冤罪で断罪された令嬢は転生を望まない
Who done it ?
池から幼い少女の遺体が浮かび上がった。
「わ、わたし見ました!エミリアさまがシャーロットさまを突き飛ばすのを!」
「な、ち、ちがうわ!わ、わたしは…まさかしんじゃうなんて」
死因は溺死。
その上幼い身体には青黒く変色した跡が無数に散らばっていた。そして同じ年頃の子供より、明らかに成長が遅かった。
体力のない身体は池に溺れた時にすぐに力尽きたものと思われる。
「これは……常態的に虐待を受けていたのだろうな……惨いことだ」
遺体を検分していた王立騎士団第3部隊長は遣る瀬無い溜息を吐いた。彼には同じ年頃の娘がいるので亡くなった少女を憐れに思った。
亡くなった少女の名はシャーロット・ロア・カッセルズ。
ブルーガーデン伯爵の亡くなった前妻との子で7歳になったばかり。
紺青色の髪に透き通った空色の瞳の可愛らしい少女だった。
少女を殺したのは同伯爵の後妻の連れ子のエミリア。
栗色の髪に焦げ茶色の瞳の、美人とは言い難いが愛嬌のある顔立ちの少女。9歳。
事故か、あるいは故意か。
どちらにしても9歳の少女が7歳の少女を死なせた事実は貴族社会に衝撃を与えた。
まだ幼いが故に己のしたことを正しく理解出来ていないと見做されたが、更生の必要があると判断され、エミリアは戒律の厳しい修道院に入れられることになった。
―――その後の彼女の消息を知る者はいない。
****
ふっと意識が浮上して、瞼を上げたシャーロットが目にしたのは、悪意に満ちた笑みを浮かべた幼いエミリアが自分を突き飛ばす瞬間だった。
ばしゃん!と水しぶきが上がって、身体に衝撃が走る。
(つめたい…!)
驚きに口を開いて水を飲み込んでしまう。
(くるしい…)
シャーロットの脳裏に生まれてから死ぬまでの記憶が一瞬で蘇る。
(わたし……死んだ……はず)
そう。シャーロットは一度、死んだ。
16歳のデビュタントの舞踏会で、婚約者の第二王子に身に覚えのない罪をでっちあげられ、誰にも信じて貰えず、絶望の中、牢屋の中で毒杯を飲まされ、息絶えた。
(……そのはず、なのに……)
今、自分は池に落とされている。
これは昔、エミリアに突き飛ばされ溺れた時と同じ出来事?夢でも見ているのだろうか。それにしては水の冷たさも、息が出来ない苦しさもやけにリアルだ。
この後、記憶の中ではシャーロットは必死にもがいて、暫くしてから偶然通りかかった庭師に助けられたはずだった。
記憶を思い出しながら、シャーロットはふと、考える。
(……どうして、わたし)
あの時、足掻いたんだろう。
生き残っても、苦しいだけなのに。
この先の未来を知っている。
いいことなんて、何もない。
ただ、苦しいだけ。
そして、絶望ののち殺される。
―――なら……。
(ここで死んだ方が良かった)
シャーロットは身体の力を抜いた。
ドレスが水を吸って重くなっており、小さな身体は池の底へと沈んでいく。
……そうして、幼い少女は息を引き取った。
*****
『―――――つまり、君は自殺した、ということ?』
(………………?)
再び意識が浮上して、シャーロットが目を開けると、そこは何もない空間だった。
天もなく、地もなく、色もない。
ただ、眠りたくなるような、温かな落ち着く空間だった。
シャーロットは目を閉じ、意識を手放そうとした。
だが、静かな声が響いて彼女の眠りを妨げる。
『シャーロット。君はやり直す機会を与えられたのだ。以前とは違う人生を手にするために。それをみすみす捨てるなど――』
「……いらない……」
シャーロットは呟くと、どうでもいいとばかりに目を閉じた。
自殺、というには語弊がある。だが、彼女が生きるために足掻くことを止めたのは事実。
『ま、待て!寝るな!もう君を害する娘はいない。遠くの修道院に入った。今なら間に合う、君の息を吹き返すことも――』
「…………………」
シャーロットは返事をするのも億劫だった。
……どうでもいい。
エミリアがいなくなったとしても、最終的に自分を害するのは婚約者だった第二王子だ。
シャーロットは7歳の時点で既に婚約していた。
それに、父も継母も、シャーロットを虐待していた。
生家に安息はない。大人になるまで我慢するのはしんどい。
「……やりなおしたくない。ねむりたい」
だって、誰もシャーロットを望んでいないのだ。
父も、継母も、義姉も、婚約者も。自分が消えたところで誰も悲しまないし、気にしない。
もう一度同じ人生を歩き直すのは苦痛以外の何物でもなかった。
例え義姉がいなくなったとしても、父と継母がシャーロットに優しくなるとは思えなかった。むしろ継母からは恨みを買っていることだろう。
幼い少女の感情の籠らない淡々とした声音に、シャーロットに語り掛けていた何者かは言葉を失った。
―――この少女は魂が傷付き過ぎている。
『……で、では、別の場所に転生するか?もっと心安らげる居場所を用意する』
少女は緩く首を振る。
(……にんげんには、なりたくない……)
―――もう、眠りたい。何も考えたくない、溶けて消えてしまいたい……。
少女の望みは魂の消滅だった。
二度と転生など望まず、このまま消えてしまうこと。
『―――………っ』
何者かは押し黙った。
ふわりと優しい風がシャーロットの頬を撫でた、気がした。
シャーロットの意識が霧散する寸前、聞き覚えのある声が微かに届いた。
「シャーロット!シャーロット!ダメだ、死ぬな!」
少女と同じ年頃の一人の少年が池から引き揚げられた幼い少女の遺体に縋り付いていた。
少年の頬には止めどなく涙が流れ、瞳には絶望が宿っていた。
(……あれは……)
シャーロットはその光景を空から見下ろしていた。
不思議な感覚だったが、すんなりと受け入れていた。
(……わたしの身体。あの少年は……婚約者のジェレミア殿下……?)
だが、彼が自分の死を嘆くはずがない。自分は嫌われていたのだから。
では、これは別人?
(よく、わからない……)
疑問には思ったが、最早どうでもよかった。
(今更だしね……)
そうして、今度こそシャーロットの意識は途絶えた。
****
1.2周目
アダマス王国の第二王子ジェレミアはふと、誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。
それは彼にとってはかなり珍しいことだった。
この数年、彼はずっと誰に話しかけられても振り向かず、返事も返さない生活を送っていたから。
白金色の髪に満月を嵌めこんだような美しい金色の瞳。ジェレミアの容姿は近寄りがたい程整っている上、感情を削ぎ落したように全く表情が変わらないため、見る者に人形のような印象を与えた。
彼が感情を失ってしまったのは九年前。彼の婚約者だった少女が義理の姉に突き飛ばされて池に落ちて死んだ時から。
彼は生きる気力を失くしたように虚ろな目をしてただ息をしているだけの日々を繰り返していた。
ジェレミアは毎月少女が亡くなった日に、王宮の庭園にある池の前に立つ。
池の周囲は柵を巡らし、一般の来場者は立ち入り禁止となっているが、池自体は潰さずそのまま残されている。
ジェレミアがそのままにしてほしいと懇願したからだ。
亡くなった少女の魂が今もそこにいるような気がして、埋め立てることが出来なかったのだ。
――――どうして、助けられなかった?
あの日、婚約者の少女はジェレミアとお茶会をするため王宮を訪れていた。
本来、お茶会は婚約者となった少女とジェレミアの二人だけで交流を深めるためのものだったが少女に義理の姉ができてからは義姉も付いてくるようになっていた。
最初は少女の侍女のように後ろに立って控えていたが、次第に同じテーブルに着くようになっていった。
義姉は婚約者の少女が少し席を外した時に少しずつ、シャーロットに意地悪をされていて普段はあまり食事をさせて貰えないのだ等と訴えた。
少しずつ少しずつ、毒は浸透していった。
……愚かな自分はそれを信じてしまった。
ジェレミアは苦い息を吐く。
あの日のお茶会に義姉が来ていたことは知らなかった。
ただ、その日のお茶会が中止になったことだけは覚えていた。……理由も知らずに。
……助かっていたのだ、一度目は。
だからまさか彼女が亡くなってしまうとは思いもしなかった。
もう一度、彼女に会う為にやり直したというのに。
ジェレミアには前世とも言うべき一度目の記憶がある。彼はその記憶を書き換えるために時を遡った。神の末裔と呼ばれるアダマス王家に伝わる禁術を使って。
*
一度目の生でシャーロットが牢内で亡くなったと報告を受けた直後、彼はエミリアとその母親の悍ましい会話を偶然聞いてしまった。
『これでもう大丈夫。すべての罪科はあの娘が背負って死んだわ』
『うまくいきましたね、お母さま』
『ふふ、誰もあの娘の言葉を信じないなんてね。滑稽だったわ』
シャーロットが犯したとされた数々の悍ましい犯罪は母娘の仕業だった。
領の予算の横領、気に入らない使用人への体罰、麻薬の密売、人身売買。
人道に悖る行為により得た金での豪遊。
唯一母娘の筋書き通りにならなかったのはシャーロットが亡くなったからと言って、婚約者の座がエミリアにはいかなかったことだ。
エミリアは後妻の連れ子として伯爵家の養子となったが、その出生はかなり疑わしい。
後妻の前夫は老齢の男爵だった。
男爵位は一代限りであるうえ、前妻との間に嫡子が居り、彼女は男爵の後妻であったため、男爵の死後は屋敷を追い出されたのである。
エミリアは男爵の死後に生まれた子供だった。
後妻は男爵の子であると主張したが、男爵は老齢であった上に病魔に伏していた状態であったため子を生すことは不可能だろうと言われた。
エミリアは誰の子か分からないのだ。
そのため王子の婚約者となることは適わなかったのである。
*
(――別にエミリアとは恋仲でも何でもなかった)
だから血筋がどうであっても始めから彼女を妃とするつもりはなかった。
だがエミリアたち母娘はそうは思っていなかったようだ。
彼女たちはシャーロットの後釜としてジェレミアの婚約者になろうとしていた。
*
ジェレミアは母娘の会話を聞いた直後から密偵を使って伯爵家を徹底的に調べ上げた。
彼女の父親は政略結婚で娶った妻に対し無関心だったようだ。
生まれた娘に対しても。
シャーロットの母は身体が弱く、娘を産んだ後産褥で亡くなっている。
伯爵は跡取りを設けるため、後妻を娶る必要があった。
その時偶々遠縁にあたる後妻が男爵家を追い出され、行くところがないからと伯爵家に預かることになった。
後妻は言葉巧みにまだ幼いシャーロットの養育を申し出、自分の子のエミリアと一緒に育てた。
当時の使用人たちの証言によると、後妻はエミリアを跡取りのように扱い、シャーロットのことは折檻をして辛く当たっていたという。
それを伯爵に告げ口しようとした使用人は後妻が先回りして窃盗等のありもしない罪をでっち上げられ、解雇されていた。
やがて後妻に逆らう使用人はいなくなり、元々王宮務めで多忙の伯爵は殆ど屋敷に帰ることなく、領地のことや屋敷内のことは後妻の思うままに再配されるようになっていった。
――何故、気付かなかったのか。
シャーロットは夏でも手首まできっちりと覆う厚手の服を着ていた。
痣が見えないように。病的にやせ細った腕が見えないように。
6歳くらいまでは控えめで恥ずかしそうにしながらも可愛らしくはにかむ少女だった。
それがいつの間にか笑わない少女になっていた。
報告書を読めば読むほど、憐れな少女の半生に胸が切り裂かれそうに苦しくなる。
自分も加害者だ。
その事実が重くのしかかる。
*
過去に戻ったジェレミアは今度こそシャーロットを幸せにするつもりだった。
けれど再会する前にシャーロットは殺されてしまった。
池から引き揚げられた時の遺体の状態と検分した王立騎士団第3部隊長からの報告が蘇る。
ドレスの下に隠されていた無数の痣と栄養失調の身体。
あんなに幼い頃から彼女が虐げられていたことが重く胸に落ちる。
7歳で散った少女の命。
(あの義姉が……)
殺した。明確に悪意を持って、シャーロットを。
……そのことをジェレミアだけは理解していた。
勿論、本当に殺すつもりはなかったのかもしれない。それでも悪意があったのは確かだ。それにいずれ殺すつもりだったことは明白だ。
(修道院なんて生ぬるい……処刑してやりたい)
けれど当時齢七つの王子に何ができるわけもなく。
ブルーガーデン伯爵と夫人はシャーロットの死を切っ掛けに離縁していた。
幼子への虐待と自分の娘が伯爵家の跡取りを死なせてしまったことは社交界での立場を失うのに十分な醜聞だった。
後妻は伯爵家を追い出された。とはいえ、牢に繋がれているわけではない。
ジェレミアにはそれが歯痒く、赦し難かった。
いつか必ず裁く。
ただ、罪深さで言うならジェレミアとて同じ穴の狢だ。
一度目の生で彼女を断罪したのは他でもない自分だ。
彼女が呷った毒杯については義姉と継母の仕業だったが彼女を牢に繋いだのはジェレミアだ。
彼女には何の罪もなかったのに。
***
ぽちゃん。
ぼんやりと池を見下ろしていたジェレミアの耳に微かな水音が届いた。
(……なんだ?……)
物思いに沈んでいた意識がゆっくりと覚醒し、ジェレミアの金瞳に池に沈む黒いシルエットが映る。
それは子猫のようだった。
子猫は既に息をしていないのか、ピクリとも動かない。放っておいたら数秒で沈むだろう。
ジェレミアの身体は無意識に動いていた。
「――殿下!」
近くに控えていた護衛が制止の声を上げるもジェレミアは聞こえていなのか躊躇なく池に飛び込んでいた。
池から掬い上げた子猫は珍しい紺青色の毛並みだった。
小さな身体はくったりとし、心臓は止まりかけていたがジェレミアの必死の看護により、三日後に目を開いてくれた。
「……っ!」
瞳の色を見てジェレミアと、側に居た側近の公爵家子息が息を飲んだ。
子猫は空色の瞳をしていた。―――九年前、池で亡くなった幼い婚約者と同じ色。
「……おまえは……あの子の生まれ変わりなのか……?」
九年間、ジェレミアが片時も忘れることの無かった色。
「みゃあ……?」
子猫は円らな瞳でジェレミアを見つめると、疲れたのかこてんと身体の力を抜いて眠ってしまった。
***
「ロッティ!おいで」
子猫はロッティと名付けられた。
息を吹き返した子猫が目覚めたのち、ジェレミアが付きっきりでミルクを飲ませたり身体を拭いてあげたりと甲斐甲斐しく世話を焼いたことが功を奏し、子猫はみるみる回復した。
けれども人間に怯えているのか、子猫はなかなか懐かなかった。
部屋の隅に蹲り、身体を震わせて怯えている。
ジェレミアには子猫がシャーロットのように見えて仕方なかった。
(……あの子も……きっとこんな風に誰にも頼れず、誰も信じられなかったのだろう……)
それは酷く胸が痛いことだった。
(この子猫を……大事にしたい)
失われた命は二度と戻らない。
亡くなった少女の代わりに子猫を可愛がるのは意味のない行為なのかもしれない。
それでもジェレミアはそうしたかった。
例えそれが彼の自己満足に過ぎなくても。
ジェレミアは根気強く子猫に接した。
少しずつ、少しずつ距離を縮めていった。側近のロイドが呆れ交じりに感心するほど。
ジェレミアに近しい者たちや王宮の使用人たちは皆、子猫を歓迎した。
ずっと心を閉ざしていたジェレミアが子猫の前では微笑むようになったからだ。
***
数年が経った。
ロッティはジェレミアの前では寛いで過ごすようになっていた。
ジェレミアもロッティの前でだけは柔らかく笑う。けれどそれ以外では相変わらず無表情の人形だった。
不思議なことに数年経ってもロッティは子猫のままだった。
(この子は……病気で大きくなれないのか、……それとも精霊の類なのか……?)
真相は誰にも分らない。それでも構わなかった。ロッティは無邪気に蝶を追いかけ、ジェレミアが用意したバスケットのお気に入りの毛布にくるまって昼寝をする。
気が向けばジェレミアの膝に乗って眠ることもある。
それで十分だった。
*
「ロッティ」
まるで恋人に囁くように、甘く優しい声で愛猫の名を呼び幸せそうに微笑むジェレミアに、城の使用人たちの年配の者は安堵するように見守り、年若い娘たちはしばし見惚れた。
「みゃう」
ロッティは執務机で政務をしているジェレミアの左手から腕を駆けのぼり、項を回って右腕を駆け下りる。
その拍子にインク壺がひっくり返り、ジェレミアが書きかけだった書類が台無しになった。
年若い政務官は子猫の悪戯にぎょっとして、つまみ出そうと駆け寄るが、その前に先輩の政務官に襟首を掴まれてぐえっと呻き声を漏らした。
「あぁ、ロッティ。インク塗れじゃないか。おいで」
ジェレミアは慌てて子猫を抱き上げると侍従に盥と湯を用意させ、自ら子猫を洗ってやった。
「殿下、そのようなことは私が――」
政務官が言いかけると、「いいから、来い」襟首を掴んでいた先輩にずるずると隣室へと引っ張られて行った。
ロッティに関する申し送りは先輩政務官の必須職務だ。
ジェレミアは政務官には目もくれず、ひたすら優しく子猫の毛を触り心地の良い最高品質のタオルで拭いてやり、乾かしていた。
横で一部始終を見ていた側近のロイドはやれやれと溜息をついてインクで汚れたジェレミアの執務机を片付けた。
ちなみに台無しになった書類にはロッティの足跡が付いていた為、立派な額装がなされ、ジェレミアの寝室に飾られることとなった。
*****
【政務官最優先申し送り事項】
・ロッティ様は殿下の恋人、お触り絶対禁止
・何があってもロッティ様が最優先、来客中でもロッティ様に異変があったら知らせる、国王陛下が亡くなってもロッティ様
・殿下には婚約者がいる。なので縁談持ちかけ禁止。……正確に言うと殿下の中で婚約者は死んでいない。永遠。でも禁句。
新米政務官「……………………」
先輩政務官「……。そのうち分かる。とにかくロッティ様、いや、殿下の前ではその名を呼ぶのも控えろ、いいな」
*****
ブルーガーデン伯爵と離縁した後妻のその後は落ちぶれる一方だった。
ほとんど着の身着のままで追放されたため所持金も僅かばかりで行く当てもなく、彼女を受け入れてくれる者もおらず、後妻が行き着いた先は娼館だった。
始めの数年は元貴族の女として持てはやされたが元々若くもなく、美人でもないためあっという間に客足は遠のいた。
その上気位ばかりが高く、傲慢で癇癪持ちだったため、娼館からも放り出された。
その後は悲惨だった。
無銭飲食を繰り返し、隣国へと逃亡しようとしたところを人攫いに捕まり奴隷として売られ、数か月後に死亡した。
後妻が命を落とした同じ日、遠く離れた修道院でとある修道女が姿を消した。
前日に修道院を訪れたある裕福な貴婦人が寄付した高価な聖杯と供に。
聖杯の追跡調査報告によると、聖杯が盗難されたその日のうちに修道院から一番近い小さな町の古物商に持ち込まれ、金貨80枚で買い取られたという。
しかし小さな町の古物商ゆえ、金貨は用意できず、銀貨での支払いだった。
銀貨10枚で金貨1枚のため、古物商は聖杯を持ち込んだ修道女に銀貨800枚を支払った。銀貨800枚は嵩張るが持てない程の重さではない。
修道女は小さなカバンに銀貨を詰め込んで古物商を後にした。
修道女の消息はそこで途切れ、その後の行方を知る者は誰もいない。
恐らく、途中で山賊やならず者たちに襲われて攫われたか、殺されたのではないか――。
*
騎士団の情報部隊からの報告を聞いてジェレミアは軽く目を閉じると小さく手で合図をし騎士を退室させた。
(つまらない最期だったな………)
シャーロットを殺した醜悪な義姉、エミリア。
彼女が修道院に預けられてからずっと王家の影によって動向を監視していた。
修道院に預けられたエミリアは癇癪を起こして暴れ、泣きわめいたが彼女に課せられたのは食事抜きと三日間の謹慎処分だった。
三日間祈祷文を写経し、反省文を十枚書くまでは反省部屋から出られない。
反省部屋は地下にあり、薄暗く寒い。
エミリアは三日で根を上げた。
けれども心から反省することはなく、不満を燻らせていた。
そのため度々癇癪を起こし、謹慎を繰り返す。
醜悪な心根に更生の余地はない。
ジェレミアはエミリアに最後の賭けを試すことにした。
少しでも己の半生を後悔し、シャーロットへの哀悼と贖罪に残りの人生を捧げるのであれば、見逃してやる。といっても、一生修道院から出すつもりはないが。
結果、エミリアは聖杯を盗んで出奔した。
聖具の窃盗は罪が重い。その上彼女は義妹を殺している。
古物商を後にしたエミリアは山賊に扮した王家の影に身柄を取り押さえられ、極悪犯罪者を収監する監獄へ送られた。
その監獄は王国の最北端に位置し、永久凍土といわれる極寒の地に聳えたつ塔だった。
近くの村まで馬車で三日はかかる上、囚人は収監されると靴を没収される。
支給される囚人服はゴワゴワの麻素材で肌触りが悪く、目も粗いため防寒力は無に近い。
そこでエミリアは鞭打ち80回の刑を受けたのち、奉仕活動として監獄の清掃を命じられた。
脱獄防止のため、塔には殆ど窓がなく、中は薄暗い。
囚人たちが用を足した壺を回収し、空の物と交換する。満杯の壺を持って階段を下り外の肥溜めに空ける。これを何回も繰り返す。塔は高く、二十階まである。これを何回も往復することはなかなかに辛い。
外といっても鉄格子で囲われた中庭の中である。逃げることは適わない。
運よく塔を脱出出来たとしても、村まで行く前に凍死するだろう。
鞭打ちを受けた背中からは耐えず血が流れ続けているが、薬ももらえず、痛みを訴えても奉仕活動を休むことは許されない。
痛みに耐えて重い壺を抱えて階段を上り下りするしかない。
これがエミリアの末路だった。
彼女は命尽きるまでここから出ることは出来ない。
ジェレミアはそれきりエミリアの存在を頭から追い出した。
もう彼女のことはどうでもいい。
*
ブルーガーデン伯爵は遠縁の親族の中から跡取りを選定し、伯爵位を退いた。
退かざるを得なかった、というのが真相だ。
たとえ自分の娘であっても王子の婚約者を死なせた罪は大きい。
身内が加害者であるならばなおさら当主としての器量が問われる。
伯爵領の僻地に永蟄居を命じられ、生涯幽閉された。
*
成長しない不思議な子猫のロッティは数年の後、眠るように息を引き取った。
ジェレミアの悲嘆は大きかった。無論、猫の寿命は人より短い。しかしロッティはずっと子猫だったため、精霊や聖獣の類、あるいは不老不死なのではないかとすら思っていたのだった。
「ロッティ、ロッティ」
小さな亡骸を抱いてジェレミアはポロポロと大粒の涙を零した。
ロッティは息を引き取ってから数時間後、キラキラとした光の粒となって消えた。
(おまえは……やはり精霊の類だったのか……?)
今度こそ、本当に喪ってしまった。
――何故か、そう思った。
側近のロイドがジェレミアの涙を見るのはシャーロットが亡くなった時以来だった。
ジェレミアの絶望は深く、ロッティを喪ってからの数週間は殆ど心ここに在らずという状態で食事も睡眠もままならず、まさに生ける屍といった有様だった。
「ジェレミア……。何か食べてくれよ!このままじゃお前が持たない。ロッティやシャーロットちゃんと、いつか天の国で再会するためにもお前は今を精一杯生きなきゃだめだ!」
「…再会……する……?」
ロイドの言葉にジェレミアははっとした。
(そう、だ……私はシャーロットと再会するために……―――)
禁忌を、犯した。
もう一度やり直すために時を遡った。
(それなのに、会うことすら出来なかった………)
ぐっと、胸が塞がれる。7歳の小さなシャーロットの亡骸が脳裏に鮮やかに浮かび上がる。
この十数年、一度たりとて忘れたことはなかった。
傷だらけの身体、まともな食事も与えられていなかった細い手足。
同時に十六歳のシャーロットを思い出す。
一度目の生でシャーロットを断罪した時の、全てを諦めた瞳。絶望すら既にそこにはなかった。
やり直して幸せにしてあげたかった。
なのに二度目も池に落とされて苦しませて死なせてしまった。
こんなはずじゃなかった。
もっと前に遡ることが出来ていれば。
禁術は大技で、狙った通りの時間に遡ることが出来るわけではない。
それでもジェレミアは己を責めた。
(シャーロット……)
すまない、すまなかった。何度も何度も繰り返す。それは誰にも届かない懺悔。
後悔の中、止まっていた時を動かしたのは不思議な子猫の存在だった。
シャーロットの生まれ変わりとしか思えない、稀有な色彩を持ち、成長しない子猫。
まるで永遠に7歳で時を止めたシャーロットのよう。
あの子がいたから、ジェレミアは救われた。
(ロッティは……幸せだっただろうか)
始めは警戒して部屋の隅に蹲り、毛を逆立てていた子猫。
少しずつ、少しずつ距離を縮めて、最後には一緒に眠る程心を開いてくれたロッティ。
(私は……しあわせだったよ)
愛くるしい子猫。どんなに悪戯をされても腹は立たなかった。
元気に動き回っている姿を見るだけで幸せだった。
寝顔も可愛らしく、愛しかった。
ロッティが消えた時、後にはロッティに着けていた金のリボンだけが残された。
リボンにはロッティの負担にならないようにと小さ目だが極上のパールが縫い付けられていた。
いつかまたシャーロットの生まれ変わりに出逢えるだろうか。
そのためにはジェレミアに自死は許されていない。
彼はまだ、時を遡った代償を支払っていないのだから。
***
神に逆らう行為ともいうべき時間遡行を叶えるためには相応の代償が必要となる。
神の末裔であるアダマス王家といえどもこれは禁術とされ、魂を天界に捧げることで成り立つ御業である。
遡行の代償として遡行者は百の転生を繰り返し、最終的な魂の行き着く場所は天界の番人。
遡行後は自害してはならず、気の遠くなるほど永いときの記憶も携えて行かねばならない。
百の巡りを終えたのち、天界の番人となってからは次の番人が現れるまで転生することは叶わず、現の世の移り変わりを見守り続けなければならない。
***
『おかえり』
子猫の魂が天に還った。
番人はそっと魂を引き寄せ優しく胸に抱く。
魂は天に還ると地上での記憶を忘れ、再び生まれ変わる為の準備に入る。
地上で傷付いた魂は生まれ変わるまでに時間を要する場合がある。
子猫は生まれ変わる前、傷付き過ぎて消滅寸前の魂だった。
殆ど消えかけていた魂の欠片をそっと守り、子猫として転生させたのは番人だ。
『……少しは傷が癒えたみたいだね』
魂には既に地上での記憶はない。
ロッティだった記憶も、……その前世のシャーロットだった記憶も。
『……さぁ、今度こそ幸せになるんだよ』
名残惜しいがいつまでも魂を天界に留めてはおけない。
番人は小さな魂をそっと輪廻の輪に入れた。
番人の容姿は背中まで届く長い白金色の髪に満月を嵌めこんだような美しい金色の瞳だった。
***
ロッティを喪ったあと、ジェレミアは寿命を全うした。
出家し、聖職者となり一人静かに過ごしたのち、穏やかに息を引き取った。
それから彼は数えきれない程の転生をした。
時には貧しい農家の子供として、時には奴隷の子供として。様々な階級の人生を生き、百の巡りの後、再び目覚めた彼は天界にいた。
その姿はジェレミアだった。
(――あぁ……番人になったのだな)
アダマス王家の禁術を使った時の姿。
そして、彼の眼前には池に落ちたばかりの幼いシャーロットの魂があった。
(――シャーロット……!)
やっと、逢えた。
けれど再会の余韻に浸っている猶予はなかった。
彼女の魂は酷く傷付き、消滅寸前だったから。
(シャーロット、お願いだ。もう一度生まれ変わって…………)
消滅を願う魂は生まれ変わることを拒んだ。
魂が消滅する寸前、番人は魂の一欠片をなんとか保護したものの、あまりにも弱っており、そのまま転生させることは出来なかった。
小さな欠片となった魂をそっと抱きしめ、辛抱強く聖力を注ぐ。
そのため、普通の猫とは少しかけ離れてしまった。けれど聖力は時間と共に少しずつ消えてゆく。
ロッティとして転生した魂はその生を終え、新たな輪廻の輪に入った。
***
ジェレミアが番人となってどれ程の時が流れたのか。
番人は最早自分の名前など忘れてしまった。
誰もその名を呼ぶものはいないから。
――――ジェレミア。
己の名を呼ぶ可愛らしい声に、ジェレミアは笑顔で振り向いた。
「なぁに、ロッティ」
ジェレミアは白金色の髪に金色の瞳の人目を惹く容貌の美しい少年だ。
どこぞの貴族のご落胤と言われてもおかしくない程品があり異彩を放つ、花屋の息子である。
対する少女、ロッティことシャーロットはこれまた珍しい紺青色の艶やかな髪と空色の瞳の可愛らしい容貌のパン屋の看板娘である。共に7歳。
「これ、お母さんがジェレミアと食べてって」
「わぁ、ありがとう。ロッティのお母さんのサンドイッチだいすき」
ふんわりとはにかむ少女に、少年は満面の笑みを向ける。
幼馴染みの二人は仲良く手を繋いで裏山の秘密基地へと駆けた。
「ロッティ、だーいすき」
二人仲良くお昼を食べ終わると、ころんと緩やかな丘に寝転がる。
ジェレミアはシャーロットに抱き付いてチュッと頬に口付けた。
シャーロットは「ひゃ!?」と小さく身体を震わせる。いつものことだが中々慣れない。
二人が出会ったのは5歳の年だ。
隣の家にジェレミア一家が引っ越してきたのだ。
人見知りのシャーロットは恐る恐る母親のスカートの影から顔を出した。何故かジェレミアは出会った瞬間からシャーロットを気に入ったようで、以来毎日一緒に過ごしている。
「そうだ、ロッティにこれあげる」
「なに?」
ごそごそとポケットからジェレミアが取り出したのは綺麗な真珠の耳飾りだった。
「……?」
シャーロットは首を傾げた。
(ふしぎ。……どこかで同じものを見たことがある……?)
「ロッティ?気に入らなかった?」
ジェレミアに哀しそうに聞かれてシャーロットは慌てた。
「え、ちがうよ!……とってもきれいだよ」
「うん、でもごめんね。一粒しかなくて」
「あ……、かたっぽだけ?」
「そう。……この真珠の粒、ぼくが生まれた時、手に持ってたんだって」
「え!?」
「どうしてかはわからない。……でも、大事なものだってわかってた。……初めてロッティに会った時、これはロッティのものだってわかったんだ」
言いながらジェレミアはシャーロットの右耳に耳飾りをつけて満足そうに微笑んだ。
「……やっぱり、ロッティに似合う」
「あ……りがと……」
シャーロットは恐る恐る耳飾りに触れた。
(ジェレミアが生まれた時に持ってた……)
なんだかとてつもない宝物に思えてくる。
それをシャーロットが貰ってもいいのだろうか?
胸がドキドキする。
ジェレミアと目が合うと、優しく微笑まれた。
(真っ白なジェレミアから零れた雫みたい……)
ジェレミアの瞳を見ていたら、すとんと何かが胸に落ちた。
「だいじにするね」
口から零れたのは決意だ。
これはシャーロットが受け取るべきものだと何故かすんなり思えた。
ジェレミアが嬉しそうに頷いたのを見て、シャーロットも嬉しくなった。
―――それは広大な海に一滴だけ落としたインクのごとく、魂に微かに刻まれた記憶の残滓。
――きっと、ジェレミアと出会えたのは奇跡みたいなこと。
「ジェレミア」
「ん?」
「なんでも、ない……ただ呼んだだけ!」
「……へんなロッティ!」
くすくすくすとお互いに堪え切れずに笑い合う。
シャーロットはなんとなくいつか二人で子猫を飼う気がした。理由はわからないけど、なんとなく。




