19 キールの平和な朝
〇八〇〇
キール港 空母〈グラーフ・ツェッペリン〉
食堂で惰眠をむさぼっていたグレゴール・ボルコフを何者かが蹴り飛ばした。
「……何しやがんだ。やんのかコラ」
云われた方はロシア語を解さなかったので丁重に無視した。
「起きたまえボルコフ中尉。もう朝だ」
酒で痛い頭を振るとそこにはすでに飛行服に着替えたウェルター・フォン・シュトラウスが立っていた。
「……なんでぇ、シュトラウスの旦那じゃないか。仕事は午後からだぜ」
こっちは昨日の宴会のまま寝てしまっていた。卓上に並んでいた酒瓶は片付けられたが、ボルコフはそのままにされていたらしい。
「休日であろうと士官は士官らしくあらねばならない、そうだろう」
そう云ってシュトラウスはコーヒーを差し出す。口に含むと恐ろしく濃い。
「それと、なにやら様子が変だ」
「変ってなんだよ」
コーヒーのおかげで強制的に目が覚めたが、頭はまだ寝ていたいらしく抵抗している。
「さあな。それを調べるためには起きて自分の足で調べなければならない」
「しょうがねぇなぁ、もう」
左右に大きく頭を振ってから立ち上がった。
「まず艦内の大半は普通だ。惰眠を貪っていると云っていい」
「俺もまだ貪っていたかったな」
革の飛行服の襟を直しながらボルコフは応じる。
「だがたまに顔色を変えた兵士が走っている。伝令なのかもしれないが、では何を伝えている?」
話しながら二人の足は艦橋へと向かっていた。艦で情報が一番集まるところはここなのだ。
「シュトラウス大尉、入ります」
扉を叩きながら許可を待たずにシュトラウスは入出した。いささか品位にかける行動ではあるが、それが許される空気が彼にはあった。
「あ、シュトラウス大尉、これはどうも」
当直士官が畑違いのシュトラウスを見て少しばかり困惑した顔になる。見回したところ艦長はいないらしい。
「何かありましたかな?」
航空科であり、来賓であり、更に言えば海軍ではなく空軍であるシュトラウスは完全なよそ者ではある。それでも追い出されなかったのは当直士官もなにかにすがりたかったのかもしれない。
「それが……ヴィルヘルムスハーフェンで何か起こったようなのですが」
「ヴィルヘルムスハーフェンで?」
「その、攻撃を受けたとか」
ずいぶんと剣呑な単語が出てきた。
「いえ、単なる事故かも知れません。しかし通信が錯綜していて詳しいことは」
港に停泊した空母では電波の傍受くらいしか情報の入手手段がない。
「港の方から何か情報は得られないのか?」
「本艦は現在バルト海艦隊に所属しているわけではないのでルートがありません。海軍省に問い合わせましたが返答はありません」
そういえばこの〈グラーフ・ツェッペリン〉は完成したばかりで、未だどこの艦隊にも配属されていない。
「やばいのかい?」
後ろからボルコフが声をかける。
「そうかもしれないし何もないかもしれない」
「なんじゃそりゃ」
曖昧なことしか言い様がないが仕方がない。
悩んでいるところでようやく艦長が到着した。入室した瞬間に最後のボタンを閉め終える早業は中々見習うべき技であった。
「何があった?」
この答えのない難問を押しつける相手が来た。当直士官は敬礼してこの曖昧な内容を報告した。
「そうか、ヴィルヘルムスハーフェンが」
当直士官に代わって今度は艦長が悩む。
「艦長、直ちに出港準備に入るべきではないでしょうか」
余計なことかもしれないがシュトラウスは口を出してみた。
「本日は十二時出港の予定だ。火は落としていないが、罐が暖まって蒸気圧が確保できるまで二時間はかかる」
本来の予定だとボイラーを焚き始めるのはあと二時間後のはずだった。
大型艦というものは動こうとしてから実際に動き出すのにも時間がかかる。
「では、我々は搭載機の発艦準備を進めます。何しろこの艦の航空戦力は我々だけですので」
ここにいてもこれ以上の情報は手に入らない。シュトラウスは艦橋を辞した。
「おいおい、この状況で飛ばす気かい?」
できればまだ寝ていたいボルコフはぼやく。
「偵察か、あるいは救援に向かうかもしれない」
シュトラウスとしてはこの状況で艦に留まり続けるのはどうにも落ち着かなかった。
「おい君、済まないが実弾の用意をしてくれ」
通りかかった整備員に素早く指示を出す。云われた方は大分面食らっている。
何しろこの艦はできたばかりで、戦場の空気を吸っていないのだ。
飛行甲板に出ると、空はきれいに晴れていた。そろそろ夏らしい強い日差しが甲板全体をさんさんと照らしている。
「こうして見ると平和なもんなんだが」
こうしてみるとユトランド半島を挟んで向こうで何かが起きているか信じられない。それこそ大した事のないボヤを、大げさに騒いでいるだけかもしれない。
二人は周囲の港を見回した。これと云って他艦に動きは見えない。
港湾に面したところにある空軍の飛行場も、平和そのものである。
ここはキール。ブランドル帝国海軍に取っての重要な拠点であり、裏庭みたいなものである。
こんな奥深くまで手を出してくる不埒ものはいないであろう。多くの人がそう信じていた。そのときまでは。




