3 ストリングバッグがやって来た
五月二十九日
〈ヴイクトリアス〉艦上
ノルマン海軍が洋一たち秋津の搭乗員たちを驚かせたのは、何も食事だけではなかった。
ブリタニー半島からの撤退はほぼ最終段階を迎え、飛行機が脱出できるほぼ最後の機会となっていた。
洋一たちが〈ヴィクトリアス〉に降り立った二日後、彼らの艦隊は大陸から五十海里ほどまで近づいた。〈ヴィクトリアス〉の飛行甲板は片付けられ、空母らしい真っ平らな状態となる。
飛行任務がなくなり、手持ち無沙汰となった洋一たちは艦橋の傍ら辺りに立つ。
「そろそろかな」
見るからに高級そうな懐中時計に目を走らせると、紅宮綺羅は洋上遙かに視線を向けた。洋一もつられて同じ方向を視る。
「あ、多分あれだな」
彼女が示した先を力を込めるように注視すると、青い空の中に薄ぼんやりと暗い影のようなものが見えてきた。
水平線のすぐ上、低い高度を黒い霞がどうやらこちらに向かっているらしい。いや、霞が黒点の群れに見えてきた。一つ、二つ、三つ。
およそ二十くらいだろうか。数ははっきりしないが、少なくともあれが飛行機の類いであることは洋一にも判ってきた。あれが、ブリタニー半島から脱出してきた編隊らしい。
こちら側から四機の十式艦戦が迎えに行く。確か艦の上空で哨戒している第二中隊の所属機だろう。相手の上辺りで旋回し、同行する。十式艦戦が目印になってくれて、向かってくる機影が見つけやすくなった。
しかしそこからなかなか近づいてこない。上空を援護している十式艦戦も大きく蛇行し、時々一回転旋回していた。
なにやっているのかな。洋一は眼をこらして、ようやく訳が判った。こちらに向かってくる機影、十式艦戦は丸い点から主翼が線のように伸びているが、下のはそれが二本、「工」の字のようになっていた。
「もしかして、複葉機なんですか」
なるほど、道理で遅いわけだ。洋一たちの乗る翼が一枚の十式艦戦と比べればおそらく半分ぐらいの速度だろう。
「らしいねぇ」
知っているのに、詳細は教えてくれないらしい。なぜか口元が笑っている。
一時は食事のひどさに帰る帰ると云っていた綺羅様だったが、ライムジュースのゼリーをデザートに付けてから多少は落ち着いてくれた。それは良いことなのだが、元気になったおかげで、またよからぬことを企んでいる気がする。
気長に待っているとようやく彼らが頭上にやってきた。主翼も胴体も、畑の畝のような波がある。確かに帆布張りの複葉機だった。
洋一たちも乗り慣れた練習機みたいなゆっくりした動きで旋回すると、これまたのんびりした動きで着艦体勢に入る。たしかに飛ばすのは易しそうだった。
複葉機の群れは連なって〈ヴィクトリアス〉に降りてきた。蝶のように軽やかに甲板に固定脚を接地させ、ひょいとばかりに着艦フックを引っかける。複葉機故に着艦速度も遅く、もしかしたらフックなしでも止まれるのではと思わせるほどだった。
収容された複葉機が次々に前甲板に並べられていく。帆布張りの胴体に前の風よけのみのむき出しの操縦席。何本も張り巡らされたワイヤー。こうしてみると飛科練時代の二式練習機を思い出す。低速で飛ばしやすい複葉機、となると形も似てくるのだろう。
「にしても、練習機を回収するためにノルマン海軍も危ない橋を渡りますねぇ」
この辺りの海域は一応敵機の活動圏内に入っている。秋津海軍が周囲を確保しているとはいえ、危険はある。残存機は練習機であろうと貴重なのだろうか。
「回収した練習機は九州にでも運ぶんですか? それともポルトガルに向かうとか」
まさかジブラルタルを越えて地中海に入ったりはしないだろうか。
「何云ってるんだい。あの飛行隊は〈ヴィクトリアス〉配属だよ」
言葉の意味を図りかねて、洋一は首をひねる。ちょうど全機が着艦し、搭乗員たちが整列する。出迎えた艦長に向かって彼らは一斉に敬礼する。
「第八一〇飛行隊、および第八二五飛行隊。計二十四機七十二名。本日付を以て航空母艦〈ヴィクトリアス〉配属となりました」
指揮官の士官が朗々と声を張り上げる。
「着任を許可する。ようこそ我らが勝利の艦〈ヴィクトリアス〉へ」
艦長も堂々とした態度で彼らを出迎える。
「フェアリー・ストリングバッグ。ノルマン海軍航空隊の主力艦上雷撃機だよ」
綺羅様が教えてくれるのを洋一は呆然と聞いていた。
「雷撃機」とは魚雷をぶら下げて敵艦を攻撃する飛行機である。敵前で投下された魚雷は水中を疾走して敵艦の腹に突き刺さって爆発する。大型艦であろうと一撃で沈めうる能力。それこそが雷撃機である。
判らないのは、どうしてあのポンコツ複葉機が「主力」雷撃機と呼ばれなければならないのかであった。
そうこうしているうちに向こうの指揮官が、傍らで見ていた綺羅や洋一たちに気づいた。
「やあどうもアキツの諸君」
口ひげを蓄えた士官が堂々とした、そして飛行機乗りらしい野蛮な足つきでやってくる。
「おお、麗しの姫君よ」
ノルマンの士官は綺羅を見て大げさに驚いた。
「私はジョージ・デズモンド。第八二五飛行隊長を務めております。可憐なるアキツの花よ。お名前を伺っても」
「紅宮綺羅です。戦闘機第一中隊長」
姫に対する騎士のように跪こうとする前に、軍人として綺羅は握手をした。
「お待ちしておりました。新しい艦はいいものですよ」
士官というのはどいつもこいつも厚かましいなと脇で見ていた洋一は思った。事前に綺羅様のことは知っていただろうにあの小芝居とは。
「安心してください。我々が来たことによって〈ヴィクトリアス〉を本来持つべき戦う力を手に入れました」
デズモンドは誇らしげに自分たちが乗ってきた機体を示した。
「この頼もしきストリングバッグこそが、この艦〈ヴィクトリアス〉に、栄光のノルマン海軍に、そしてレディ・キラ、貴女に勝利をもたらすでしょう!」
ノルマンの士官は理解できないほど自信満々であった。
「なあ洋一君すごいだろ」
綺羅は秋津語でささやいた。
「彼らはあんな骨董品で戦争する気なんだよ。面白いことになりそうだ」
なんでそんなに楽しそうなんだ。正気を疑う上官と、布張りの古くさい複葉機とを洋一は交互に眺めた。