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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百六十一話:客将之影

第百六十一話:客将之影


 うららかな春の陽光が、開け放たれた障子の向こうからたっぷりと差し込んでいる。

 床の間には見事な水墨の掛け軸が下がり、違い棚には精巧な細工が施された香炉が置かれていた。そこから立ち上る伽羅の微かな香りが、部屋の空気を静謐なものにしている。縁側の向こうには手入れの行き届いた老松が枝を伸ばし、初夏の風に揺れる池の水面がきらきらと輝いていた。どこからか聞こえてくる小鳥の囀りが、この場所が平和の只中にあることを無慈悲なほどに告げていた。

 上杉景虎は、真新しい井草の香りがする畳の上に座り、ただその光景を虚ろな目で見つめていた。

 越後の厚い雪も、すでに溶け始めて泥濘に変わっていたはずだった。

 小田原の北条家に生まれ、人質として他国をたらい回しにされ、ようやく上杉謙信の養子として安住の地を得た。だが、あの大いなる父が急死すると、越後生え抜きの者たちに担ぎ上げられた景勝との間に、望まぬ家督争いが起きてしまった。景虎自身には上杉を乗っ取るような強烈な野心はなかったが、よそ者として爪弾きにされ、己を慕い共に生きようとしてくれる者たちを守るためには、やむなく御館へ籠城するしかなかったのだ。

 その時、景虎は実兄である北条氏政に密使を送り、救援を要請していた。小田原の当主たる氏政は必ずや助けを送り、さらには同盟国である甲斐の武田勝頼をも動かしてくれるはずだった。

 事実、信濃国境には武田の将・仁科盛信の軍勢が進出していた。強固な北条との絆があれば、武田の精鋭が春日山城の景勝を牽制し、自分たちを窮地から救い出してくれると信じていた。景虎は、毎日櫓に登り、南の空を見つめては、北条、武田の旗印が現れるのを待ちわびていた。

 だが、氏政からは物資の援助すら送られず、盛信の軍勢は国境から一歩も越後へ踏み込もうとはしなかった。

 ただ国境に腰を据え、越後そのものを牽制するという不気味な沈黙を保ったのだ。

 そして、その代わりなのか、越後に「奇妙なこと」が起きた。武田の兵が関所を物理的に封鎖したわけでもないのに、越後へ向かう牛馬が、一頭も国境を越えなくなったのである。青苧を買いに来ていた上方商人も、塩を積んだ駄馬も、米俵も、すべてが忽然と姿を消した。

 一体、何が起きているのか。御館に籠る景虎には見当もつかなかった。ただ、武田勝頼が手形と銭の巡りを操作し、巨大な商流の網を引いたことで、商人たちが自らの意思で一斉に越後を見捨てたのだ。

 目に見えぬ手が国全体の喉元を締め上げた。御館を包囲しなければならないはずの景勝軍は、陣を張ることもなく、一向に攻め寄せてこない。鉄砲の音ひとつ、勝鬨の声ひとつ聞こえなかった。ただ、越後の重い空から雪が降り積もり、すべての音を吸い込んでいく。

 待てど暮らせど、景勝は攻めてこない。

 北条の援軍も現れない。

 ただ、蔵の米だけが音もなく減っていった。

 最初は馬の飼葉を煮てすり潰し、それすら無くなると、粥はすまし汁のように薄くなった。やがて城の裏手にある松の皮が剥がされていったのだ。

 雪解けの泥濘の中で、兵たちは次々と戦意を失っていった。戦う相手がいないまま、ただ内側から干からびていく絶望。腹を切るほどだった悲壮な戦意すら削ぎ落とされ、景虎たちはただ限界を迎えた飢えに抗えず、刀を置くしかなかった。

 そして景虎は真田に連れられ、甲府へと移送された。勝ったはずの景勝もまた、戦う前から国が干上がっていく恐怖に抗えず、勝頼の前に膝を折り、武田の「越後守」として国を預かることを受け入れたという。

 上杉の誇りも、家督争いも、戦もせずにすべてが終わった。

 ならばせめて、敗将として越後で首を刎ねられるか、さもなくば躑躅ヶ崎館の暗く冷たい地下牢に繋がれるのが定めというものだ。それが戦国の世の習いであり、武士としての最後の結末のはずだった。

 だが、勝頼は景勝に景虎を殺させることもなく、牢に繋ぐこともなかった。

 あてがわれたのは、躑躅ヶ崎館の敷地内にある、この広大で豪奢な離れである。


 静かな衣擦れの音が廊下から響き、スーッ、と滑るように襖が開かれた。

 現れたのは、質素ながら一糸乱れぬ身なりの年配の下女と、黒塗りの高膳を捧げ持った二人の小姓であった。彼らは、敷居を跨ぐや否や、景虎が目覚めているのを確認し、板の間に額が触れるほど深く平伏した。

「御客将様、お目覚めでござりますか。長旅でお疲れのことと存じます。まずは空にされたお腹を満たしていただくため、お食事をお持ちいたしました」

 静々と枕元へ運ばれた膳から、白い湯気が立ち上った。

 こんもりと盛られた、透き通るような白米。旬の青菜と豆腐がたっぷりと入った味噌汁の、鼻の奥を掴むような濃厚な出汁の香り。ふっくらと焼き上げられ、皮目に塩の結晶が浮いた川魚。それらが、景虎の視界に暴力的なまでの色彩と熱をもって迫ってくる。

 景虎の胃の腑が、雷鳴のように激しく鳴る。

 喉の奥が引き攣るように痙攣し、口内にじわりと唾液が湧き出す。理性とは無関係に、雪の中で死の淵を彷徨い限界まで削り取られた肉体は、食物の熱と匂いに対し、狂おしいほどの執着で反応するようになっていた。指先が、勝手に膳へと伸びかけ、空中で震えながら止まる。

「……この数日にわたる厚遇、これは、何の真似なのだ」

 景虎は震える両手を握り込み、掠れた声を振り絞って小姓たちを睨みつけた。

「いかなる謀略か。我を飼い慣らそうというのか。いっそ毒でも盛ってあればよいものを」

 怒声に、小姓たちはビクッと肩を震わせた。だが、彼らは逃げることも刀を呼ぶこともなく、すぐに再び深く頭を下げた。

「滅相もござりませぬ。我らはただ、勝頼公より『御客将様を丁重にもてなし、決して不自由をさせるな』と固く仰せつかっておるのみにござります。どうか、お召し上がりくださりませ」

 その態度は、あくまで恭しかった。彼らの目に浮かんでいるのは、敵将への憎しみでも蔑みでもなく、ただ主君の命を忠実に守ろうとする真摯な畏れだけであった。

 景虎は、湯気を立てる椀を見た。

 右手が、ピクリと動く。

 爪が手のひらに食い込むほど拳を固く握り締め、ゆっくりと、己の膝の上へ戻した。もしもここで罵られ、白刃を突きつけられたなら、まだ武将として抗いようがあった。怒りを爆発させ、討死を遂げることもできただろう。だが、この底抜けに恭しく差し出された温かい椀を前にしては、己の内に燻る怒りすらも空回りするばかりだった。

 景虎は拳を握る。力が入らない。ただ、指先だけが小さく震えていた。


 小姓たちが下がり、しばらくして、再び足袋の擦れる音が近づいてきた。

 襖が開き、一人の男が姿を見せた。共に御館に立て籠もった家臣、本庄秀綱であった。

 その姿に、景虎は目を見張った。泥にまみれていたあの惨めな姿ではない。新しく仕立てられた清潔な木綿の小袖を身に纏い、無精髭も綺麗に剃り落とされている。あれほど削げ落ちていた頬にも、すっかり肉が戻り、瞳には確かな生気が宿っていた。

「……殿。お目覚めにございましたか」

 秀綱は畳に両手をつき、深く頭を下げた。

「秀綱……だいぶ見違えたな。甲斐に来た他の者たちはどうしている。皆、息災か」

「はっ。我ら家臣一同、別棟にて手厚い介抱を受けております。温かい汁と白米を腹一杯食わされ、皆、みるみるうちに顔色を取り戻しておりまする。念のため毒見もいたしましたが、何事もございませぬ。湯浴みも許され、今は皆、疲れを癒やしております」

 秀綱はそこで一度言葉を切り、悔しげに唇を強く噛んだ。その目元が、僅かに赤く滲む。

「……ただ、情けなきことにござりますが。毎日温かい飯を与えられ、柔らかな布団で眠るうちに、皆、すっかり骨抜きにされております。己が武士であることすら忘れ、『戦わずに済んで良かった』『これで雪の中で死なわずに済む』などと口走る若者まで出る始末。殿……彼らはもう、刀を握る気力すら完全に削ぎ落とされておりまする。武田は、飯を食えずに戦意を失った我らに、今度は飯を食わせるだけで、戦う牙をことごとく抜き去ってしまったのです」

「馬鹿な」

 景虎の口から、低く掠れた声が漏れた。

「我らごと越後を干上がらせたのはおそらくは勝頼ぞ。今更何を企んでおるというのだ。我らをたらふく太らせ、牙を抜き去った後で、氏政兄上の面前へ引き出し、見せしめに斬首するつもりか」

 秀綱は、ゆっくりと首を振った。

「それがしにも、一向に読めませぬ。ただ……館の周囲を警護している武田の兵たちは、確かに我らを監視してはおりますが、囚人を扱うような素振りは微塵も見せぬのです。まるで、どこぞの貴人を護衛しているかのごとき丁重さにござる」

 秀綱は言葉を切った。庭の池で、鯉が跳ねる水音が静かな部屋に響いた。

 秀綱は、深い溜息をついた。

「……殿。我らは、越後で一矢報いることすらできず敗北いたしました。そして今、武田の掌の上で、責められることも、殺されることもなく、ただうまい飯を食わされて生かされている。我らは、いったい何のために……あの御館の泥の中で、必死に耐え凌いでいたのでしょうか」

 秀綱の声が、広々とした座敷に虚しく吸い込まれていく。

 景虎は、己の手のひらを見つめた。

 ただ身体だけが安全な場所で満たされていく。背筋が、ぶるりと粟立っていた。


 じっとしてはいられなかった。

 景虎は立ち上がり、館の縁側から白い砂の敷き詰められた庭へ降りると、そのまま表門へと向かって歩き出した。

 立派な瓦屋根の門に近づく。両脇には、武田の菱紋を背負った足軽が控えていた。

 景虎は腰の重心を落とし、身構える。

 槍を交差させて道を塞がれるのを待った。「敗将の分際でどこへ行く」と罵られ、敵意を向けられることを、どこかで望んでいた。そうされれば、まだ自分が武将であることを確かめられる気がしたのだ。

 そう思って、一歩進む。

 だが、足軽たちは景虎の姿を認めるなり、慌てて手にした槍の穂先を天へ向け、深く頭を下げて恭しく道を譲った。

「……外へ出ても、良いのか」

「はっ。御客将様の城下の散策はご自由に、と仰せつかっております。ただ、万が一にも不測の事態が及ばぬよう、我らがお供として数名、後を固めさせていただきますが、何卒ご容赦くだされ」

 縄もない。鉄の鎖もない。

 景虎は、開け放たれた門の外を見た。

 無言のまま門の敷居を跨ぎ、甲府の城下へとその足を踏み出した。


 大通りへ出た瞬間、景虎の鼓膜を凄まじい轟音が打ち据えた。

 それは、大軍勢のときの声でも、鉄砲の轟きでもない。

 広く平坦に突き固められた主街道を、信じられない数の荷車が幾重にも連なって行き交う、車軸の軋む音であった。巨大な地鳴りのように腹の底に響き、足元の土を微かに震わせている。

 駿河の湊から引き上げられた荒塩の俵が、汗まみれの牛に引かれて山のように通り過ぎる。信濃の険しい山を切り出したであろう真新しい木材が、強い木の香りを放ちながら運ばれていく。三河の厚手の木綿、京からの華やかな反物。

 そして景虎が目を疑ったのは、その荷車の列に、かつて越後の特産であった「青苧」が山のように積まれていたことだ。越後を豊かにしていたはずの富が、まるで甲斐の自国の品であるかのように当たり前に運び込まれ、次々と大問屋の巨大な蔵へと吸い込まれていく。

「武田の朱印、確かに!」

「よし、通れ! 次は相模からの荷だ!」

 問屋の店先では、異様な光景が広がっていた。

 これほど膨大な物資が動いているというのに、銭の音が一切しないのだ。

 大判小判の眩い輝きも、鳥目の擦れ合う重たい音もない。上方から来たと思しき豪商たちが、武田の朱印が押された薄っぺらい和紙の手形を一枚、帳場に差し出すだけで、蔵一つ分の物資が瞬時に右から左へと動いていく。

 百人を超える手代たちが、店の奥で一斉に算盤を弾いている。その音は、まるで初夏の夕立が瓦屋根を打ち据えるかのように、パチン、パチンと途切れることなく町全体に降り注いでいた。

 立ち上る馬の糞の匂い、焙じ茶の香ばしい煙、行き交う人足たちのむせ返るような汗の臭い。

 甲斐の国は、山に囲まれた貧しい国であったはずだ。だが目の前にあるのは、越後の春日山城下はおろか、小田原の城下すら凌駕する、底知れぬ富が渦巻く巨大な胃袋のような都市であった。

 景虎は、ふらつく足取りで、その圧倒的な熱量の渦の中を歩いた。

 自分たちを泥の中で飢えさせた「得体の知れない力」の正体を、まざまざと見せつけられているようだった。武力ではなく、この恐ろしい算盤と紙切れの力が、越後から飯を奪い、兵たちから戦う牙を抜き去ったのだ。紙一枚が、無数の米俵より、いや、いかなる名刀よりも強い。

 町人たちは、石を投げてくるはずだ。越後の将であり、敗残の身である。罵声を浴びせられ、唾を吐きかけられてもおかしくないはずだった。

 景虎は身を硬くし、両拳を握りしめた。

 だが、重い荷車を引く人足が、「どいてくだされ、大荷が通りまする!」と真っ直ぐな声を上げて景虎の横をすり抜けた。

 背後についていた護衛の足軽が、景虎が突き飛ばされぬよう、さりげなく人波を避けた。

 すれ違う商人たちは、手に持った手形と帳面から目を離さない。

 大根を抱えた町女房が、景虎の袖を掠めて足早に歩き去る。店の軒先では、丁稚の子供が野良犬を追いかけて走り去っていった。

 誰も、景虎を見ない。

 景虎は、泥濘む街道の端に立ち尽くし、目の前を行き交う無数の人々を見た。

 北条の三つ鱗を掲げる旗は、ない。

 上杉の毘の字を掲げる旗も、ない。

 そして、武田の兵も、誰一人として己に槍を向けてこない。自分という人間が、この巨大な経済の歯車の中では、憎む価値すらない路傍の石ころと同義であることを見せつけられていた。

 ふと、景虎の口の端が歪んだ。

 景虎は笑った。

 声は出なかった。

 算盤だけが鳴っていた。


「……そうか」


 ぽつりと、零れ落ちた。


「飼われている」


 乾いた呟きは、行き交う重い車輪の軋みの中に、瞬時に掻き消された。


 同じ刻。

 喧騒から遠く離れた躑躅ヶ崎館の奥深く。

 膨大な政務の帳面に黙々と目を通す武田勝頼の傍らで、真田昌幸が窓の外の甲府の城下へ視線をやり、口元に薄く弧を描いた。

「そろそろお呼びしてよろしい頃合いかと」

 勝頼は、筆を動かす手を止めず、帳面から目を離さないまま、短く命じた。

「うむ、呼べ」


 活気に満ちた人波の向こうから、武田菱を背負った一人の小姓が、人混みを縫うように足早に近づいてきた。

「御客将様」

 小姓は、立ち尽くす景虎の前で立ち止まり、深く一礼した。

「我が主、勝頼公が、館にてお待ちにございます。……これより、お越し願えますでしょうか」

 景虎は、ゆっくりと顔を上げた。

 勝頼。

 その名だけが残った。


「……案内せよ」


 景虎は、歩き出した。

 背後で、算盤が鳴った。

 パチン。

 巨大な荷車が、地鳴りを立てて横を過ぎた。

 誰も、景虎を見なかった。

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