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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第九十話:革新傲慢

第九十話:革新傲慢


第九十話:革新傲慢


 五月雨の名残を含んだひどく湿った風が、設楽原一帯の青々とした草を低く揺らしていた。

 連吾川の流れは連日の雨でわずかに濁り、川面には重い鉛色の空が淀むように沈み込んでいる。夜明けの朝靄はすでに薄れつつあったが、大気にはなおねっとりとした水気が残り、鎧の下へじわりと染み込むような不快さが将兵たちの肌にまとわりついていた。


 極楽寺山の陣所に立つ織田信長は、その湿り気すら己の権威を飾る心地よい冷気であるかのように目を細めていた。

 眼下には、自らが緻密な計算の末に築かせた強固な陣地が広がっている。

 川向こうへ向けて何重にも並ぶ馬防柵。削り立ての木肌はまだ生々しく白く、地面へ深々と打ち込まれた杭は、武田という巨大な獣を食い殺すための鋭い牙のようであった。その背後には三千の鉄砲足軽が列を成し、火縄を雨気から守るための覆いが一寸の狂いもなく整然と並んでいる。さらに後方には弓衆、槍衆、荷駄隊。すべてが無駄のない配置で機能していた。


 信長は、その光景に深い満足を覚えていた。

 これまでの日ノ本の戦国大名たちは、皆一様に個人の武勇を競った。誰が先陣を切ったか。誰が敵将の首を討ち取ったか。どれほど勇ましく、潔く死んだか。だが、そんなものは所詮、山猿のような田舎侍の見栄と自己満足に過ぎぬ。

 戦とは本来、確実に勝つための仕組みの構築である。大将個人の力が強いかどうかではない。どちらの仕組みが論理的で優れているか。それだけで歴史は決まるのだ。


(武田信玄入道は、確かに強かった)

 信長は静かに思う。甲斐の虎。古き戦の極みに到達していた男。

 だが同時に、あの男の戦はあまりにも古い。騎馬武者の荒々しい疾駆、譜代の宿老たちの情による結束、血気盛んな豪胆なる突撃――それらは戦場において確かに恐ろしい威力を発揮する。だが結局は、一部の猛将の気迫や情念に頼った戦だ。大将が死ねば終わる、脆い砂上の楼閣である。

 人の気迫など、銭の力でかき集めた鉄と火薬の物量の前では、ただの消耗品に過ぎない。


 信長は南蛮渡りの遠眼鏡を手に取った。

 冷えた金属の感触が指に馴染む。対岸の武田陣へ筒先を向けた瞬間、信長は微かに怪訝な表情で眉を動かした。


「……静かだな」

 ぽつりと漏らした声に、側近の丹羽長秀が恭しく頭を下げる。

「はっ。武田の陣営、昨夜よりほとんど動きがございませぬ。陣替えの兆候もなく、ただ息を潜めているように見えまする」

「兵の気勢を上げる声も、馬のいななきも聞こえぬな」

「恐れながら……あまりにも不気味ではございます」


 長秀の不安げな言葉に、信長は鼻で短く笑った。

「逆よ。奴らは己の限界を知り、怯えておるのだ」

 かつての武田軍なら絶対に違った。無数の旗指物が林立し、陣中には天地を震わせるような鬨の声が響き、武者たちの昂ぶりが目に見える熱となって空へ立ち上っていたはずである。だが、目の前の武田は静かすぎた。不自然なほどに。

 信長には、それが旧き怪物が自らの死を前にして完全に委縮した、死の沈黙に見えていたのである。


 この設楽原へ至るまでの日ノ本の流れは、天下人たる信長にとっても決して理解の容易いものではなかった。

 武田信玄の病死の噂。その後、三年間も続いた不気味なほどの情報の遮断。甲斐や信濃へ幾重にも放った透波たちが、まるで底なしの泥沼に呑み込まれたかのようにことごとく消息を絶つという異常事態。

 信長は、この三年間の武田の動向を正確に把握できずにいた。だが、商人たちから漏れ伝わってくる甲府の異様な繁栄と、純度の高い武田金の流通。それらの断片的な情報から、武田勝頼が、単なる無骨な田舎侍ではなく、商いと理を解する厄介な知将であることは間違いなく悟っていた。


(武田勝頼……。親父の遺産を食いつぶすだけの愚息かと思うておったが、存外に器用な手腕を持っておるようだ。家康の心を疑心暗鬼で絡め取り、あやつを三年間も浜松に縛り付けおった)

 数日前、長篠への援軍として合流した徳川家康の顔を思い出す。

 その顔色はひどく青白かった。三方ヶ原で敗れた時の悔しさとも違う。もっと深く根源的な、見えないものへの恐怖に怯える者の顔だった。家康は家中の裏切りを執拗に疑い、己の判断すら信じられなくなっている様子であった。武田が流したであろう巧妙な毒が、三河武士の強固な結束を内側から腐らせている。家康が完全に武田の呪縛に囚われていることを、信長は鋭く見抜いていた。


 だが、信長は家康の恐怖を臆病とは見なさなかった。家康は元来、極めて慎重な男である。死の恐怖を誰よりも敏感に察知するからこそ、これまで生き延びてきたのだ。その家康が怯えているということは、勝頼という男が、それだけ異質で恐るべき底力を持っているという証左に他ならない。


 長篠城を囲んだ勝頼の動きも、従来の武田とは明らかに違った。

 堅城である長篠を力攻めで強引に落とそうとはせず、ただ周囲を包囲して兵糧を断ち、じわじわと締め上げる。そして、城を落とすことよりも、背後から徳川や織田の援軍を引きずり出すことに執着しているように見えた。


(なるほど。若造が、自分の力を過信しおったか。家康を餌にして、このわしを直接戦場へ引っ張り出し、織田を叩くことで己の天下取りの箔をつけようという算段よな)

 信長の口元に、凄絶で残酷な笑みが浮かぶ。


 かつて、武田信玄は己の限界に焦り、強引な西上作戦を行って三方ヶ原で無茶な決戦を挑んだ。そして今、若き勝頼もまた、父の偉大な影を超えたいという血気と焦りから、自らの武勇を証明するためにこの設楽原という決戦の場へ、自ら進んでのこのこと足を踏み入れたのだ。

 歴史の皮肉よな、と信長は冷たく思う。父は寿命に追われて焦り、子は己の功名心と新しき知恵への過信から焦った。

 だが、所詮は山奥の地方大名に過ぎぬ。武田信玄という巨大な父の遺産を継ぎきれず、それでも焦って新しさへ手を伸ばしている最中の、未完成な若武者。


 対して自分は全く違う。尾張統一から畿内平定まで、ずっと圧倒的な新しさで古い世界を完膚なきまでに叩き潰してきた。

 楽市楽座。兵と農の分離。莫大な銭の力。そして何より、鉄砲の集団による組織的な運用。天下とは、古い情や武威を踏み潰した者だけが掴めるのだ。

 そして今、この設楽原こそ、織田信長という男の革新の完成を天下に示すための、最高の舞台であった。

 勝頼をこの馬防柵の内側へ誘い込み、三千の鉄砲の火力と絶対的な規律で叩き潰す。武勇という時代遅れの幻想を、ここで完全に終わらせる。

 信長は、その勝利を微塵も疑ってはいなかった。


 一方、連吾川の対岸。

 武田の本陣は、不気味なほど完全に静まり返っていた。

 陣中には喧騒が一切ない。無駄口を叩く者もいない。一千の直轄兵たちは定められた場所で黙々と握り飯を食い、武具を整え、ただ命令を待っている。

 真田昌幸は、その光景を眺めながら低く笑った。


「見事なものにございますな」

 勝頼は床几に座り、軍配を膝に置いたまま、冷たい目で川向こうの織田の陣を見ていた。

「何がだ」

「信長殿です。まこと見事に、勝頼様の望む通りの場所へ、自ら進んで陣を敷かれた」


 設楽原の馬防柵は、信長が選んだ防衛線である。だが同時に、勝頼もまた、信長をこの地へ誘導していた。

 長篠城を即座に落とさず半端に包囲し続けたのも、そのためである。城が持ちこたえれば、家康は信長に泣きつくしかない。徳川を見捨てれば織田の威信が崩れるため、信長は必ず大軍を率いて来る。しかも、己の新戦術の完成を信じ切り、絶対に勝てると驕り高ぶって。


「人は、自らが最も賢く、絶対に勝てると思い込んだ場所でこそ戦いたがるものだ」

 勝頼が静かに言った。

「信長はここを、我が武田を処刑するための完璧な舞台だと思い込んでおる。己の革新が歴史を変えると信じて疑わぬからこそ、深くこの罠に入り込んだ」


「……では、完全に殲滅なさいましょうか」

 昌幸の問いに、勝頼はわずかに首を振った。

「いや。信長の首はここでは獲らぬ」

 その声はあまりにも冷静であった。

「ここで織田信長を討ち取れば、畿内は完全に無秩序となり、天下の形が崩れ過ぎる。あの男には、西国の古い権威を破壊させるためにまだ生かしておく必要がある。だが、無傷では帰さん」


 勝頼は、一度目の生で自らを滅ぼしたあの織田信長の恐ろしさを誰よりも知っている。だが、だからこそ理解していた。信長は単なる敵ではなく、天下の構造を変えるために利用すべき存在であると。

 必要なのは、織田を完全に潰すことではない。織田の軍事力が絶対であるという日ノ本の幻想を、根底から叩き壊すことだ。天下人としての信長の自尊心を一度完全に地に落とし、その上で、新しい秩序の主導権を武田が静かに呑み込む。

 勝頼が欲しているのは、単なる大戦の勝利ではない。時代そのものの絶対的な支配権であった。


「信長は、自分だけが日ノ本で最も新しい戦をしていると自負しておる」

 勝頼の視線が、対岸の長大な馬防柵へと向く。

「だから、我ら武田が、古い武士の誇りに固執して愚かにも正面から突撃してくると信じて疑わぬ」

 昌幸は口元を歪めた。

「哀れなことですな。我らが、生まれ変わっていることが、全く見えておらぬのでしょう」


 勝頼は答えなかった。

 ただ静かに敵の陣を眺めている。その沈黙の奥底には、かつて長篠で敗北し、愛する者をすべて失った男の凄絶な記憶が深く沈んでいた。


 一度目の人生。己の器の小ささへの焦り、宿老たちへの反発、そして意地。それらの愚かな感情に背中を押され、無謀な突撃を選び、自らの手で武田を完全に壊した。

 だが、今回は違う。もう武勇には一切頼らない。感情で軍を動かすことなど二度とない。

 戦は、戦う前にすでに決まっている。補給、移動、統制、疲弊、恐怖、そして疑念。その無機質な積み重ねの果てに、最後の答えとして刃を突き立てるだけだ。


「夜明けと共に始まる」

 勝頼が静かに扇子を開いた。

「だが、今日ここで終わるのは単なる合戦ではない。

 昌幸が深く、そして狂喜を抑えきれずに頭を垂れる。

「……旧き時代、にございますな」


 勝頼は答えず、ただ遠く極楽寺山を見つめていた。

 川霧の向こう。その先で己の勝利を信じて疑わぬ魔王の姿を。

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