18 カイザー・ヴィルヘルム運河と英雄タルカス・ブラフォード
だいぶ陸地がはっきり見えてきた。
ユトランド半島の根元辺り。編隊はエルベ川の河口めがけて進んだ。
雷撃隊は徐々に高度を落とし始める。
『さあ諸君、あれが我らを導く地獄への道、カイザー・ヴィルヘルム運河だ』
エルベ川東岸に巨大なコンクリート建造物が見えてきた。川への入り口に水門が三つほど並んでいる。
『全長九十八㎞、ユトランド半島を横断する欧州最大の運河だ』
それまでユトランド半島を迂回しなければならない航路を五百㎞近く短縮できる運河だそうだ。ブランドル帝国初代皇帝ヴィルヘルムⅠ世の名を冠した、ブランドルが誇る人工建造物だった。
『あれを通って、我らはキールへと向かう。雷撃隊諸君、覚悟は良いかね』
雷撃隊の指揮官デズモンド少佐が部下に呼びかけると、彼らは一列に編隊を組み換えていった。
『うーん、大丈夫ですか? 正気の沙汰ではないですよ』
上空で見ていた綺羅が声をかける。
何しろ「運河」と呼ばれるカイザー・ヴィルヘルム運河は、上から見る限りとても運河には見えなかった。
入り口にこそ水門があるが、そこから陸地に向かって水面が見えない。すべてが覆われているのだ。
あれでは運河ではなく、隧道ではないか。
『大丈夫だよプリンセスキラ。我らには英雄タルカス・ブラフォードの加護がある』
そう云って彼らは入り口たる水門めがけて進んだ。
『アキツの諸君は知らないかもしれないから教えてあげよう。タルカス・ブラフォード卿の偉業を』
死地に向かいゆくのに、デズモンド少佐は蕩々と語り出した。
時は一九一七年、先の欧州大戦でのことである。膠着した戦争を打破すべく、ノルマンはベルリンへの空襲を企てた。
使用するのは鹵獲した硬式飛行船。残念ながら確保できたのは一隻だけ。
それで敵の首都に迫る、危険極まる冒険的な作戦ではあった。
タルカス・ブラフォード少佐以下十八名の勇敢な志願兵によって作戦は実行され、一九一七年七月七日の夜、〈ハンギングバスケット号〉と命名された飛行船で、彼らはベルリンへの空襲に成功した。
しかし飛行船〈ハンギングバスケット号〉は敵の反撃により故障、半ば漂流しながら北海側へと脱出を試みた。しかしあと少しで海上に出るところで遂に追撃の戦闘機隊に捕捉されてしまう。
そして彼らは最後の力を振り絞って飛行船〈ハンギングバスケット号〉をブランドル海運の大動脈たるカイザー・ヴィルヘルム運河へと墜落させた。
乗員の生存者は二名のみであり、この中にブラフォード少佐は含まれてはいなかった。
しかし全長一六〇mの巨体は見事に幅百mのカイザー・ヴィルヘルム運河を閉塞し、十八日間にわたって運河を使用不能とした。
危険極まるベルリン空襲を成し遂げ、様々な困難を不屈の精神で戦い続け、最後の最後まで足掻いて敵に損害を与えたタルカス・ブラフォード少佐。
死後その功績が称えられ、ヴィクトリア十字章が授与された。
『そして皇帝の名を冠した運河を穢されたヴィルヘルム二世は、運河を覆い隠せとお命じになったわけだ』
かくして二十年近くの時をかけて運河の上に「屋根」がかけられた。上から見れば半島はまるで地続きのように見えるほどだった。
『聞いたときにはなんて莫迦なことをと思ったが今は違う。今日このとき、我らのために造られた皇帝からの贈り物なのだ。者ども続け!』
そう云って開かれた水門に、フェアリー・ストリングバッグ雷撃機が飛び込んでいった。
水門の幅は三十二m、高さは四十m。そこに幅十四mのストリングバッグが次から次へと吸い込まれていった。
数字だけ見ればなんとかなりそうだが、運河は元々川を拡張したものなのだから左右に蛇行している。そして中には船も航行している。橋桁もある。
中に入って九八㎞も飛ぶかと聞かれたら洋一は丁重にお断りするであろう。ましてや編隊での飛行なんて正気の沙汰ではない。
『おお、行ける、行ける! まさにストリングバッグのための道だ!』
無線を通して運河の中からデズモンド少佐の楽しそうな声が聞こえてくる。
低速で操縦の易しいストリングバッグなら、あの狭い中を抜けていける。その読みが当たった。
『中はどうですか』
綺羅が興味深そうに尋ねる。
『思ってたより明るいな。これなら大丈夫そうだ』
運河は完全に塞がれているわけではない。
幅十m、長さ五十mの穴が点々と開いていて、明かり取りと換気の役目を果たしていた。
『外から見てどうかね』
『まあ大丈夫でしょう。殆ど見えないから、上から戦闘機に見つかることはないでしょう』
運河を護るための屋根が、まさか侵入する雷撃機を隠してしまうとは、皇帝も思わなかっただろう。
この延々と続く屋根の中を通れば、鈍足のストリングバッグでも安全にキールに達することができる。
そしてこの屋根を造るために二十年の歳月をかけた皇帝の鼻を明かしてやれる。
雷撃隊の連中は楽しくて仕方がなかった。
『お、今追い抜いた船、船員の間抜け面を見たかね諸君』
無線の向こうからも浮かれているのが伝わってくる。
『そこのけそこのけ、ストリングバッグのお通りだ!』
とうとう全員で唄いだしてしまった。
My Stringbag flies over the ocean.
我がストリングバッグは大洋を征く
My Stringbag flies over the sea.
我がストリングバッグは海を征く
If it weren’t for President’s Strongbag.
大統領の丈夫な袋が無ければ
Where the hell would the Norman Navy be?
ノルマン海軍どこに征く?
そこで調子を変えてがなりたてる。
Kiel! Kiel! Kiel!!
キール! キール! キール!
Put a Fish in thier mouth!
奴らに魚を喰らわせろ!
Screw a fish in Willy’s mouth!
ウィリーに魚を喰らわせろ!
全く、無線封鎖もなにもあったものじゃない。賑やか極まる連中が運河の中を進んでいく。
『そういえばねぇ』
こちらも任務と関係なく綺羅が話しかけてきた。
「新しい皇帝陛下、魚が嫌いなんだよ。一回何かで晩餐会に招待されたとき、魚料理にまったく手を付けてなかったんだ。もったいないなぁって子供ながらに思ったよ」
それがためにあの演説になってしまったという訳か。そしてその演説のおかげで今日の攻撃となっている。
まったく、好き嫌いはろくなことにならないな。洋一は少しだけ自分の食生活を見直す気になった。
『さて、かように直接援護する必要はなくなった分、我々は先に行ってしなければいけない仕事がある』
運河に沿って飛びながら編隊を組み直す。もう蛇行する必要はない。
『さあ戦闘機隊諸君、雷撃隊の歓迎準備だ』
遅く飛ぶ必要もなくなり、十二機の十式艦戦が疾走する。
『キール一番乗りは我々だ。こちらはデズモンド少佐には譲らないよ』
ストリングバッグ雷撃機のおよそ二倍の速度で十式艦戦は巡航する。両翼にぶら下げた三番三号爆弾までもが、なんだか自己主張で重くなったような気がした。
洋一は懐から貰ったキャラメルを取り出し、一つ口に放り込んだ。