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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百六十三話:兄妹邂逅

第百六十三話:兄妹邂逅


 甲府の春は、分厚い雪雲に閉ざされた越後や、常に潮騒の香りを帯びていた小田原とは異なり、盆地特有の濃厚で穏やかな空気に満ちていた。

 躑躅ヶ崎館からほど近い、静かな武家屋敷が立ち並ぶ区画。その一角に設えられた豪奢な客館の縁側に、上杉景虎は独り、壁に落ちた影のように力なく座していた。

 視線の先には、見事に手入れを施された広大な庭園が広がっている。白砂は枯山水の波の模様を描くように精緻に均され、築山に植えられた老松は青々とした枝を誇らしげに広げている。庭の中央を占める池の水面には、うららかな春の陽光が反射して、眩いばかりの光の破片を散らしていた。どこからともなく飛んできた小鳥が枝先で愛らしい声で囀り、春の暖かな微風が通り抜けるたびに、木々の葉がさらさらと絹衣を擦るような音を立てる。

 ふと、土の匂いに混じって、遠くの城下の厨から飯を炊く柔らかな煙の匂いが鼻先をかすめた。腹は減っていない。だが、その当たり前の生活の匂いが、かえって景虎の胸をギリリと締めつけた。御館の雪の中で、飢えと寒さに耐えかね、刀を握る力すら失っていった兵たちが、薄れゆく意識の中で欲したものが、まさにこの炊き立ての飯の匂いであったからだ。

 絵画のように完成された美しき箱庭の情景と、平和な生活の匂いは、景虎の胸の内に巣食う底知れぬ虚無を癒すどころか、彼が失ったものの大きさを残酷なまでにあぶり出すだけであった。


 あの執務の間で武田勝頼と対峙してから、すでに数日が経過していた。

 景虎の耳の奥底には、今もなお、勝頼が放った無機質で氷のように冷徹な言葉の数々が、呪縛のようにへばりついて離れなかった。


『死ねば損だからだ』

『北条が育て、上杉が鍛えた。その二十年は二度と作れぬ』

『東国には、お前の名が要る。だから生かす』


 武将としての死を乞うた己に対し、勝頼は怒りも憐れみも示さず、ただ国の財としての価値を算定し、冷淡に保存を宣告した。その言葉の刃は、景虎の肉体ではなく、彼が彼自身を構成してきた「武士」という精神の骨格を、根本から粉々に打ち砕いていた。

 自分はもはや、関東管領の血脈を引く上杉家の当主候補ではない。小田原の覇者・北条家の誇り高き駒でもない。ただ甲府という巨大な機関において、いつか来るべき用途のために蔵へ保管された、血の通わぬ国の財の一つに成り下がったのだ。

 己が人生を賭して鍛え上げてきた武芸も、戦場での采配も、この甲府の地では埃ほどの価値すら持たない。刃を交えずして越後を干上がらせたあの見えざる経済の網の前に、かつての武将の論理は完全に無力化されていた。

 腹を切る理由も、生きる理由も失った。ただ呼吸を繰り返し、与えられる上等な飯を食い、こうして縁側で庭を眺めるだけの抜け殻。景虎は膝の上に置いた己の両手を見つめた。かつて重い槍を握り、敵の血を吸った剣を振るったその手には、もはや戦う者の熱はなく、ただ力なく干からびた枯れ枝のように見えた。

 爪の間には、まだ落としきれぬ越後の黒い土の色が残っていた。御館の雪原で幾度も突き立てた槍の柄が刻んだ、消えぬ胼胝もある。だが、それらはもはや武士の勲章ではなく、己の無力さを示すただの傷痕としてそこにあるだけであった。


「……我は、とうに死んでおるのだな」

 乾いた唇から漏れた声は、春の風に瞬時に溶けて消えた。

 遠く、板塀の向こうの城下からは、絶え間なく行き交う荷車の車軸が重く軋む音と、商人たちが弾く算盤の音が微かに響いてくる。その規則正しい音は、古い時代を完全に終わらせ、新しい時代を刻み続ける時計の針のようであった。景虎には、その音の意味がまだはっきりとは分からなかった。ただ、それが武士の鬨の声よりも恐ろしく、それでいて妙に耳障りではないことだけが、不思議であった。


 その時、静まり返った客館の廊下の奥から、かすかな足音が近づいてきた。

 それは、重い具足を鳴らす武士の足音でもなく、すり足で急ぐ小姓のものでもなかった。上質な絹の衣が畳を静かに擦る、柔らかくも凛とした気品を帯びた足音であった。

 景虎がわずかに顔を向けると、襖が静々と開かれ、小姓の先導によって一人の女性が姿を現した。

 桜色を基調とした上質な小袖を身に纏い、美しく結い上げられた黒髪には控えめな鼈甲の簪が挿されている。その顔立ちは、透き通るような白さの中に、どこか毅然とした武家の女の強さを秘めていた。

 武田家陣代、武田勝頼の正室――北条夫人であった。


 景虎は息を呑んだ。

 夫人は小姓を下がらせると、静かに歩みを進め、景虎の数歩手前で端座した。

 すぐには、どちらの口からも言葉が出なかった。

 二十年という途方もない歳月が、二人の間に横たわっている。お互いの顔に刻まれた時の流れ、背負ってきた過酷な運命の重さが、言葉を紡ぐことを躊躇わせていた。

 静寂の中で、二人の呼吸の音だけが微かに交差する。

 夫人の瞬き。景虎の震える喉仏。

 庭の木々が風に揺れる音だけが、長すぎる空白を埋めていた。


「……三郎兄様」

 やがて、夫人の唇から震えるように紡がれたその呼びかけに、景虎の全身が雷に撃たれたように硬直した。

 声そのものは、記憶の中の幼い妹のものより低く、落ち着いていた。歳月と、武田の御台所として重ねてきた場数とが、その声音に静かな重みを刻んでいた。

 三郎。それは、彼が上杉の養子となる前、北条家の七男として小田原にいた頃の幼名である。

 景虎は目を見開き、目の前に立つ女性の顔を食い入るように凝視した。幼き日、小田原城の広い庭で共に遊び、潮風の香る相模の海を並んで眺めた妹の面影が、そこにあった。彼女は北条氏康の六女であり、景虎とは同じ血を分けた実の兄妹である。

 武田と北条の同盟の証として甲斐へ嫁いだ妹と、上杉へ養子に出され、やがてその地で敗れた兄。戦国という非情な運命の荒波に翻弄され、全く別の道を歩んできた二人が、今、武田の総本山であるこの甲府の地で、勝頼の正室と客将という数奇な立場で再会を果たしたのだ。

 最後に顔を合わせたのは、景虎が小田原を発つ朝であった。まだ幼かった妹は、門前で泣きじゃくりながら景虎の袖を小さな手で強く握りしめ、決して離そうとしなかった。やがて乳母に抱きかかえられて連れていかれたあの時の、小さな指の感触を、景虎はまだ生々しく覚えている。布地に食い込んだ、あの必死な力の強さも。


「……お六、か」

 景虎の声は、自分でも驚くほど震えていた。

 夫人は静かに頷いた。衣擦れの音が一度、二度と続き、やがて静まる。彼女の瞳には、かつての小田原での日々の懐かしさと、今こうして生きて再会できたことへの深い安堵の涙が光っていた。

「ようこそ、ご無事で……。越後での戦がどうなったのか、風の便りに聞くたびに、わたくしは気が気ではありませぬでした。兄様が甲府へ運ばれたと聞き、すぐにもお会いしとうございましたが、勝頼様のお許しが出るまで控えねばならず……」

「……武田殿が、会うことを許したと申すか」

 景虎は、微かに目を伏せた。あの感情を持たぬように見える冷徹な男が、情けをかけたというのか。いや、違う。自分という存在がもはや武田にとって微塵の脅威でもなく、陰謀を企てるだけの気力すら残っていないことを完全に見透かしているからこその、絶対的な自信の表れだろう。

「我のような敗残の将に、自らの正室を会わせるなど。あの男は、我を愚弄するつもりか」

 吐き捨てるような声には、しかし力がなかった。怒りを装う気力すら、もはや彼の中には残っていなかった。


 夫人は、兄の投げやりな言葉を静かに受け止め、小さく首を横に振った。

「勝頼様は、そのように思われてはおられませぬ。……お許しを乞うた折、あの方はこう仰られました」


『家が変われば役目は変わる。だが、血は変わらん』


「わたくしが、『ですが兄は敗残の将にございます』と申し上げますと、勝頼様は手元の帳面から目を離さずに仰られました」


『会ってこい』

『あれは敗将だ。敗将だからこそだ』


「勝頼様はそれだけ告げられると、再び帳面へ視線を戻されたのです」

 景虎は目を見開いたまま、しばらく声を失っていた。喉の奥が、渇いた砂のように張りついている。

 無愛想でぶっきらぼうなその響きの中に、武士の理でも家の理でもない、不思議な重みが潜んでいるように思えた。


 用意されていた茶道具へ静かに手を伸ばし、夫人は慣れた手つきで茶を点て始めた。柄杓から湯が注がれ、白い湯気が二人の間で揺れながら消えていく。茶筅が抹茶を泡立てるシャカ、シャカという音が、客館の静寂に柔らかく響く。

 やがて、美しい翡翠色に泡立った茶碗が、景虎の前へと静かに差し出された。掌に伝わる温もりだけが、この日初めて景虎に触れた確かな熱であった。

「どうぞ、兄様。甲斐の水で点てたものですが」

 景虎は震える手で茶碗を受け取り、ゆっくりと口をつけた。

 熱い。

 舌の先がひりつき、思わず茶碗を持つ手が止まる。長らく忘れていた、生きている者だけが感じる確かな痛みであった。

 夫人がそれを見て、ふ、と小さく笑みをこぼした。

「……兄様は昔から、いつも熱い茶を慌てて飲んで、舌を火傷しておられましたね」

 景虎の喉の奥で、何かが詰まった。

 視界がふいに滲む。彼の眼裏に、小田原の広大な庭が鮮やかに蘇った。

 春の陽光が降り注ぐ中、父・氏康から初めて自分用の木刀を渡されたあの日。潮風が相模の海から吹き抜け、庭の梅の香りがふわりと香っていた。庭の隅では飼い犬が陽だまりで昼寝をし、木刀を振り回して得意げになっていた自分は、喉が渇いて母の茶を慌てて飲み、舌を火傷して泣きべそをかいた。その時、一番に駆け寄ってきて、小さな手で水の入った椀を差し出してくれたのが、幼いお六であった。

 あの頃は、ただ北条の誇りだけを信じて生きられた。海のように広く、盤石な家族の絆があった。しかし今は、その誇りそのものが、己を苛む最大の呪いとなっていた。


「……覚えて、おったのか」

「忘れるわけがございませぬ」

 その一言だけで、二十年という歳月と、上杉・北条・武田という家の名の隔たりが、束の間だけ溶けて消えた。


 景虎は茶碗を置き、深く、重い息を吐き出した。視線を庭へと落とす。

「お六。我は御館で、最後まで戦うつもりだったのだ」

 声が、掠れる。

「雪が、音を吸っていた。馬の嘶きも、矢羽の音も、みな雪の底へ沈んでいくようであった。……兵たちは、腹を空かせ、頬をこけさせ、それでも槍を杖にして立とうとしていた」

 景虎の瞼の裏には、その光景がいまだ地獄の絵巻のように焼きついていた。

 若い足軽が一人、雪の上に片膝をつき、握った槍を杖にしてなお立ち上がっていた。唇は割れ、白く乾いていたが『義のためだ』と繰り返し呟いておった。だが、突き出す相手はどこにもいなかった。

 代々上杉に仕えてきた老臣もいた。己の食い扶持を削り、椀の底にこびりついたようなわずかな粥を我に差し出し、自らは柱に寄りかかったまま身動き一つできなくなった。……戦場を駆け抜けた我の愛馬も、飼い葉が尽きてしまい、兵たちは泣きながらその首を撫でていた。

 景虎の指先が、袴の上できつく握られる。爪が布地に食い込み、指の節が白くなった。

「我は、あの者たちに何と声をかければよかったのだ。義のために死ね、と言えたのか。……言えなんだ。血の一滴も流せず、ただ餓死寸前まで追い詰められていく兵たちを前に、我はただ無力に生き恥を晒し、結局、何もしないまま甲府に運ばれたのだ」

 庭先の松の枝が、風もないのに小さく揺れた。景虎は、己の両手を見下ろした。その手は、あの雪の中で誰一人救えなかった、罪深い手であった。


 夫人は即答しなかった。静かに茶碗を見つめ、言葉を探すように深い沈黙が続いた。

 やがて、彼女は顔を上げ、兄の目を真っ直ぐに見据えた。

「……兄様。その義は、誰を生かしましたか」


 景虎は、言葉に詰まった。

 御館で飢えに苦しみ、動けなくなっていった兵たちの、こけた頬と乾いた唇が脳裏を過った。喉が干からびたように、声が出なかった。膝の上に置いた両手が、意思とは関係なく小さく震えていた。

 夫人は、少しだけ寂しそうに微笑み、そして静かに語り始めた。

「わたくしにも、武士の義が何なのかは分かりませぬ。最初は、勝頼様が恐ろしゅうございました。情け容赦なく敵を追い詰める、氷のようなお方だとばかり思っておりました。ですが……」


 夫人はそこで言葉を切った。

 喉まで出かかった言葉を、静かに飲み込む。


 ――あのお方が、本当は何を背負っておられるのか。

 ――なぜ夜毎に魘され、誰にも見せぬ涙を流されるのか。


 その理由を知る者は、おそらくこの世でただ一人。

 だが、それはあのお方が誰にも背負わせまいと決めたもの。

 私の口から申し上げることではない。


 夫人は静かに目を伏せた。

「……申し上げられぬことがございます」

 その一言だけであった。

 景虎は思わず息を呑んだ。

 夫人はゆっくりと続ける。

「ただ一つだけ、お伝えできます。勝頼様は、お一人で何かを背負っておられます」

「それが何であるか、私は申し上げられませぬ。ですが、その重さだけは、毎夜この目で見ております」

「朝になれば、何事もなかったようにあの冷たいお顔で帳場へ向かわれます。それでも、その背中だけは……誰よりも重たく見えるのでございます」

「ですから私は思うのです。あのお方は、人が死ぬという結末だけは、何よりも恐れておられるのだと」


 長い沈黙が落ちた。

 景虎は即座には応えなかった。ただ、冷めきった茶をすすり、両手で包み込んだ茶碗の水面をじっと見つめていた。

 庭先の松が風に揺れる。遠く板塀の向こうから、城下の商いが生み出すパチン、パチンという算盤の音が微かに響いてきた。


 妹は勝頼を讃えようとしているのではない。ただ見たままを語っているだけだった。だからこそ、否定できなかった。

 義。

 その二文字が胸の中で音を立てて崩れていく。

 飢えに苦しみ、倒れ伏した兵の顔ばかりが浮かび、勝頼の顔は浮かばなかった。


 景虎の胸の奥で、何かが軋む音がした。

 義。

 二十年信じ続けたその二文字が、自らの足元から崩れ落ちていく。


 その瞬間、遅れて怒りが込み上げた。

 それは勝頼に対する怒りではない。義を否定されたことへの怒りでもない。

 これまで己が信じ、すがりついてきた「武士としての価値観」が、根本から間違っていたのではないかという、己自身への猛烈な怒りであった。

「ならば……!」

 景虎は声を荒げようとした。我らは間違っていたのか、と。

 だが、その怒りは矛先を失い、喉の奥で虚しく霧散した。

 耳に届く絶え間ない算盤の音が、人を飢えさせないための確かな脈動として響き始めていた。

 景虎の持つ茶碗が、微かに震え始めた。茶の水面に波紋が広がり、己の顔が歪んでいく。

「……我らは」

 ぽつりと、掠れた声が漏れた。

「人を守るために、戦っていたつもりだった」

 景虎の目から、一粒の涙がこぼれ落ち、茶碗の縁を伝って畳へ吸い込まれた。続けてもう一粒、また一粒。肩が、堪えきれぬように震え始めた。

「なのに……人を死なせぬ者へ、負けたのか」

 その涙は、救われた者の涙ではなかった。二十年背負ってきた武士という重い鎧が、この一杯の茶と妹との再会によって、音もなく崩れ落ちていく涙であった。


 夫人は、泣き崩れる兄を、ただ静かに見守っていた。何も言わず、ただ隣に座り続けた。庭の小鳥の囀りだけが、変わらぬ調子で続いていた。


 景虎はしばらくして涙を拭い、深く息を吐いた。声は、まだ掠れていた。

「……どう生きればよいのか、我にはまだ分からぬ」

 視線が、ゆっくりと庭の向こう、甲府の空へと動く。

「だが……死ぬより難しい道だが、歩かねばならぬ。この理が本当に民を生かすのなら、己に何ができるのか。生きて見届けねば、支持してくれた者たちに顔向けができぬ」

 それは、希望に満ちた前向きな言葉ではなかった。武士として死ぬことを許されなかった男が、重い十字架を背負って生き延びるという、苦く悲壮な覚悟の言葉であった。

 夫人は、深く頷き、静かに微笑んだ。

 冷めかけた茶碗から、最後の湯気が細く立ち上り、やがて風もない空気の中へ静かに消えていった。兄妹の時間は、静かに、そして確かに流れていた。


 客館を辞した夫人は、自室に戻ると、すぐに筆と文箱を用意させた。

 日はすでに西に傾き、障子越しの光が畳の上に橙色の縞を描いていた。侍女が灯した燭台の炎が、微かに揺れる。硯に水を垂らし、墨を擦る音だけが、静まり返った部屋に長く尾を引いた。墨の匂いが、鼻先にゆっくりと満ちていく。

 宛先は、相模の小田原城。現在の北条家の当主であり、彼女と景虎の長兄である北条氏政である。

 筆を執った手が、一度だけ止まった。

 兄の顔と、父・氏康の顔。そして、武田の陣代としての勝頼の顔。

 自分は北条の娘として、氏政を武田の理に売り渡すことになるのではないか。一瞬の迷いが、筆先を震わせた。指先に、まだ茶碗を支えていた時の温もりの名残があるような気がした。

 だが、その迷いは長くは続かなかった。違う。北条の家と民を百年先まで残すためだ。彼女は覚悟を決め、長兄への二通目の文をしたため始めた。


『兄上。

 私は先日、三郎兄様と再会いたしました。

 兄様は敗れました。ですが、武田は兄様から名も誇りも奪いませなんだ。

 あのお方は、兄様を敗者ではなく、一人の人として遇しておられます。』


 夫人の筆は、迷いなく走っていく。


『以前私は、勝頼様の理を書き送りました。

 ですが今度は、理ではなく、この目で見たことを書き送ります。

 戦に勝てば敵は減ります。

 ですが勝頼様の理では、敵が味方へ変わります。

 私は、その姿をこの目で見ました。』


 彼女は一息つき、墨をつけ直して最後の一文を書き綴った。


『兄上。

 これを敵として見るか。共に東国を支える柱と見るか。

 そのご判断は、兄上だけにございます。』


 夫人は筆を置き、乾ききらぬ墨の文字を静かに見つめた。灯火の光の下で、墨の黒はまだ濡れて光っていた。書き終えた安堵と、これから起こることへの不安とが、胸の内で入り混じっていた。

 この一通の手紙が、やがて小田原の氏政の心を揺さぶり、彼にどのような決断を下させるのか、彼女にはまだ分からない。だが、妹として、北条の血を引く者として、なすべきことを成したという確かな感触だけが、胸の奥に残っていた。

 文を丁寧に折り畳み、封をする。蝋の垂れる音が、小さく響いた。


 夫人が廊下を歩き、ふと振り返る。

 西日はすでに翳り、庭には薄い藍色の夕闇が忍び寄っていた。

 どこかの家から漂う、夕餉の支度をする匂い。泥まみれになって駆け回る子供たちの明るい笑い声。遠くの鍛冶場から響く、規則正しい鎚の音。

 夫人は、その音に耳を澄ませながら、もう一度だけ客館を振り返った。

 兄は、まだ空を見上げていた。

 その耳にもまた、甲府の町から絶え間なく響く算盤の音が届いているはずだった。

 パチン、パチン。

 武士の鬨ではなく、人を生かす国の鼓動が、夕暮れの甲府に静かに脈打ち続けていた。

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