第百六十七話:青苧問答
第百六十七話:青苧問答
障子の隙間から、夜明け前の冷気が音もなく忍び込む。
足元を撫でる風は冷たかったが、部屋の空気そのものは澱み、重かった。夜露を吸った古畳の湿り気と、燃え尽きかけた荏胡麻油の焦げた匂い、一晩中擦り続けた墨の香が混じり合い、行き場を失ったまま四隅に溜まっている。灯明の炎がわずかに揺れ、影が畳の目に細かく揺らめく。
その薄暗い只中で、上杉景虎は自らの膝に置かれた渋紙張りの分厚い帳面を見つめたまま、まるで庭石のように微動だにしなかった。
油皿の底で、かすかに油が爆ぜる音を立てる。芯の先で震える小さな炎が、古びた畳の目に黒々とした揺らぐ影を落とし、景虎の血の気の失せた青白い横顔を不気味に照らし出していた。
一晩の思索によって、首の筋は限界まで張り詰め、石のように凝り固まった肩や背の骨が、浅い呼吸をするたびに鈍く軋む。瞬きをするたび、血走り、ひどく乾ききった眼球が砂を噛むような鋭い痛みを訴えていた。しかし、彼にはその痛みを気遣う余裕すらとうになかった。
傍らの畳に無造作に散乱した幾枚もの反故紙は、暗闇の中で狂ったように書き殴られた数字の羅列と、国々の結びつきを示す無数の線によって、元の紙の色がまったく見えぬほどに真っ黒に潰れていた。強く握りしめ続けた矢立の筆から垂れた墨が指先にこびりつき、武将らしく整えられていた爪の先まで黒く汚している。指を動かすたび、乾いた墨が皮を引きつらせ、微かな痛みが走る。
常陸の佐竹、下野の宇都宮、そして会津の蘆名。東国を割拠する強大な大名たちの名は、景虎の目の前で、もはや絵図面上の陣地や軍勢の数としてではなく、帳面の上の「借財」や「物資の流通量」という無機質な数字として並べられていた。
景虎は痛む目をこすり、分厚い帳面の頁をめくった。紙の擦れる乾いた音が、静寂に包まれた部屋に響く。
肉体はとうに限界を迎えていた。だが、景虎の胸中には奇妙な熱が燻り続けている。それはかつて自らが槍を握り、血生臭い戦陣に立った際、敵の強固な陣形にほんのわずかな綻びを見出し、絶妙な奇襲の策を脳裏に閃いた時と同質の、武将としての血を激しく滾らせる高揚感であった。
昨夜、真田昌幸が縁側に置いていった一枚の武田手形。
そして、景虎が帳面の頁を幾度もめくり続け、無数の数字の海から見えない糸を手繰り寄せるようにして、ようやく目に留まった一行の記載。
『上方市場における会津産青苧の買い取り相場、前年比三割減。損失見込み、およそ五千両』
景虎は震える手で筆をことりと置き、ひどく冷え切った指先をゆっくりと擦り合わせた。
何かが見えかけていた。
青苧。
何故、こんな草の名が何度も出てくる。
帳面のあちこちで、会津の数字と結びついている。ページを繰るたび、青苧の二文字が目に飛び込んでくる。相場、流通量、損失見込み。数字が並ぶたび、同じ草の名が影のように付きまとってくる。
もし、その相場が崩れたら。
会津の帳面は、どこまで傷付く。
分からぬ。
だが、この草の名はあまりにも何度も現れる。
武将が城門や兵糧蔵を探すように。
商人は、この青苧という草を見ているのではないか。
景虎の脳裏で、会津盆地を囲む峻険な山々が、難攻不落の城壁から、逃げ場のない巨大な檻へと姿を変えた。
「……囲われている」
会津の山々が、まるで巨大な檻の格子のように見えた。
城門は開いている。
兵も来ない。
それなのに逃げ場がない。
景虎は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
やがて、障子の和紙が薄青から柔らかな黄金色へと染まり始めた。
外の大路から、朝の甲府が目覚める音がする。荷車の重い車輪が土を擦る音。馬の嘶き。問屋場の前で交わされる商人たちの威勢の良い声。そこには、武家の城下町に響くはずの兵たちの甲冑が擦れる音も、槍を打ち合わせる稽古の音も全くない。ただ、銭と物が絶え間なく循環する力強い活気だけがあった。
庭先の松の葉が、さらさらと朝の風に揺れた。
不意に、廊下の板を踏む足音が近づき、ぴたりと止まる。
すっと襖が開いた。
真田昌幸だった。相変わらず温厚な、文官のような人畜無害な笑みを口元に浮かべている。だが、その背後に渦巻く気配は異様なほどに重く、景虎に向けられた視線は凍てつくように冷たい。
昌幸は部屋の惨状を見渡し、景虎の膝の上の帳面にじっと目を留めると、縁側の敷居の近くに音もなく腰を下ろした。
「夜通し、数字の海に深く潜られたご様子」
昌幸の声は、朝の冷気に溶け込むように静かだった。
「いかがですか。暗闇の中に蠢く理の片鱗は、少しでも掴めましたかな」
景虎は傍らの椀を手に取った。白湯は昨夜のうちにひどく冷たくなっていた。一口だけ含み、張り付いた喉を強引に潤す。
「……ああ。この無機質な数字が作り出すからくりを、思い知らされた」
「ほう。では、我が主より下された『蘆名を落とせ』という命題に、どうお答えになる」
景虎は痛む腰を伸ばし、姿勢を正した。武将としての矜持が、血走った眼差しに微かな熱を帯びさせる。
「青苧だ」
短く、しかし自信を持って言い切った。
「会津の数字に、何度も出てくる。あれを止めれば、蘆名は苦しくなる」
昌幸は無言のまま、先を促すように目を細めた。
景虎は膝の上の帳面を軽く叩く。
「分からぬ。だが、あれが急所だ。武力で国境を塞ぎ、無駄な血を流さずとも、商流を断つだけで蘆名はいずれ戦わずして干上がる」
景虎は長く息を吐き出した。
完璧な答えのはずだった。敵の急所を的確に突き、己の血を流さずに包囲網を完成させる。これ以上の戦術はない。
だが、昌幸の表情はピクリとも動かない。
庭から、鳥の甲高い鳴き声が一度だけ響いた。
昌幸はゆっくりと首を傾げた。
「……見事な算段」
微かな吐息とともに、言葉が紡がれる。
「国の血脈を的確に断ち、兵糧攻めにする。武将としての確かな眼力はお持ちのようだ」
声は穏やかだった。しかし、次の瞬間、その声色からすっと温度が消え去る。
「ですが、私が昨夜申した『数字の裏を見よ』という言葉の真意には、半歩も近づいておられませぬな」
景虎の眉が深く寄る。己の導き出した完璧なはずの結論を、真っ向から否定された苛立ちが胸をよぎった。
「どういう意味だ。どこに誤りがある」
昌幸は瞬き一つせず、景虎の目を真っ直ぐに見据えた。
「では問います。その五千両で、何が消える」
景虎は息を呑んだ。
何が消える。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨を叩くように跳ねた。
五千両が消える。
米が買えなくなる。
荷駄が減る。
商人が潰れる。
だが、それが何だというのだ。
敵国を干上がらせて降伏に追い込むのは、戦の定石ではないか。その過程で餓死者が出るのは、戦の常であり、武士の世界では当然の理だ。
だが、脳裏に前夜の記憶が強烈にフラッシュバックする。
越後政変。底の木目が見えるまで空になった米櫃。
『戦になれば、一番困るのはあっしら下々の者です』
今朝方、朝餉を運んできた初老の下男がこぼした言葉が、耳の奥で生々しく反響した。
数字が命に直結すると頭では気づきながら、いざ盤面を前にして敵を倒す戦略を組み立てようとした瞬間、景虎はそれを「敵を倒すための必然の代償」として無意識に切り捨てていたのだ。
「そ、それは……」
景虎の唇が微かに震える。言い知れぬ羞恥と焦燥が、背筋を這い上がってきた。
「戦となれば、多少の犠牲は免れぬ。真っ先に苦しむのは下々の民や末端の足軽だ。だが、それは敵将たる盛氏が意地を張り、降伏を遅らせた結果であって……」
「それは違いますな」
昌幸の氷のように鋭い声が、景虎の言葉を容赦なく断ち切った。
「五千両という数字は、帳面の上ではたった三文字の墨の跡で終わります」
昌幸は一息置き、さらに語気を沈めた。
「しかし現実の会津では、どうなるか」
昌幸はそこで言葉を切った。
沈黙が落ちる。
庭の松が、さらさらと葉を鳴らすだけだった。
景虎は言葉を失った。
何が違う。
兵糧攻めと同じではないか。
なのに、なぜ昌幸は首を振る。
己の考えた策が、いかに浅薄で、前時代的な武将の理屈に囚われたものであったかを突きつけられ、顔からさあっと血の気が引いていく。
恥辱と敗北感が、胸の奥を激しく掻き毟る。自分はまた、あの雪山の地獄を、今度は算盤の玉を弾くことで作り出そうとしていたのか。
だが、それでも分からない。
何が違うというのか。
「勝頼様は、蘆名を滅ぼせとは仰っておりませぬ」
昌幸のその静かな一言が、決定的な引導となった。
滅ぼせとは言っていない。
景虎の中で、長年培ってきた戦国の論理が音を立てて崩れ落ちる。敵の急所を突いて力を削ぐのが不正解だと言うのか。戦国武将にとって、敵は滅ぼすか、屈服させて領地を奪うかの二択しかないはずだ。
「無体な!」
景虎は思わず声を荒げ、膝の上の渋紙の表紙を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。己の無力さへの怒りが、声となって弾ける。
「商流を断ち、財政を圧迫すれば蘆名は飢える。だが、手を出さずに放置すれば、いずれ牙を剥く! 敵を弱らせながら、どうして滅ぼさずに済む! ならばどうすればよいのだ!」
息を切らして吠える景虎に対し、昌幸は涼しげな顔を全く崩さない。
風が吹き抜け、庭の松の枝がかすかに揺れる音がした。
「盛氏の身になられよ」
昌幸はぽつりとこぼした。
「貴方様は今、甲府の安全な客館から、高みの見物で盤面を動かしているに過ぎない。もし貴方様が蘆名の当主・盛氏であったなら、四面楚歌の中でどう動きますか。あの野心深き老将が、ただ大人しく座して、財政の破綻を待つとお思いか」
敵将の視点。
景虎は乱れた呼吸を無理やり整え、必死に思考を巡らせた。
会津盆地を支配する黒甲冑の群れ。老獪な狸とも称される盛氏の矜持。誇り高き武将が、ただ干上がるのを待つはずがない。
「盛氏ならば……待つはずがない。窮地に陥る前に、活路を開こうとするだろう」
そこまで言って、景虎は自らの言葉にはたと気づき、息を呑んだ。
だが、具体的な手立てまでは見えなかった。
昌幸が、この朝初めて薄く笑った。
「御明察」
昌幸の目がすっと細められ、底知れぬ凄みを帯びる。
庭で、蝉の初鳴きが短く、ジリッと響いた。
風が吹き抜け、葉擦れの音がかすかに鼓膜を打つ。
「盛氏は、有能な老将です」
昌幸はゆっくりと立ち上がった。その動作には一切の無駄がなく、静寂そのものを羽織っているかのようだった。
「……それだけ、覚えておかれませ」
景虎はハッとして顔を上げた。
「待て。限界まで追い詰め、自ら……」
問いかける景虎に対し、昌幸は答えなかった。
ただ、背を向けたまま微かに口角を上げ、音もなく襖の向こうへ消えた。
衣擦れの音。そして、遠ざかる足音。
景虎は再び、一人残された。
窓から差し込む朝の光が、部屋を完全に明るく照らし出している。
景虎は、膝の上の帳面を閉じようとして、墨で汚れた指が微かに震え、動かなかった。
ただの薄い紙の束のはずだった。
だが今、その重さは、長年戦場で握り続けてきた槍や刀よりも、はるかに重く感じられた。
墨で記された数字は、もはやただの数字ではない。
景虎は帳面から目を逸らすことができなかった。
ならば、この算盤は、いったい誰を生かすためのものなのか。
その答えを知るには、まだあまりにも早かった。




