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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第九十二話:逆転山嶺

第九十二話:逆転山嶺


 設楽原を覆う夜は、気味が悪いほどに静かであった。

 静かすぎる、と真田昌幸は暗闇の中で思った。

 昼間の設楽原の平地には、織田・徳川の連合軍と武田の軍勢合わせて数万が対峙し、無数の槍の穂先が林立し、張り詰めた殺気と馬の息が白く漂っていたというのに。夜半を過ぎたこの山中には、時折鳴く虫の音と、風が葉を揺らす音しかない。だが、その静けさの分厚い皮のすぐ裏側で、人と人との知恵だけが、互いの喉元へ刃を滑らせようと激しく交錯していた。


 昌幸は雁峰山へと続く険しい尾根道の途中で立ち止まり、闇の向こうを静かに見上げた。

 鳶ヶ巣山砦。

 長篠城の背後を押さえる、名もなき小砦の群れの一つに過ぎぬ。だが、武田勝頼が語った一度目の人生の記憶においては、この小さな山は武田にとって致命的な破滅の綻びとなった場所であったというのだ。

 徳川の重臣・酒井忠次が率いる別働隊が、夜陰に紛れて険しい山道を踏破し、夜明けとともにこの砦を急襲したのだ。背後を突かれた武田軍は激しく動揺し、長篠城を囲んでいた部隊が総崩れとなり、それが設楽原正面の軍勢まで連鎖的に乱すこととなった。あの戦で崩れたのは兵の陣形だけではない。「武田は無敵である」という将兵の確信そのものが根底から折られたのだ。


 ゆえに勝頼は、この山を決して軽視しなかった。

 否。むしろ、この山こそが設楽原の戦い全体の「真の要」であると完全に見抜いていたのである。


「……やはり、参るかな」

 昌幸が闇に向かって低く呟く。

 隣の木陰に控えていた透波の頭領、出浦盛清が音もなく頷いた。

「来ぬ理由がございませぬ。敵方から見れば、ここは長篠城を救い、我ら武田の後方を攪乱するための急所。ましてや、長篠城の包囲を続ける我が本隊は、正面の決戦へすべての意識を引かれているように見せかけておりますゆえ」


「見える、か」

 昌幸は薄く笑った。

「人とは実に面白いものよな。己が見たいと願う隙を見つけると、それを疑いもせずに『真実』と思い込むわけだ」


 勝頼がこの数か月の戦において徹底していたのは、敵を物理的に騙すことではなく、敵の心理を「誤認」させることであった。

 虚偽を力ずくで押しつけるのではない。相手自身に、「己の優れた知恵で敵の隙を見つけた」と思わせるのである。

 高天神城の戦いでもそうだった。武田は力攻めを一切しなかった。ただ補給線を断ち、水脈を抑え、周囲の村々を武田金で掌握し、城を静かに孤立させた。その結果、家康は致命的な誤認をした。

 実際には全くの逆だった。高天神の攻略そのものが、信長をこの設楽原へ引きずり出すための、周到な時間調整に過ぎなかったのだ。


 そして今。この鳶ヶ巣山もまた、全く同じ役割を担っていた。

 徳川方に「ここが武田の唯一の弱点だ」と思い込ませるため、昌幸は数日前から意図的に警備の綻びを作らせていた。

 巡回の間隔をわざと乱す。夜番の交代を半刻だけ遅らせる。荷駄の移動経路を不自然に見せる。どれも本来ならば厳しい軍律違反であり、勝頼が鍛え上げた今の武田軍の規律からすれば、絶対にあり得ぬ瑕疵である。

 だが、だからこそ、老獪な酒井忠次や服部半蔵にはそれが「本物の隙」に見える。


「家康は、武田が以前とは全く違う化け物に変わったことを理解しておるようには見える。されど、完全には理解しきれてはおらぬのだ」

 昌幸は静かに言った。

「勝頼様が兵を銭で常備化し、兵站を盤石に整え、軍を一つの巨大な組織として動かしておられることまでは把握できても、その遥か先……あえて自ら『意図的に隙を演出する余裕』があることまでは、到底読めぬのだ」


 今の武田軍は、もはや旧来の国人衆の寄せ集めではない。農繁期に解散する不確かな臨時動員でもない。法と金で編成された常備兵が中核となり、宿営、糧食、移動速度、伝令系統に至るまで、完全に統制されている。

 だからこそ、完璧な「隙」を演じることができるのだ。本当に統率が乱れている脆い軍隊に、緻密な演技などできはしない。


「勝頼様は仰せでした」

 盛清が低く言う。

「徳川方は、我が軍があまりに恐ろしすぎるがゆえに、逆に、必ず『武田にもまだ古い時代の甘い部分が残っているはずだ』と無意識に期待すると」

「期待、か」

「はい。敵は理解の及ばぬ相手を見ると、必ず自分に都合よく『理解できる部分』を探し出そうとしまする。酒井忠次ほどの老練な将なら、なおさら己の経験則に縋りましょう」


 昌幸は深く頷いた。その通りだった。

 徳川から見れば、今の武田は異様である。行軍は速く、補給は尽きず、城攻めには無駄がない。兵は恐ろしいほど規律正しい。それでいて、正面には山県や馬場といった旧来の武田騎馬武者の威圧感までがしっかりと残されている。

 そんな得体の知れない軍を前にすれば、人はどこかで安心できる材料を欲しがるのだ。

 だから酒井忠次は、この鳶ヶ巣山の綻びに必ず飛びつく。「武田にもまだ油断はある。ここを突けば勝てる」と。

 そう確信した瞬間、人は最も深く、抜け出せない罠へと自ら足を踏み入れるのだ。


 昌幸は山道の先を見つめた。月は雲に隠れ、闇が濃い。だが、その暗闇の中を、徳川の奇襲部隊はすでに息を殺して進んでいるはずだった。

 勝頼が語った一度目の人生の記憶において、酒井忠次が踏破したという山道は、確かに険しい。だが、決して通れぬ道ではない。実際に彼らはそこを通り、武田を崩壊させたというのだ。だからこそ勝頼は、この奇襲を再び「起こり得る必然」として冷徹に処理した。

 一度負け、そして死んだ者の最大の強みとは、己の敗因と敵の思考を完全に知っていることである。


「……勝頼様は、織田信長を微塵も侮ってはおられぬ」

 ふと、昌幸が呟いた。

「信長は必ず家康に酒井を使わせる。あの男は、勝てる盤面には惜しみなく資源を投じ、さらに勝負を決定づける一手には、必ず最も信頼できる最上の将を当てる」

 正面の設楽原では、信長が三河、尾張、美濃から集めた三万を超える大軍勢を並べ、馬防柵の裏で待ち構えている。だが本当に恐ろしいのは、あの魔王が「正面の戦いだけを見ていない」ことだった。長篠城、鳶ヶ巣山、背後の山道。それらすべてを連動させ、武田を崩そうとしている。

 だから勝頼もまた、その信長の高度な読みをさらに上から利用するのだ。


「勝頼様は、今日この場で信長を殺せるとは考えておられぬ」

 昌幸は独り言のように呟いた。

「……どういうことにございますか?」

 盛清が怪訝そうに視線を向ける。

「殲滅はする。織田軍の自信を完全に叩き潰し、天下人としての威勢を微塵に砕く。だが、信長個人の首を獲れるとは、最初から思っておられぬのだ」


 それは昌幸自身、最初聞いた時には意外に思った点だった。普通ならば、これほどの罠を張るのなら敵の大将の首を狙う。だが勝頼は違った。

 彼が狙っているのは、信長という個人ではない。織田の軍事力を支えている「構造」の破壊である。信長という男を天下人たらしめている、動員力、物流、鉄砲の絶対性、そして「織田は新しい」という恐怖と威信。それをこの設楽原で徹底的に破壊する。

 ゆえにこの戦は、単なる野戦ではない。織田の「革新」が、武田の「理」の前には通用しない古い代物であることを、天下の諸大名へ知らしめるための場なのだ。


「武士の武勇だけでは勝てぬ。されど、理と銭だけでも人は最後の死線を越えぬ。ゆえに、その両方を束ねた者が天下を獲る」

 勝頼は以前、昌幸にそう語った。

 山県昌景と馬場信春が正面で「旧き良き武田らしさ」を演じるのも、そのためである。織田に「昔ながらの武勇にすがる武田が来た」と思わせる。その認識を固く信じ込ませた上で、背後から盤面を完全にひっくり返す。それが今回の設楽原の真の姿であった。


 ふと、山の下方から小さな夜鳥の声が聞こえた。

 三度。そして少し間を置いて二度。

 盛清が目を細める。

「……参りましたな」

「うむ」

 徳川の奇襲部隊の先頭が、完全にこちらが用意した誘導地点の奥深くへと入り込んだ合図である。


 昌幸は静かに立ち上がり、歩き出した。

 尾根の裏側の斜面には、すでに勝頼が鍛え上げた常備兵が伏せている。数は二千。だが、無秩序に闇に紛れているのではない。斜面ごとに細かく区画を分け、敵の退路を完全に塞ぎ、合図も徹底して統一されていた。

 夜襲において最も恐ろしいのは、敵ではなく暗闇による味方の混乱だ。だから勝頼は、まず「夜でも完璧に統制できる軍」を造り上げた。それが今、この山で形になっている。


 兵たちは完全な無言だった。私語はない。槍の石突が地面を叩く音すら、厚い布で巻かれて完全に抑えられている。

 昌幸はその静けさに、奇妙な感動すら覚えた。

 かつての武田なら絶対に違っただろう。勇を誇る者が大声を張り上げ、闇の中で先駆けを競い、武功を焦って陣形を乱したはずだ。だが今の兵たちは、自らがこの軍勢の部品の一部であることを完全に理解している。

 勝頼は兵を熱狂ではなく、理の理解で動かしていた。そして、その理解は確実に彼らに根づいていた。


 夜明け前。最も人の気が緩み、同時に希望を抱く刻。

 酒井忠次率いる徳川勢は、そこで無防備に見える鳶ヶ巣山へと一気に飛びかかる。そして勝利を確信し、歓声を上げようとしたその瞬間、逆に暗闇から無数の無機質な槍衾によって完全に包囲されるのだ。


 その頃には、正面の設楽原もまた動き始めているはずだった。

 山県の赤備え。馬場の備え。それらが正面へ堂々と出ることで、信長は確信する。「来た。武田はやはり愚かにも正面突破を選んだ」と。

 その瞬間、信長の視線は前へと完全に固定される。そして自分の背後で、頼みにしていた酒井の奇襲部隊が音もなく消滅していることに気づかない。


 昌幸は空を見上げた。東の端の稜線が、かすかに白み始めている。

「歴史は変わる」

 誰に聞かせるでもなく、昌幸は低い声で呟いた。

「されど勝頼様は、過去の歴史をただ否定しておられるのではない。ただ……すべてを利用しておられるのだ」


 一度起きた凄惨な敗北。そこに至る人間の思考。慢心。恐怖。誤った判断。

 すべてを逆算し、逆用する。それが今の武田だった。

 やがて夜明けが来る。一度目の人生で武田を破滅への坂道へ突き落としたこの小さな山は、今度は織田と徳川の野望を根こそぎ呑み込む、巨大な顎へと姿を変えようとしていた。

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