第八十五話:歴史改竄
第八十五話:歴史改竄
深夜の躑躅ヶ崎館は、まるで巨大な獣が息を潜めているかのようであった。
風はぴたりと止み、庭木の影すら揺れない。遠くの番所から微かに響く槍の石突が地面を突く音だけが、張り詰めた夜の冷気を細かく震わせている。
政務局の最奥、固く閉ざされた執務の座敷では、真田昌幸が、石のように動かずにいた。
しかし肩は微かに上下している。だが、それは主君の怒りに触れた恐怖による震えでは断じてなかった。
むしろ逆であった。
勝頼の口から先ほど語られた、恐るべき告白。
長篠と設楽原の惨敗。家臣の離反。天目山の炎。
そして、その死後に魂がはるか中原の大陸へと飛び、和帝として数十年の治世を全うし、再びこの時代に戻ってきたという、常軌を逸した二つの記憶。
それらは、昌幸の内にずっと燻っていた知への飢えを、狂おしいほどに刺激していた。
(……これで、すべての辻褄が合う)
昌幸は理解してしまったのだ。なぜ、この若い陣代だけが、日ノ本の誰も気づかぬような異様な速度で時代を先取りし、追い越しているのか。
なぜ、織田信長が鉄砲と銭の力で進める革新を少しも恐れぬのか。なぜ、古い武士の誇りを徹底して軽蔑し、武田という大名の器にとうてい収まらぬ巨大な視座を持っているのか。
この男は、戦国大名などではない。本物の帝王なのだ。しかも、その恐るべき統治の記憶を抱えたまま、己の失敗を書き換えるために再びこの修羅の地獄へと引き戻されている。
昌幸は、生まれて初めて感じていた。
己が持て余してきた底知れぬ知略が、ようやく底まで使い切れる真の場所を見つけたのではないか、と。
勝頼は、平伏したまま動かぬ昌幸を、静かに見下ろしていた。
(……この男は、わしの狂気とも取れる告白を、完全に飲み込んだ。しかも、逃げなかった)
それどころか、その異常極まりない淵へ、自ら喜んで足を踏み込もうとしている。
勝頼は、文机の脇に置かれた銚子へゆっくりと手を伸ばした。黒漆の簡素な酒器であったが、無駄のない造りに不思議な品がある。
「昌幸」
低く呼ぶ。
「面を上げよ」
昌幸がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もはや未知に対する迷いも恐れもなかった。
「今宵をもって、わしとお前の間にある壁は完全に消えた」
勝頼は、二つの杯を取り出し、自ら酒を注いだ。
とくとく、と。静寂の座敷に、その小さな水音が妙に深く耳へ残る。
「これより先、わしとそなたの間で、主従の形だけの礼など不要だ」
勝頼は、一つの杯を昌幸の目の前へ差し出した。
「わしがそなたに求めているのは、言われた下知にただ従うだけの便利な駒ではない。共に歴史をねじ曲げ、この日ノ本を根底から造り替えるための、もう一つの頭脳だ」
昌幸は、その杯を両手で受け取った。
恭しく。だが同時に、主君の魂の深奥を奪い取るような強烈な熱を帯びて。杯を持つ指先がわずかに震えていた。それは純粋な歓喜であった。
勝頼は、その昌幸の姿を見ながら、不意に過去の懐かしさを覚えていた。
夜更けの冷たい軍営。机上に広げた広大な大陸の地図。銚子を傾けながら、軍師である陳宮と次の一手を語り明かした夜。
『あなたは、人を信じることがひどく下手ですな』
あの痩せた軍師は、いつも苦々しく、しかし深い理解を込めて笑っていた。
『理だけで国は動きませぬ。あなた自身が言ったことではないですか。法は国を縛りますが、情は人を繋ぐ。その両方が揃ってこそ、国は保たれるものです』
勝頼は、その言葉の真意を表面上は理解していたが、完全に自分ものとするには一度目の生で多くを失いすぎた。
今、北条夫人の言葉に背中を押され、ようやく見えてきたものがあった。中原では、足りない情を陳宮が補ってくれていたということを。この地で天の頂に立つためには、己の地獄を、その思考の深淵を完全に共有できる相手がどうしても必要なのだ。でなければ、いかに理で国を固めようとも、いずれその絶対的な孤独の中で必ず狂って壊れる。
「……勝頼様」
昌幸が、手元の杯をじっと見つめたまま口を開いた。
「一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「申せ」
「勝頼様がここに戻られて最初に示された、あの三月で城を落とすという神託」
勝頼の目がわずかに細まる。
二俣城の無血開城。恐ろしいほどの精度で的中した、あの完璧な策。
「あれは、一度目の生の歴史の通りに事態が動くことを知っていたから、その通りになぞっただけにございますか。それとも――」
「違う」
勝頼は即答した。そこに一分の迷いもなかった。
「一度目の生においては、武田軍は二俣城で無駄に時間を浪費し、結果として不十分なまま西上して、無駄な消耗をしてしまった。そして、その流れのまま結果として自らを追い込む結果となってしまった」
勝頼の声音は静かだった。
「わしが中原の人生で学んだものは、敵を打ち破る武勇ではない。人と国を、内側からいかにして静かに窒息させるかという理法だ」
昌幸の目が、鋭く細まる。
「兵糧。物の流通。銭の価値。そして噂、恐怖、欲望」
勝頼は指で机を軽く叩いた。
「真の戦とは、それらを算術のようにつなぎ合わせ、操る技のことだ。……二俣城でのあの三月の神託とは、わしにとって最初の実証であったのだよ」
勝頼は薄く、氷のように笑った。
「己が知る既知の歴史を、大陸で得た、より優れた知恵で書き換えられるかどうかのな」
昌幸の背筋に、ぞわりと深い震えが走った。
そこにあるのは、神仏がもたらす神秘や奇跡などではない。むしろ恐ろしいほどに冷徹で現実的な発想であった。
未来を知っているだけならば、それはただの予知であり、神の領分である。だが勝頼がやっているのは違う。かつての己の『失敗』という完成済みの答えを素材にし、それを全く別の手立てで最短最良の勝利へと、意図的に造り変えるのだ。
それは予知ではない。完全なる歴史の『改竄』であった。
「……なるほど」
昌幸の口元が、ゆっくりと不敵に歪む。
「勝頼様は、歴史そのものを、己の兵法として扱っておられるのですね」
「そうだ」
勝頼は静かに頷いた。
「未来とは、決して絶対の運命などではない。わしが操作し、塗り替えるための、ただの予測の一つに過ぎぬ」
昌幸は、ついに堪えきれずに笑い声を漏らした。
低く。だが心底からの愉悦と楽しげな響きを伴って。
「なんと……なんと甘美な響きにございましょう」
その目には、もはや常人の武将が持つ理性は薄かった。
「主君が一度目の生で敗北という解答を持ち帰り、臣下である私が、それを完璧な勝利へと覆すための過程を組み立てる。……これほど恐ろしく、血の沸き立つ遊戯盤が、この乱世のどこにございましょうや」
その声音には、武士らしい主君への忠義よりも、天下の歴史を裏から操る知略家としての強烈な歓喜が満ちていた。
勝頼は思う。
やはり似ている。あの陳宮に。
あの男もまた、天下の戦乱をただの巨大な盤上遊戯として眺めていた。人の死を軽んじていたわけではない。だが、感情だけで意味もなく国が動き、血が流れることを何よりも嫌ったのだ。
「勝頼様」
昌幸が、射抜くような目で言った。
「もし天が、一度目と同じように再び我らに滅びの運命を強要しようとするならば、その歴史の筋書きごと、跡形もなく焼き払ってみせましょう」
勝頼は黙って聞いていた。
「信長の革新は、」
昌幸は笑う。
「すべて、我らの勝利と新たな国造りを引き立てるための、惨めな前座へと変えて差し上げまする」
その言葉を聞いた時。
勝頼の胸の奥で、常に凍り付いている分厚い氷が、確実に溶けていくのを感じた。
孤独。それは二度の人生を通じ、常に勝頼の魂に付きまとっていた。
未来を知る者は、誰とも同じ場所へ立てない。自分だけがその悲惨な結末を知っている。だから、いかに家臣の前で笑っていても、常に一人だった。
だが今。この男は違う。
昌幸は、勝頼の見ている孤独な絶望の景色へ、自ら喜んで踏み込んできた。恐れずに。楽しげにすら。
「昌幸」
勝頼は静かに呼んだ。
「これより先、わしとお前は一心同体だ」
「はっ」
「内政の外堀は埋まった。純度を極めた銭の流通、土地から切り離された常備軍、火工廠での兵器の規格化、そして堺を通じた情報と経済の支配」
勝頼は机上の日ノ本の白地図を広げた。
その一点を、指先で静かに叩く。
「信長は、いずれ必ずここで待つ」
勝頼の声が低く落ちる。
「三河の、設楽原だ」
昌幸の目が細まった。
「奴はそこに馬防柵を築き、大量の鉄砲を三段に並べ、我が武田の誇る騎馬軍団の突撃を待ち受けるつもりだ」
それはかつて、武田を滅亡へと叩き落とした地獄の光景。だが今の勝頼の顔には、かつての恐怖や焦燥は微塵もなく、氷のような冷静さだけがあった。
「信長にとっては、それが日ノ本の戦の常識を覆す、新時代の象徴であろう」
勝頼はふっと冷たく笑う。
「だが、わしらにとっては、すでに一度通り過ぎた、古臭い古典の戦法に過ぎぬ」
昌幸の口元が鋭く上がった。
「ならば、その古臭い古典。……今度は我らの方から、完璧に添削してご覧に入れましょう」
二人の視線が、地図上の設楽原で鋭く交差する。
そこに恐れはない。あるのは、すべてを支配し尽くした異様な静けさだけだった。
「信長は、自らがこの日ノ本の時代を作っていると信じて疑わぬ御方」
昌幸が笑う。
「ですが残念ながら、すでに遅い」
勝頼もまた、薄く笑った。
「ああ。わしらは、その先の結末をすでに知っておるからな」
昌幸は手元の杯を、一息に飲み干した。
「お任せを。……尾張の魔王の見る夢、この真田安房守昌幸が見事、音もなく焼き払ってご覧に入れまする」
勝頼は自らの杯を掲げた。昌幸もそれに続く。
こつり、と。静かな座敷に、陶器の触れ合う小さな音が鳴る。
それは主従の酒宴の乾杯などではない。
歴史の運命そのものを敵と定めた者同士の、血の誓約であった。
行灯の火が揺れる。
勝頼の瞳から、長く沈んでいた孤独の暗い色が薄れていた。代わりに宿っているのは、より深く、より危険な熱。信頼。そして、歴史を共犯で改竄する炎だった。
夜明け前の冷気が、躑躅ヶ崎館を静かに包んでいる。
だが、この密室だけは違った。ここには今、日ノ本の歴史そのものを根底から捻じ曲げようとする二つの巨大な知性が、静かに、そして激しく燃え上がっていたのである。




