこれからも誰かの再生の場所になります、そしてこの後の「奇跡の犬」へとつながります。


 過去に傷を持つ人、迷いながら生きる人、そして言葉を持たない犬たちが、同じ朝の光を見上げる。

 その風景を思い浮かべながら、私は静かにこの物語の第一部の筆を置きます。


 最後まで読んでくださった皆さまに、心から感謝を込めて。

 そして、光の方へ歩き続けるすべての命に。


                   


永田 良行


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