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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百一話:獅子終焉

第百一話:獅子終焉


 夜の設楽原には、もはや戦の熱が少しも残っていなかった。

 昼には天地を揺るがしていた怒号も、鉄と鉄が噛み砕き合うような凄まじい激突音も、今は遠い悪夢の残響のように重く沈んでいる。五月雨の湿った夜風が、硝煙と強烈な血臭の混ざった泥のような空気をゆっくりと押し流し、踏み荒らされた赤土の泥濘の上を不気味に這っていた。


 その泥の中に、三河の獅子と呼ばれた男、徳川家康の亡骸が静かに横たわっている。

 首はすでに勝頼の近習によって丁重に収められ、周囲には黒い具足を纏った武田の直轄兵が無言で壁のように立っていた。

 誰も勝ち誇らない。

 天下に名だたる大将首を囲んで、己の武功を声高に競い合う者もいない。かつてならば天下を震わせたであろう大戦果であるにもかかわらず、その場にあるのは、ただ決められた作法に従って屍を片付ける、異様なほどに静かな事務的処置だけであった。


 本多忠勝は、泥に膝をついたまま、その光景をただ虚ろに見つめていた。

 天下三名槍と謳われた蜻蛉切を握る手から、徐々に力が抜けていく。

 主君は死んだ。

 頭では完全に理解している。だが、理解した瞬間に涙が溢れ、感情が爆発するほど、人の心というものは単純にはできていない。忠勝の胸中にあるのは、主君を失った悲しみよりも先に、自分自身の存在意義そのものをえぐり取られたような巨大な空白であった。


 幼き頃より仕え、背中を守り続けてきた男である。

 三河一向一揆の泥沼。今川や織田との血を吐くような駆け引き。そしてあの三方ヶ原の死闘。幾度も完全に潰れかけ、そのたびに泥を啜りながら、それでもしぶとく立ち上がってきた。徳川家康とは、そういう男だった。

 だから忠勝は、心のどこかで最後まで信じていたのかもしれない。この男だけは、どれほど理不尽に追い詰められようとも、最後には必ずまた立ち上がり、三河武士を導いてくれるのだと。

 だが終わった。

 今度こそ、本当に。


 隣で、榊原康政が低く呻く。 「……終わったのか」  誰も答えなかった。

 武田の兵たちは、徳川の残兵の悲嘆など一切気にも留めず、すでに次の作業へと淡々と移っている。

「負傷者を症状ごとに分けよ」

「使えそうな馬は一箇所へ繋げ」

「火をこれ以上広げるな。完全に消し止めろ」

「死者の数を数えよ。織田、徳川、武田で記録を違えるな」

「兵糧車の焼け残りを検分しろ。焼失分を正確に書き出せ」


 感情の一切こもらない命令が飛ぶ。

 そこには勝利の昂揚が全く無い。まるで長年続いた巨大な普請仕事の一区切りを迎え、ただ被害状況を算定している役人たちのようであった。

 忠勝は、その異様さに改めて背筋が凍るような寒気を覚える。

 徳川家康を討ち取ったのだ。天下の情勢がひっくり返るほどの大戦果である。ならば本来、この場は敵の歓喜と熱狂で満ち溢れていなければおかしいのだ。だが違う。武田軍の空気は、勝利の後の凱旋ではなく、まるで次の巨大な工事の段階へ移る前の静けさに近かった。


 やがて、泥を一定の歩幅で踏む音がした。

 武田勝頼である。

 家康の首を刎ねた刀は、すでに一滴の血糊も残さずに鞘へ納められていた。その両脇には、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら、甲斐の誇る宿老たちが静かに並んで歩調を合わせている。

 彼らの姿を見て、勝頼の深く昏い瞳の奥で、張り詰めていた氷のような冷気がほんのわずかに緩んだ。

(……ちゃんと生きておるな。昌景も、信春も、昌豊も)

 勝頼は、誰にも悟られぬよう胸の内で安堵の息を吐き出した。

 一度目の生において、彼らはこの設楽原の泥濘の中で、織田の鉛玉を全身に浴びて無惨な肉塊となって散っていった。その凄惨な死に顔は、幾度も勝頼の夢に現れ、彼を絶望の淵へと突き落とし続けてきた。

 だが今、彼らは無傷のまま、誇り高き武田の将としてこの地に立っている。自分が構築した理、そしてここに至る算段が、天が定めたあの残酷な運命を見事にへし折り、彼らの命を救い出したのだ。


 さらに少し後ろには、底知れぬ暗い目をした若い男が付き従っていた。

 真田昌幸。

 鳶ヶ巣山砦で酒井忠次の別働隊を音もなく殲滅し、徳川軍の退路を完全に断ち切って完勝へと導いた男。

 徳川の兵たちは、その姿を見るだけで本能的な恐怖から肩を激しく強張らせた。

 昌幸は彼らの怯えた反応を横目で見ながら、口の端をわずかに吊り上げて小さく笑う。

「……随分と恐れられたものですな」

 だがその笑みにも、武功を誇るような血の気や熱は全く無い。


 勝頼は家康の亡骸があった場所を一瞥すると、すぐに周囲の戦場へと冷徹な視線を巡らせた。

「織田の残兵の動向は」

 極めて短い問い。山県昌景が即座に淀みなく答える。

「北西の山間へ向けて逃げ惑っております。陣代様の御下知通り、一切の深追いはしておりませぬ」

「よい」

「徳川方の城はいかがなされますか」

 今度は馬場信春が問う。

「岡崎をはじめ、三河の拠点は未だ大半が健在。家康討死の報が入れば、国人衆の混乱と徹底抗戦は避けられますまいが」


 勝頼は黙って頷いた。

 その一切の淀みない様子を見ながら、忠勝は完全に理解する。

 この男はもう、戦そのものを終わらせているのだ。視線が向いているのは今日の戦果ではなく、次だ。

 戦後統治。家康を失った三河という国を、いかにして無駄な血を流さずに呑み込むか。


 そこへ、政務を司る跡部勝資が進み出た。

「陣代様。三河の国人衆につきましては、我らが軍勢の威容を盾に、早急に降伏の誓紙を取るべきかと存じまする」

 側近の土屋昌恒も続く。

「従わぬ者は領地を削り、見せしめとして一族ごと処断致しますれば、三河の平定も――」


「不要だ」

 勝頼が言葉を遮る。

 静かで、一切の感情を持たぬ声だった。だがその一言で、その場の空気が完全に止まる。

「家康を破っただけで、三河の者どもが即座に腹を見せると思うな」

 誰も口を挟まない。

「三河の城主も土豪も、まずは固唾を呑んで見るだろう。我ら武田が、どこまで本気でこの三河を治めようとしているかを」

 勝頼は、硝煙の晴れぬ設楽原の闇を見渡した。

「武力による脅しだけでは、いずれ必ず叛く。温情だけでも決して従わぬ。相手に圧倒的な損得の差と、逆らうことの許されぬ秩序。その両方を同時に示せ」


 跡部が目を細める。

「では、いかがなされますか」

「無駄な争いは避ける」

 勝頼は冷然と言った。

「徳川の遺臣も従う者はそのまま使え。その土地の血脈やしがらみを知る者を無理に切り捨てれば、不要な反発を招き、統治に余計な血と銭が流れるだけだ」


 その瞬間。

 泥に膝をついていた本多忠勝の眉が、ピクリと微かに動いた。

 自分たちを、使う。敵として処断するのではなく。統治のための道具としてそのまま組み込む。

 武士としての屈辱と言えば、これ以上の屈辱はなかった。だが同時に、それは家康が最期に遺した言葉と、間違いなく一致していた。


『生きて、三河を守れ。武田の法が三河を治めるなら、それに従い、支えよ。民を飢えさせるな』


 胸の奥が、ギリギリと重く軋む。

 すると、真田昌幸が不意に口元を歪めた。 「……なるほど」

 ひどく愉快そうな、そして冷酷な声だった。

「武田の国衆や御一門衆と同じように扱う、ということですな」


 跡部と土屋の顔色が僅かに変わる。

 その言葉の持つ本当の意味を、彼らはよく理解していた。

 かつて甲斐や信濃で、勝頼は武田の国衆や親族たちの在り方を根底から破壊し、作り変えた。土地へ独立して根を張る土豪や領主としてではなく、領主権を完全に剥奪し、武田家の法と銭によって動く直属の官僚と常備兵へと。古い領主の権威は削られ、兵と土地はすべて中央で数字として管理されるようになった。

 不満が無かったわけではない。だが結果として、反抗する手足を奪われた武田は、異様な統制力を持つ強固な国へと変貌したのだ。

 そして今、勝頼は主を失った三河や遠江でも全く同じことを、情け容赦なく行おうとしている。


 昌幸はそれを完全に理解した上で、声を上げて笑った。

「三河や遠江の国衆も皆、自らの土地を己の腹のように大事に思っておりますゆえ。領主の権限を奪うとなれば、最初は随分と嫌がりますぞ」

 勝頼は平然と言う。

「まずは統治だ。優れた統治を行い、経済と兵站の形を完全に組み替えよ」


 即答だった。

 昌幸は、本当に狂おしいほど愉快そうに笑った。 「さすれば、反乱も起こせませぬな」

 そして、肩を竦める。

「敵に回すと、これほど恐ろしい御方は日ノ本におりませぬ」


 そのやり取りを聞きながら、山県昌景が静かに、そして深い諦観を込めて呟いた。

「これで三河や遠江も、大きくその形を変えますな」  馬場信春も静かに続いた。

「徳川家康もまた、その新しい国のための礎となったということか」


 しみじみとした声だった。そこに敵将への嘲りは無い。むしろ、長い戦国という野蛮な時代を生き抜いてきた老将たちだけが持つ、深い感慨に近いものだった。

 彼らはすでに悟っている。何十年も続いた血で血を洗う乱世が、今まさにその終わり方を完全に変えつつあることを。

 武功。一番槍の誉れ。忠義。勇名。それだけで国を支え、天下を回すことができた時代は、もう終わったのだ。設楽原で死んだのは徳川家康一人ではない。戦国という時代の在り方そのものが、勝頼の理の前に死に絶えたのである。


 忠勝は、奥歯が砕けそうなほど強く唇を噛む。

 認めたくはない。己の信じてきた武士の魂が全否定されている。だが、眼前の圧倒的な理を否定することもできない。

 家康は最後、自分たちに復讐を固く禁じた。勝頼の理に従えと命じた。

 それは無様な屈服ではない。土地と民を残すための、国主としての最後の決断だったのだ。

 もしここで自分たち徳川の遺臣が意地を張り、各地で武田に無謀な抗戦を続ければどうなるか。苦しむのは民だ。焼かれるのは田畑だ。荒れるのは三河や遠江そのものだ。家康は最後まで、民を抱える国主であった。


 忠勝はゆっくりと、泥の中に深く両膝をついた。  その動きに榊原康政が目を見開いた。

「忠勝……」

「殿の御命令だ」

 掠れた、血を吐くような声。

「……従う」


 苦しむように絞り出された言葉だった。だが、その一言によって、徳川遺臣たちの空気が完全に変わる。

 怒りと悲嘆で張り詰めていた彼らの魂が、少しずつ、冷酷な現実へと引き戻されていく。


 勝頼はそれを横目で確認した。

 確認しただけで、得意げに声をかけることも、特に何も言わなかった。

 その姿を見て、忠勝は逆に深く理解する。

 この男は、自分たちへ勝者としての優越感を示したいわけではない。

 ただ、必要だから生かす。必要だから己の国の一部として組み込む。ただそれだけなのだ。

 それが、恐ろしかった。武士ならば情がある。憎しみも、誇りも、執念もある。だが勝頼は違う。巨大な国家の理の流れの中へ、人も土地も敵将の命すらも、ただ淡々と組み込んでいく。まるで大河へ一滴の水を流し込むように。


 そこへ、伝令の使番が駆け込んできた。

「申し上げます。織田勢、完全に三河からの退却へ移りました。尾張へ向け、総崩れとなっております」

「そちらも追うことはない」

 勝頼は即座に、冷徹に答える。

「もはや戦う必要はない。兵を休ませよ」


 使番が下がる。

 だが山県ら宿老たちは、その指示の意味をすぐに理解した。

 勝頼が見ているのは、もはや今夜の局地的な勝利ではない。次だ。

 これより先の、織田との戦は武勇が一切通じない、理での戦いになる。

「陣代様。これからは本格的に、理で攻めるのですな」

 山県昌景が、己の槍を見つめながら静かに問うた。 「古い我らの出番は、ここまでということにございますか」


 勝頼は、かつてないほど穏やかな声で答えた。

「昌景、信春。そなたたちの武勇なくして、この大勝は決して得られなかった。そなたたちは、武田の誇りを十分に示してくれた。……あとは、わしに任せよ」

 宿老たちは、その言葉に深く頭を垂れた。彼らの心にあったわだかまりは、この戦の勝利と勝頼の理の前に、完全に氷解していた。


 勝頼はただ西を見た。

 夜の彼方。織田信長が逃げ去った方角。その圧倒的な沈黙だけで十分だった。


 馬場信春が低く笑う。

「信長殿も難儀なことですな。自慢の鉄砲を並べてこれほどの戦をしてなお、すべてが陣代様の掌の上であったとは」

 昌幸も肩を竦めた。

「もっとも」

 細い目を西の闇へ向ける。

「向こうの魔王も、まだ己の天下を諦める気など毛頭ありますまい」


 冷たい風が吹く。

 設楽原を覆っていた重い硝煙が、ゆっくりと夜空へと溶けていく。

 その風の中で、勝頼だけが微動だにしない。

 徳川家康を討ち取った英雄の姿ではない。天下の勝利に酔いしれる覇者でもない。

 ただ次の時代へ向け、静かに、そして確実に日ノ本を組み替えようとする絶対者の背中がそこにあった。

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