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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第九十四話:魔王陶酔

第九十四話:魔王陶酔


 五月雨の名残を含んだ湿った風が、設楽原一帯の青々とした草を低く揺らしていた。

 連吾川の流れは連日の雨でわずかに濁り、川面には重い鉛色の空が淀むように沈み込んでいる。夜明けの朝靄はすでに薄れつつあったが、大気にはなおねっとりとした水気が残り、鎧の下へじわりと染み込むような不快さが将兵たちの肌にまとわりついていた。


 極楽寺山の陣所に立つ織田信長は、その湿り気すら己の権威を飾る心地よい冷気であるかのように目を細めていた。

 眼下には、自らが緻密な計算の末に築かせた強固な陣地が広がっている。

 川向こうへ向けて何重にも並ぶ馬防柵。削り立ての木肌はまだ生々しく白く、地面へ深々と打ち込まれた太い杭は、武田という猛々しい虎を食い殺すための鋭い牙のようであった。その背後には三千の鉄砲足軽が列を成し、火縄を雨気から守るための覆いが一寸の狂いもなく整然と並んでいる。さらに後方には弓衆、槍衆、荷駄隊。すべてが無駄のない配置で完璧に機能していた。


 信長は、その光景に深い満足を覚えていた。

 これまでの日ノ本における戦国大名たちは、皆一様に戦場での個人の武勇を競った。誰が先陣を切ったか。誰が敵将の首を討ち取ったか。どれほど勇ましく、潔く死んだか。だが、そんなものは所詮、山猿のような田舎侍の見栄と自己満足に過ぎぬ。

 戦とは本来、確実に勝つための仕組みの構築である。大将個人の力が強いかどうかではない。どちらの仕組みが論理的で優れているか。それだけで歴史は決まるのだ。


(武田信玄入道は、確かに強かった)

 信長は静かに思う。甲斐の虎。古き戦の極みに到達していた男。

 だが同時に、あの男の戦はあまりにも古い。騎馬武者の荒々しい疾駆、譜代の宿老たちの情による結束、血気盛んな豪胆なる突撃。それらは戦場において確かに恐ろしい威力を発揮する。だが結局は、一部の猛将の気迫や情念に頼った戦だ。大将が死ねば終わる、脆い砂上の楼閣である。

 人の気迫など、銭の力でかき集めた鉄と火薬の圧倒的な物量の前では、ただの消耗品に過ぎない。


 信長は南蛮渡りの遠眼鏡を静かに持ち上げた。

 冷えた金属の感触が指に馴染む。覗き込んだ視界の先、霧の向こうから徐々に輪郭を現した武田軍を見た瞬間、信長の瞳がわずかに細まる。


(……ほう)

 そこにあったのは、信長の知る甲斐の猛虎の軍勢とは、似て非なるものだった。

 武田軍は静かだった。あまりにも静かすぎた。

 戦の朝であるというのに、怒号がない。馬を落ち着かせる怒鳴り声も、雑兵同士の私語も、陣替えに伴う混乱も見えない。無数の旗指物が風を埋め尽くすこともなく、必要最小限の軍旗だけが規則正しく配置されている。

 兵たちは一定の間隔を保ち、まるで土木工事の測量線のように微塵の乱れもない。


 信長は思わず遠眼鏡を下ろした。

 戦場であるのに、生気が薄い。いや、違う。個々の武者の熱気が完全に消え去り、その代わりに巨大な一個の冷徹な意思だけが、軍全体を分厚く覆っているのだ。


「……妙な軍よな」

 ぽつりと漏らした声に、傍らの丹羽長秀が小さく息を呑む。

「はっ。武田勢、昨夜よりほとんど動きがございませぬ。陣替えの兆候もなく、ただ息を潜めているように見えまする」

「兵の気勢を上げる声も、馬のいななきも聞こえぬ」

「恐れながら……あまりにも不気味ではございます」


 長秀の不安げな言葉に、信長は鼻で短く笑った。

「逆よ。奴らは己の限界を知り、怯えておるのだ」

 かつての武田軍なら絶対に違った。無数の旗指物が林立し、陣中には天地を震わせるような鬨の声が響き、武者たちの昂ぶりが目に見える熱となって空へ立ち上っていたはずである。だが、今の武田は静かすぎた。不自然なほどに。

 信長には、それが旧き怪物が自らの死を前にして完全に委縮した、死の沈黙に見えていたのである。


 この設楽原へ至るまでの武田の動きは、信長にとっても決して軽いものではなかった。

 遠江の要衝、高天神城の陥落。

 あの報せが届いた時、信長はまず「早い」と思った。あまりにも早すぎた。高天神は、信玄ですら容易には崩せなかった遠江屈指の堅城である。それを若き陣代である勝頼は、力攻めではなく、周囲の補給路を完全に断ち、水脈を封じ、城兵を戦う前に疲弊させ、あっさりと降伏へ追い込んだという。


 その血の通わぬ戦ぶりには、信長もわずかな違和感を覚えた。

 勇猛ではない。むしろひどく冷たかった。まるで戦ではなく、算術でもしているかのような攻め方だったのである。

 さらに奇妙だったのは、その後だった。勝頼は遠江へ深入りしなかった。浜松城を包囲するでもなく、徳川領を荒らし尽くすでもなく、兵をまとめると素早く三河方面へ転じたのである。そして長篠城を囲み始めた。


 信長はそこで初めて、勝頼の意図を読んだ。

(なるほど。家康を餌にして、このわしを直接戦場へ引っ張り出し、織田を叩くことで己の天下取りの箔をつけようという算段よな)

 長篠城は奥三河への入り口の要地ではあるが、天下の趨勢を決するほどの城ではない。武田が本気で天下を狙うなら、浜松を圧迫し続けた方が遥かに得策だ。それでも長篠へ向かった。つまり勝頼は、徳川を救わねばならぬ状況を意図的に作り、そこへ織田を引きずり出そうとしているのだ。


 そこまで考えた時、浜松からの急使が届いた。家康からの書状だった。

『このまま援軍なくば、三河・遠江の維持かなわず』

 文面は簡潔だった。だが、その裏に滲む家康の異常な焦燥は明らかだった。

 追って届いた報せによれば、高天神救援の動きは結局間に合わなかったという。家康も無策ではない。本多忠勝らを先遣として動かしていた。だが、勝頼の進軍があまりにも速すぎた。

 武田軍は、従来のような「集まってから動く軍」ではなくなっていた。必要な兵がすでに編成され、糧食も定められた場所へ先回りして運ばれている。しかも遠江から三河までの行軍が異様に乱れない。脱落も少ない。略奪もほとんど起きない。


 信長は、遠眼鏡を握る指にわずかに力を籠めた。

(勝頼の小倅は、確かに兵と兵站の仕組みを変えたな)

 補給、移動、統制、城攻め。あらゆる速度が、従来の戦国大名の尺度を完全に越えている。それは父・信玄の延長ではない。全く別種の軍制であった。

 だが同時に、信長は確信していた。


(だからこそ、ここで終わる)

 武田は変わった。その認識は正しい。だが、変わった程度では決して覆せぬ絶対的なものがある。それが、信長の築き上げた火力の集中運用だった。


 信長は再び遠眼鏡を覗く。

 三重の馬防柵。その背後に並ぶ三千の鉄砲足軽。列ごとに装填と射撃を分担し、絶え間なく撃ち続けるための完璧な隊列。もはや個人の武勇が入り込む余地はない。組織として敵を殺すための、巨大な工場のような構造だった。

(武田が兵站を変えたのなら、わしは戦の概念そのものを変えた)


 信長は己の革新に深く陶酔していた。

 無論、それは単純な慢心ではない。彼は知っている。戦場において最も強いのは、継続して敵を殺し続けられる組織であることを。鉄砲そのものが強いのではない。鉄砲を、一定の律動で一斉に撃ち続けられる統制こそが強いのだ。信長は、その律動をこの日ノ本で初めて完成させたと固く信じていた。


「上様」

 不意に柴田勝家が声をかけた。

「武田、いまだ動きませぬな。川を渡る気配もございませぬ」

 信長は静かに笑った。

「当然よ。勝頼も見ておるのだ。こちらの鉄壁の構えをな」

 連吾川は連日の雨でぬかるみが深い。その先には柵。さらに鉄砲。騎馬が突撃するには最悪の地形だった。

「されど、武田は来ましょうな」

「来る」

 信長は断言した。

「山県を真っ先に前に置いている時点で分かる。あれは、武田の勝ち方そのものだ」


 武田は結局、武田なのだ。信長はそう結論づけていた。

 どれほど兵站を整えようと、どれほど統制を磨こうと、最後に彼らが頼るのは武田の誇りである騎馬の突撃。ならば、その自尊心の塊が迫ってきた瞬間を、一斉射撃で撃ち砕けばよい。

 信長の胸中に、熱い愉悦が広がる。

(勝頼よ。貴様は確かに才ある男だ。だが、わしの方が常に一歩先にいる)


 その時だった。

 信長の視界の端に、右翼に陣取る徳川軍の陣が映る。

 最前列、弾ヶ淵付近に布陣する徳川勢は、明らかに空気が違った。静まり返っている。だが、武田の無機質な静寂とは全く異なる。

 あれは、恐怖だ。

 兵たちの体が不自然に硬い。槍を握る手に力が入りすぎている。家康自身もまた、馬上で微動だにしない。


 信長は怪訝に眉を寄せた。

(家康め)

 三方ヶ原で敗れて以来、徳川はどこか壊れかけている。それでもなお家康が逃げず、この場に踏み止まっていることは、信長にとってはむしろ都合の良い肉壁として頼もしく映っていた。恐怖を知る者ほど、土壇場では必死に生き残ろうと踏み止まる。家康はそういう男だった。

 その家康は今、武田の本陣だけを食い入るように見つめ続けていた。


 徳川家康は、昨夜から一睡もしていなかった。

 鳶ヶ巣山へ向かわせた酒井忠次。その奇襲が成功すれば、武田の背後は崩れる。本来であれば、絶対の勝機となる一手であった。

 だが家康は、どうしても胸騒ぎを消せなかった。

(……勝頼)

 武田本陣は静かすぎた。動揺がない。焦りもない。長篠城を囲みながら、なお設楽原でこれほどの大軍と対峙しているというのに、まるでこの状況のすべてをあらかじめ見通しているような、底知れぬ沈黙だった。


 家康はあの三方ヶ原の夜を忘れられない。

 あの時、勝頼は完全に勝っていた。それでも家康を殺さず、あえて生かして帰した。その真の理由を、家康はいまだに完全に理解できていない。

 ただ一つ分かるのは、勝頼は怒りや情といった感情で動いていないということだった。あの男は、必要だから生かした。必要だから見逃した。そこに情けも激情もなかった。

 だからこそ、死ぬほど恐ろしいのだ。


 家康は武田本陣を見つめた。恐ろしいのは、眼前の山県でも馬場でもない。勝頼である。あの沈黙の中心にいる男。

(止めねばならぬ)

 家康は心の底で、確かにそう思っていた。

 信長への不信は消えない。だが、それ以上に、勝頼をこのまま進ませてはならないという本能的な恐怖があった。もしこの設楽原で武田が勝てば。あの軍制が天下へ広がれば。日ノ本の戦国そのものが、完全に得体の知れないものへと変わってしまう。


「殿」

 本多忠勝が低く声をかける。

「間もなく辰の刻にございます」

 家康はゆっくり頷き、ぽつりと呟いた。

「……忠勝。今日の戦、そちはどう見る」

 忠勝は即答しなかった。やがて武田陣を見つめたまま、静かに言う。

「不気味にございます。されど、勝てぬとも思いませぬ。酒井殿が背後を突けば、武田は崩れ去るでしょう」

 家康はその言葉に、わずかに救われた気がした。徳川はまだ完全に折れてはいない。少なくとも、この男たちは。


 やがて朝靄が完全に晴れる。視界が明確に開けた。

 そして両軍は、互いの全容をはっきりと視認する。

 織田の長大な柵。徳川の決死の前陣。武田の目に染みるような赤備え。

 初夏の風が平原を吹き抜けた。その瞬間、設楽原全体が、巨大な弓弦のように極限まで張り詰める。


 音が鳴った。

 山県の赤備えが進む。馬場の備えが続く。

 赤い軍列が、朝靄を切り裂くように進み始める。


 信長は軍配を握り直した。

 家康は冷や汗を流しながら息を呑んだ。


 二つの異なる新しき理が正面から激突する歴史の分岐点が、ついにその幕を開けようとしていた。

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