第百九十五話:遺席無言
第百九十五話:遺席無言
春先の雨が、夜のあいだに甲府の町をひとしきり濡らしていた。
躑躅ヶ崎館の庭にはまだ水気が残り、石畳の隙間には、小さな水溜まりがいくつもできている。空は依然として薄く曇っていたが、雨そのものは、すでに上がっていた。その雲の切れ間から、朝の光が淡く滲み出し、濡れた砂利のひとつひとつを鈍く光らせている。軒先からは、まだ雨垂れの名残が、ぽつり、ぽつりと落ちていた。庭木の若葉に残った雫が、風もないのに時折こぼれ、地面へ小さな染みを作っていく。遠く城下からは、朝の商いが始まる気配が、微かな喧噪となって伝わってきていた。
評定の日であった。
家臣たちが、遠方より続々と集まってくる。
各地で政を振るう仁科盛信。内藤昌豊。穴山信君。そのほか、土屋昌恒。長坂光堅。跡部勝資など甲斐にて重責を担うものもいる。そして小山田信茂もいる。
誰もが、定められた位置へ、静かに腰を下ろしていく。誰も遅れない。誰も慌てない。衣擦れの音と、板廊下を踏む足音が、いつもと変わらぬ調子で書院に吸い込まれていく。いつもと変わらぬ、穏やかな朝であった。障子越しの光が、それぞれの膝の上に、細く筋を引いている。
穴山信君が、傍らの小山田信茂へ、小さく声をかけた。
「今朝は、冷えるな」
「ですな」
信茂は、短くそれだけを返した。二人のあいだに、それ以上の言葉はなかった。かつて、立場や家の格も含めて、陣代と確執がなかったわけではない。だが、今は、この武田において同じ列に並び、同じ帳面を見る者として、そこに座った。
跡部が、懐から小さな帳面を取り出し、開いたまま膝の上に置いた。長坂は、筆と墨を用意しながら、庭の方角へ一度だけ目をやった。雨上がりの匂いが、まだ微かに残っている。誰もが、それぞれの支度を、静かに整えていた。
ただ、一つだけ、いつもと違うことがあった。
上座から少し離れた位置。長くこの評定の席に置かれているその場所が、今日も空いていた。畳の目だけが、そこにも変わらず続いている。座布団は、几帳面に置かれたままであった。だが、その上に膝を折る者は、もういない。
誰も、その席を見なかった。誰も、その席について、何ひとつ語らなかった。だが、そこに座るべきであった人物の名を知らぬ者は、この場には一人としていなかった。
高坂昌信。
病に伏してからは、長い月日であった。商流を語り、その老いた声で評定を支えた男である。まだ言葉に力があった頃、役割を失っていた小山田信茂を評定の末席へと送り込み、「お前が言えばいい」とだけ告げたことがあった。あの日、信茂は古い理屈を口にし、そして真田昌幸の返す言葉の前に、その理屈を守り切れなかった。あれから、幾月が過ぎたであろうか。
病床に伏してからも、高坂は、しばらくのあいだ、報告だけは欠かさず聞いていたという。誰かが枕元まで帳面を運び、数字を読み上げると、高坂はただ黙って、天井を見つめていたそうだ。何を思っていたのか、誰も知らない。そのことを、今、この評定の場で、口にする者は一人もいなかった。
高坂の言葉は、もう聞こえない。だが、その話は、すでにひとつの区切りをつけて終わっている。葬儀も終わった。引継ぎも終わった。帳面もすでに整理し終えている。今日のこの評定に、その話が持ち込まれることは、なかった。
勝頼が、静かに入ってくる。一同が、深く頭を垂れる。
勝頼は、定められた席へと着いた。目の前には、幾冊もの帳面が、几帳面に並べられている。越後。下野。常陸。奥州。州牧処理件数。関所通過数。手形発行数。私戦届。数字が、整然と、そこに並んでいた。灯明の淡い光が、その紙の面をわずかに照らしている。
勝頼は、一頁目を開いた。紙の擦れる、静かな音だけが、書院に響く。
「東は」
短く、問う。
昌幸が答えた。
「回っておりまする」
「止まった荷は」
「ございませぬ」
「戦は」
「届いておりませぬ」
勝頼は、小さく頷いた。それだけであった。
以前ならば、違っていた。ここに、高坂の声が挟まったものであった。その声が、今はもう、どこにもない。
それでも、評定は変わらず進んでいく。誰も、困らない。帳面は開かれ、数字は読まれ、処理は淡々と終わっていく。荷は動き、道は通っている。誰かひとりの声が失われたことで、この流れが滞ることは、なかった。それが、かえって空気を、いつもよりわずかに重くしているようにも思われた。
やがて、昌幸が一通の書付を、机の前へ静かに差し出した。
「人事にございます」
勝頼は、その紙へと目を落とした。短い文であった。高坂家の役目についての整理。引継ぎの子細。担当の区分。そして、最後に、一行だけ。
小山田信茂。
昌幸が、静かに言葉を添えた。
「空席のままには、いたせませぬ」
信茂は、黙って深く頭を下げた。誇らしげな様子もなければ、恐縮しきった様子もない。ただ、それをそのまま、受け入れているようであった。その横顔には、緊張の色もなかった。まるで、以前から決まっていたことをただ確かめているだけのような、静かな落ち着きがあった。
勝頼は、紙を閉じた。
「任せる」
それだけであった。
信茂が、さらに深く頭を垂れる。
「はっ」
評定は、そのまま続いていく。誰も、名を口にしない。誰も、惜別の言葉を語らない。誰の目にも、涙は浮かんでいない。だが、誰ひとりとして、そのことを忘れてはいなかった。障子の向こうから差し込む光が、空いたままの座布団の縁を、静かに照らしていた。
昼近くになって、奥州から届いた帳面が開かれた。
昌幸が、その頁を示す。
「北奥にございます」
そこには、まだ見慣れぬ数字の列が並んでいた。武田手形。関所通過。宿場利用。州牧なし。それでも、荷は確かに動いている。
勝頼は、無言のままそれを見つめていた。指先が、頁の端をゆっくりとなぞっていく。
穴山が、ふと口を開いた。
「増えましたな」
「何がだ」
「荷にございます」
穴山は、帳面を指先で軽く叩いた。
「比べものになりませぬ」
昌幸も、静かに頷いた。
「奥州から南へ」
「越後から東へ」
「常陸から西へ」
紙の上に、線は見えない。だが、荷は確かに繋がっている。関所を越え、国境を越え、家の違いを越えて、数字だけが、着実に増えている。誰かが指図したわけでもないのに、荷はおのずと動くべき道を見つけて流れていた。
長坂が、控えめに付け加えた。
「宿場の役人からも、問い合わせが増えておりまする。どの手形なら受け取れるか、と」
「答えは」
勝頼が、短く問う。
「以前と同じにございます。州牧の印か、当家の手形か。それだけにございます」
「戸惑う者は」
「初めのうちは、多うございました。今は、さほど」
昌幸が、付け加えた。
「一度分かってしまえば、難しいことではございませぬ。以前、越後の宿場で若い手代に聞いた言葉を、思い出しまする。……札を見て、印を確かめるだけだ、と」
誰も、それに対して笑わなかった。だが、その場の空気が、わずかに和らいだ。
勝頼は、しばらくそれを眺めていた。やがて、静かに帳面を閉じる。
「よい」
それだけであった。
午後になり、評定も終わりに近づいていた。
書院の空気は、穏やかであった。誰も、戦の話をしない。兵の数も、軍役の割り当ても、陣立ても、話題に上ることはなかった。代わりに並ぶのは、荷。米。塩。青苧。宿場。手形。関所。帳面。そればかりであった。庭先から、雀の声が短く聞こえた。
ふと、跡部が小さく笑った。
「昔ならば」
一同が、そちらへ顔を向ける。
「このような評定、半刻で終わってはおりますまい」
小さな笑いが、そこここで起きた。昌幸も、わずかに口元を緩める。
「違いない」
「昼を過ぎても、終わらなんだ」
「夜半まで続く日も、あったな」
長坂が、思い出したように言い添えた。
「灯明の油が、幾度も切れましたな」
誰かが、小さく相槌を打つ。それだけで、その場に一瞬、懐かしむような静けさが漂った。
勝頼は、何も言わなかった。だが、その耳だけは、確かにそちらへ傾けられていた。灯明の炎が、微かに揺れる。
やがて、穴山が帳面を閉じた。
「東国も、まとまりましたな」
その一言に、部屋の空気が、すっと静まり返った。誰かが息を呑む気配があった。
勝頼は、顔を上げた。穴山を見る。昌幸を見る。それから、目の前に広げられた帳面へ、もう一度、視線を落とす。
そして、口を開いた。
「まとまってはおらぬ」
一同が、黙り込む。
勝頼は、そのまま続けた。
「城は、残っている」
「家も、残っている」
「国境も、残っている」
誰も、口を挟まなかった。
勝頼は、帳面へと再び視線を戻した。
「ただ」
短く、そう言う。
「道が、通っただけだ」
静寂が落ちた。誰も、反論しなかった。それが、まさしく事実であったからだ。
勝頼は、頁を閉じた。乾いた紙の音が、静かに響く。
そして、なお静かに、こう続けた。
「人は加わらぬ」
一同が、顔を上げる。
「道が、加わったのだ」
誰も、それに言葉を返さなかった。書院には、しばらくのあいだ、庭の風の音だけが満ちていた。
だが、その場にいた者のうち、昌幸だけは、確かに覚えていた。遠い日の、まだ何ひとつ始まってすらいなかった頃の評定を。あの時、勝頼が口にした、同じ言葉を。
人ではない。道だと、あの日、勝頼は言った。
あの日は、まだ起きていないことであった。今は、違う。目の前に広げられた帳面の数字が、静かに、それを示していた。あの頃の言葉は、ただの決意であった。今、それは、すでに起きた事実になっていた。
評定が終わる。家臣たちが、順に書院を退出していく。
昌幸。穴山。跡部。長坂。小山田。
衣擦れの音が、一人分ずつ減っていく。廊下を踏む足音も、遠ざかっては消え、また遠ざかっては消えていった。誰かが、廊下の途中で立ち止まり、また歩き出す気配がした。やがて、その足音も、すっかり聞こえなくなった。ただ、勝頼一人だけが残された。
夕暮れが、静かに近づいていた。障子の向こうが、じわりと赤く染まり始めている。庭には、もう誰の姿もない。ただ、風だけが、竹の葉を揺らし続けていた。さらさらという音が、間を置いて聞こえては、また静かになる。遠くで、荷車の車輪が石を踏む音が、一度だけ響いた。
勝頼は、動かなかった。
机の上には、あの帳面がある。東の数字。州牧。手形。関所。荷。どの数字も、着実に増えていた。ただ、戦の届だけが、どこにもない。灯明の炎の先に、微かな煤の匂いが漂っていた。
勝頼は、ゆっくりと顔を上げた。部屋の中を、ゆっくりと見渡す。障子越しの残照が、畳の上を斜めに這っていた。
空いた席があった。高坂の席である。
失われたものは、確かにある。
だが。
視線が、そこから横へ滑る。
穴山信君がいた。小山田信茂がいた。今日もまた、当たり前のように、そこに座っていた。あの日、自らの元を去っていた男たちが、今日もまた、変わらぬ顔でこの評定にいた。
勝頼は、その一人一人の座っていた場所を、ゆっくりと目で辿った。何かを思い出そうとしたわけではない。ただ、そこにあった座布団の跡と、まだ微かに残る温もりの気配だけを、目で追った。
皆、いた。かつて、失われていたはずの者たちが。今日も、いた。
勝頼は、何も言わなかった。それ以上、確かめる必要もなかった。
やがて、静かに視線を落とし、帳面へと戻す。指先が、紙の端に、そっと触れる。
何も、書かなかった。何も、語らなかった。
外で、風が吹いた。灯明の火が、わずかに揺れる。それから、少しずつ、小さくなっていく。
庭の竹が、また一度、さらさらと鳴った。荷車の音は、もう聞こえない。城下の喧噪も、この書院までは届いてこない。ただ、湿った春の夜気だけが、障子の隙間から静かに忍び込んでくる。
部屋は、暗くなっていく。誰もいない。
勝頼は、動かなかった。
灯が、落ちる。
ただ、それだけであった。




