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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百三話:遺命継承

第百三話:遺命継承


 設楽原の圧倒的な敗戦から、数日が過ぎた。

 遠江、浜松城には、重い鉛色の沈黙が泥のように沈殿していた。

 城門は固く閉ざされ、物見櫓には昼夜を問わず兵が立っている。だが、その姿にかつての三河武士の勇猛な覇気はない。城下へと続く街道にも人影はまばらであり、荷を積んで通る商人たちも皆、異様な空気を察して遠巻きに城を見上げるだけで、そそくさと通り過ぎていく。


 徳川家康、討死。

 その報せは、すでに遠江から三河の全土へと瞬く間に駆け巡っていた。

 しかも厄介なことに、単に大将が戦場で名誉の討死を遂げたというだけではない。設楽原から命からがら逃げ戻ってきた敗残兵たちの口から語られる武田軍の異様な様相が、人々の心から戦意そのものを根こそぎ奪い取っていたのである。


 崩れない。乱れない。

 怒号も上げず、勝ち鬨すら上げず、ただ冷たく押し潰してきた。

 火縄の轟音と分厚い硝煙の奥から現れたその異質な軍勢の話は、単なる敗北の体験談というよりも、何か得体の知れぬ天災や怪異の伝承のように尾を引いて広まっていた。


 浜松城の大広間では、留守を預かっていた城将や譜代の重臣たちが、息の詰まるような重苦しい空気の中で言葉を交わしていた。

「武田は、まだ動かぬのか」

「高天神を落とし、さらに設楽原での大戦を経た直後で、敵も兵糧や弾薬を消耗しておろう。すぐには遠江の奥まで攻め込んで来ぬとの見方もあります」

「……ならば、今のうちに尾張へ使者を飛ばし、もう一度、信長公へ援軍を――」


「無理だ」

 低く、重い声がその場の空気を一刀両断に断ち切った。

 広間へゆっくりと足を踏み入れたのは、本多忠勝であった。

 泥と血にまみれた具足はまだ完全には整えられていない。だが、その巨躯が現れた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに変わった。

 続いて榊原康政、鳥居元忠らも無言のまま姿を現す。

 彼らは確かに生きて戻った。だが、その顔に宿っているものは、死地からの生還者が抱く安堵などではない。もっと重く、深い絶望の澱であった。


「忠勝殿」

「殿はいかがなされたのだ。討死されたとの噂が広まっておる」

 必死の問いが飛ぶ。

 忠勝は数瞬だけ重い沈黙を守り、やがて地の底から絞り出すように低く言った。

「……討たれたのだ」

 広間から、一切の音が完全に消え失せた。


「殿は最期に仰せられた。武田へ復讐に走るな、と」

 誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。

「無謀な戦で三河と遠江を焼くな。民を飢えさせるな。徳川という家を残したいならば、武田に従って生き残れ、と」

 静かな声だった。だが、その言葉は重い鉛となって広間の底へ沈んでいく。


「武田に降ると申されるかッ」

 若い将の一人が、耐えきれずに血相を変えて叫んだ。

 忠勝は怒鳴り返さなかった。ただ、深く暗い瞳でその男をじっと見据えた。それだけで、相手は気圧されて言葉を失う。

「……わしも、最初は武士としてそう思った。御首を挙げられた以上、一歩も引かずに刺し違えるのが三河の意地だと」

 忠勝はゆっくりと広間を見回した。

「だが、違う」

「違う、とは……」


「今の武田は、城一つや二つを落として満足するような古い軍ではない」

 忠勝の脳裏には、設楽原で見たあの絶望の光景がまざまざと焼き付いていた。

 恐怖すらも完璧に統制された、血の通わぬ軍勢。そして、その中心で一切の感情を見せずに立っていた武田四郎勝頼の冷徹な姿。

「あれは、ただ戦に勝つためだけに動いておらぬ」

 誰も口を挟めなかった。


「兵糧の備蓄、安全な街道の確保、質の良い銭の流れ、そして商人や村々の取り込み……すべてを戦の前に完全に押さえ、戦う前に国そのものを内側から呑み込むつもりで動いている。……あの男は、我らのような戦国の世に生きる武士などではない。もっと異質な化け物だ」


 それは、彼らがこれまで命を懸けて戦ってきた武士の姿ではなかった。

「今ここで意地を張り、この浜松だけで無謀に抗えばどうなる」

 忠勝の声はさらに低くなる。

「遠江は飢える。三河は割れる。食い詰めた敗残兵は野盗に成り下がる。百姓は逃げ出し、田は荒れ果て、最後は武田の冷たい理によって一方的にすり潰されるだけだ」


 広間にいた者たちは、誰一人として反論できなかった。

 なぜなら、その凄惨な未来があまりにも容易に、そして現実的に想像できたからである。

 武田はすでに二俣を押さえている。遠江随一の堅城・高天神も落ちたばかりだ。遠江の喉元は、完全に武田の手に握られている。

 そして何より、頼みの綱であった織田信長は、設楽原で自軍の損耗を悟るや否や、徳川を完全に見捨ててさっさと尾張へ退いたのだ。


「では……我らはどうされるおつもりですか」

 忠勝は即答しなかった。代わりに榊原康政が静かに前へ出る。

「すでに、半蔵が動いている」


 ざわめきが起こった。

「服部半蔵は設楽原を離脱後、浜松には戻らず、真っ先に三河の岡崎へ向かった」

「岡崎へ……」

「信康様がおられるからだ」

 その言葉で、全員が事の重大さを完全に理解した。


 浜松にはまだ忠勝たち歴戦の将が戻ってきた。だが、三河の中心である岡崎には、家康の嫡男である若き松平信康と、三河譜代の重臣たちの家族が残されている。もし誰か一人でも血気に逸って弔い合戦を叫べば、三河は即座に火の海となり、完全に割れる。

 だからこそ半蔵は、敗走の泥を落とす暇すら惜しみ、最優先で岡崎へ走ったのである。


「そして、半蔵はすでに、配下の伊賀者たちを各地へ放っている」

 康政が重い口調で続ける。

「岡崎、吉田、西尾、浜松周辺の村々、そして遠江の国衆。すべてだ」

「そこで、何を伝えているのですか」

「殿の最期の御遺命だ」


 広間が再び、水を打ったように静まり返る。

「武田に決して抗うな。戦を避け、武田へ降れ。そして、民を守れ、とな」

 若い将の何人かが、屈辱に顔を激しく歪めた。

 だが、忠勝は彼らを決して責めなかった。悔しいのは皆同じだった。設楽原で主君を護りきれず、死ねなかった自分自身を、忠勝は今も腹の底から憎み、許してはいない。

 だが。

 それでも家康は、最後の最後で「生きろ」と言った。三河を守れと厳命した。ならば、いかに武士の誇りが血を流そうとも、従うしかない。


「半蔵はさらに、各地の国人衆の動きを裏から洗い出している」

 元忠が口を開く。

「武田に従う者、不承不承従う者、あるいは暴発の危険がある者。そのすべてを先に把握するためだ」

「まるで……我ら自らが、武田の手足となって働いているようではないか」

 誰かが苦々しく呟いた。


 忠勝は静かに、しかし明確に答える。

「違う」

 その声には、揺るぎない強い断定があった。

「徳川という家を残すためだ」


 その言葉に、広間の空気がぴたりと止まる。

 徳川を残す。それは、この場の誰もが胸の奥に抱えながらも、最も口に出すことを恐れていた悲痛な願望だった。


「殿は戦場で滅びた。だが、松平の血脈まで完全に絶やせとは仰せにならなかった」

 康政が静かに続ける。

「だから信康様を残す」

「……」

「徳川の家を、歴史から完全に消し去らせぬためにな」


 誰も言葉を発せなかった。

 それは武将としての屈辱であった。だが同時に、細く残された最後の救いでもあった。

 本来の戦国の習いであれば、敗れた大名の一族は完全に断絶する。女児や赤子まで含め、後顧の憂いを絶つために一族郎党根絶やしにされることも決して珍しくない。

 だが、武田勝頼は違う。

 あの男は、従う者を殺しはしない。有能な者は機能として使う。その異様なほど冷徹な合理性を、設楽原で刃を交えた者たちは皆、肌で理解していた。


「勝頼は、いずれ信康様を利用する気だ」

 元忠が低く言った。

「三河を荒らさず、無血で手に入れるための、都合の良い象徴としてな」

「……ならば」

 老臣の一人が恐る恐る口を開く。

「信康様は、生き残れるのでしょうか」


 忠勝はしばらく黙った。やがて、重々しく答える。

「分からぬ」

 それは偽りのない正直な言葉だった。

「だが、少なくともあの男は、無意味には人を殺さぬ」

 それだけは断言できた。勝頼は感情で首を刎ねる男ではない。国に必要なら生かす。不要なら切る。ただ、それだけだ。

 だが逆に言えば、徳川が武田の国造りの役に立つ役割を果たせる限り、生き延びる余地が確実にあるということでもあった。


「では我らは……」

「徳川として、武田へ降る」

 忠勝がはっきりと言い放った。

 その瞬間、広間にいた全員が、自分たちが生きてきた「天下を争う戦国の時代」の完全な終わりを理解した。

 徳川家は、もう天下を競う独立した大名ではなくなる。武田勝頼という巨大な秩序の中に組み込まれる側へと回ったのだ。

 だが。それでも。

 民を守れる。三河の地を戦火で焼かずに済む。若き信康の命を残せる。

 ならば。武士としてのちっぽけな誇りより先に、主君・家康の最期の遺命を絶対に守り抜くべきだった。


 忠勝はゆっくりと立ち上がった。

「まず浜松の兵を落ち着かせる。次に、各城へ正式な書状を早急に出す」

 その眼差しは、再び三河武士の柱としての強さを取り戻していた。

「勝手な抗戦は一切許さぬ。略奪も許さぬ。城下へ手を出した者は、この本多忠勝が徳川の法として自ら斬る」


 その厳格な声音に、皆の顔が強く引き締まる。

 まだ終わってはいない。徳川は確かに敗れた。だが、無秩序な崩壊だけは絶対に避けねばならない。そのために彼らは生き残ったのだ。


 一方その頃。

 三河の岡崎城。

 服部半蔵は、物見の櫓から夕闇に沈む城下を静かに見下ろしていた。

 すでに配下の伊賀者たちは各地へ散っている。三河の国衆、遠江の土豪、寺社、商人、そして逃げ帰ってきた敗残兵。そのすべての動向を先に把握するためだ。

 武田の直轄兵がやって来る前に、無用な反乱の火種を完全に摘み取る。それが、敗軍となった今の半蔵の最も重要な役目だった。


 背後で、静かな足音がした。

 振り返ると、家康の嫡男、松平信康が立っている。

 まだ若い。だが、その顔には数日前までの青さは完全に消え失せていた。


「忠勝たちは」

「間もなく浜松を完全にまとめ上げるでしょう」

 半蔵が短く答える。

「……父上は、最期までこの三河の地を案じておられたか」

「はっ」

 信康はしばらく黙り、やがて夜風に向かって静かに言った。

「ならば、私は決して逃げぬ」


 半蔵は目を細めた。

「三河の者たちが生き残るために武田へ従うというのなら、私がその先頭に立って泥を被る」

 まだ若い声だった。だが、その決意は本物だった。

 半蔵はそこで初めて、この若殿が単なる血筋だけの御曹司ではないと理解する。家康のしぶとい血は、確かに残っていたのだ。


「半蔵」

「はっ」

「武田は、本当にこの三河を焼かぬか」


 半蔵は少しだけ、暗い空を見上げた。

 設楽原で垣間見た、あの武田勝頼の冷え切った目を思い出す。

 あの男は、すでに戦のずっと先にある統治を見ていた。国をどう動かすか。銭をどう流すか。人をどう配置し、機能させるか。

 その中では、三河を無意味に焼いて灰にすることは、明確な損失でしかないはずだ。

「……決して焼かぬでしょう」


 信康が静かに、しかし深く息を吐き出す。

「ならば」

 若き松平信康は、ゆっくりと顔を上げた。

「徳川は、生き残るために頭を下げる」


 その言葉は、惨めな敗北宣言ではなかった。

 理不尽な滅亡を強烈に拒絶する者の、静かで、そして最も重い覚悟であった。

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