テラスにて / 相談
「あのようなことを言ってよろしかったのですか?」
舞踏の間の窓の外、人気のないテラスにわたし達はいた。
あの後、バートランド公爵令嬢は気分を害した様子であったし、表向きはそれを隠していたようだけれど殿下に挨拶をした後に少し睨まれた。
これまでは令嬢達に騒がれることはあっても睨まれることはなかったので珍しい経験をした。
テラスの手すりに寄りかかったアシュリー殿下に訊き返される。
「むしろ、スカーレットのほうが嫌ではなくって? あんなことがあったばかりなのに、大勢の前でごめんなさいね。……あなたは見せ物ではないのに」
「元より注目されるのには慣れておりますので、気にしていません」
「あなたは強い……いえ、どんな時でも強くあろうとするあなたの努力を尊敬するわ」
アシュリー殿下が困ったように眉尻を下げて微笑む。
そうして、手招きをされたので殿下のすぐそばまで近寄った。
「バートランド公爵家はアタシの母……つまり、前王妃の生家なのよ。バートランド公爵令嬢とアタシは従兄妹同士ね。昔、一度だけ婚約の話も上がったけれど、アタシが断ったのよ」
たとえ第二王子であっても、前王妃の子であるアシュリー殿下こそが次代の王になる。
バートランド公爵はそう考えており、アシュリー殿下を王太子に推し上げるべく娘との婚約を進言したが、アシュリー殿下も国王陛下もそれに頷かなかった。
「アタシはね、兄上のほうがアタシよりもずっと『良き王』になると思っているの」
それに、バートランド公爵令嬢も野心家で自尊心が高い。
今は王妃であるとは言え、側妃だった頃の子である王太子殿下よりも、前王妃の子であるアシュリー殿下と婚約したがっており、周囲に煽てられて『正統な血筋の王子の妻には自分こそが相応しい』と自信を持っている。
アシュリー殿下は王太子殿下と王位継承権争いをするつもりはない。
それどころか、兄が王となった暁にはその治世を支えたいと考えているそうだ。
「何より、バートランド公爵令嬢が好きなのは『王妃の子』であって『アタシ』じゃないわ」
「だからバートランド公爵令嬢との婚約を断ったのですか?」
「それもあるけれど、婚約の話しが出た時にはもう『助けてくれた赤髪の少女』に心を奪われてしまっていたから、他の女性なんて興味がなかったのよ。父上もわざわざ争いの元になると分かっている婚約を認めるはずがなかったしね。アタシはむしろ、権力を持たない者と結婚するほうがいいわ」
伸びて来たアシュリー殿下の手がわたしの髪に触れかけ、そしてやめる。
まるでわたしとの距離を測りかねているかのようだった。
……いや、実際そうなのだろう。
わたしはアシュリー殿下の想いに対して何一つとして反応をしていないから。
婚約してほしいという言葉に『騎士にはなる』と答え、惹かれているという言葉にも何も返していない。そばにいる時間はあっても『君主と騎士』という立場を崩さなかった。
それ以上踏み込んでこない殿下の優しさに甘えている自覚はあった。
本当は気付いていた。
殿下がわたしに向ける、優しいけれど熱のこもった眼差しも。
わたしに話しかける時だけ、ほんの僅かに変わる声も。
触れたい、わたしに近づきたいと思っている感情も。
それら全て抑えて出来る限り、他の騎士達と同じように接してくれていることも。
……そう、全て気付いていたんだ。
バネッサとシェーンベルク殿は教育係などではなく、本当はわたしを守るための護衛としてつけてくれていることだって分かっていた。何故なら、必ずどちらかがわたしと組んでくれていたから。
訓練で他の騎士達と剣を交えたり話したりすることはあっても、いつだって、二人はわたしの近くにいて何かあればすぐに声をかけられるようにしていて──……気付かないほうがどうかしている。
わたしはこの国に来てから多くのことに見ないふりをして来た。
……アシュリー殿下の想いにも。
思わず目を伏せたわたしにアシュリー殿下が「そうだわ」と小さく手を叩いた。
「ねえ、スカーレット。あなた、明後日は騎士の仕事は休みよね?」
「え? ……はい、そうですが……?」
突然、話題が変わったので戸惑ってしまった。
責められるか、呆れられるか。そのどちらかだと思っていたのに。
「もし良ければ、一緒にお出かけしない? ずっと城内にいると息が詰まるでしょうし……」
そう言われて、ふと、そういえばわたしは城下町にすら出ていないと気付く。
何度か休日はあったものの、特にやりたいこともなく、訓練に費やしていた。
レンテリア王国では騎士の仕事をしつつ、王太子の婚約者や公爵令嬢として社交をしていたので、休日などあってないようなものだった。丸一日、何もせず過ごす日などなかった。
……王城にいて息が詰まるなんて、考えたこともなかった。
王太子の婚約者になってからは公爵邸と王城を行き来するのが当然であったし、三度目の人生で騎士の道を選んで近衞騎士になってからはより王城にいる時間が増えて、公爵邸には寝るために帰るだけという日も少なくない。
特に三度目では両親と必要以上の会話はなかった。
弟とはたまに話す機会はあったけれど、今思えば、わたしは自分の道を行くことに必死で、あの子にも寂しい思いをさせてしまっていたかもしれない。
「その、アタシお勧めの喫茶店があるのだけれど、お茶しに行かない?」
王子なのに、控えめで押しつけがましくない誘いだった。
レンテリア王国の王太子ともお茶会は何度もしていたのだが、いつだって向こうの予定にこちらが合わせて、王太子の気分によっては紅茶が冷めないうちに席を立たれてしまうこともあった。
一度目と二度目のわたしはそれを『仕方がない』と受け入れていた。
全て、わたしが不甲斐ないせいだからと思っていた。
けれども、それは違うと三度目でやっと理解した。
王太子にとって、わたしは気を遣う相手ではなかったのだ。
たとえ自身の地位を確固たるものとするために必要だったとしても、あの王太子からすれば、わたしは親が勝手に決めて押しつけられた厄介者で、愛なんて生まれるはずもない。
王太子の地位を得た以上は、もう要らない存在と考えていたのかもしれない。
三度目ではわたしも王太子に関心を示さなかったから、お互い様だが。
「あ、嫌なら断っていいのよ? スカーレットに無理強いはしたくないわ」
つい考え込んでしまい、アシュリー殿下の声で我に返る。
アシュリー殿下は微笑んでいるけれど、少し不安そうに見えた。
……一緒に出かけるのは嫌ではない。
「嫌ではありませんが、誰かと出かけるのは久しぶりで……正直に言えば、どうすればいいのか分かりません。だから、わたしと一緒に出かけても楽しくないと思います」
「あら、そんなことはないわ。好きな人とは一緒にいるだけで嬉しくて、楽しいもの」
アタシはそうよ、とアシュリー殿下がウィンクをする。
「それですと、わたしが護衛としてついている時は常にそうということになってしまいますが……」
「ええ、スカーレットが護衛の日は元気が出るのよね。それに、あなたの前で格好良いところを見せたくて、つい頑張ってしまうわ。自分で言うのも変だけれど、男って単純よね」
ふふふ、と笑うアシュリー殿下にわたしは目を瞬かせた。
「アシュリー殿下は元より格好良いですよ」
それにアシュリー殿下が驚いた顔をする。
……何故そこで驚くのだろうか。
殿下は顔立ちだって整っているし、剣の腕も立ち、仕事も出来る。第二王子という身分でありながらも比較的、気さくな方だ。近衞だけでなく一般の騎士達とも友好的な関係を築いているのがその証である。
女性的な口調や仕草をするけれど、それが格好悪いということにならないだろう。
むしろそれらはアシュリー殿下によく似合っていて、わたしは良いと感じている。
「……ありがとう。スカーレットにそう言ってもらえるのが一番嬉しいわ」
照れた様子で微笑むアシュリー殿下の嬉しそうな表情に、またドキリとしてしまう。
……こんな感覚、初めてで、どうすればいいか分からない。
ただ、殿下と過ごす時間は心地好いと思う。
優しくて、ふわふわとして、穏やかで、温かい。
レンテリア王国では味わったことのない時間だった。
……わたしが好き、か。
アシュリー殿下はまっすぐに好意を向けてくれるけれど、わたしはどうしたいのだろうか。
胸が温かくて、ドキドキとして、少し気恥ずかしい。
「わたしでよろしければ、一緒に出かけましょう」
「ありがとう、スカーレット! 絶対に美味しいお店だから、楽しみにしていてちょうだい!」
一緒に出かけることに頷いただけで、心から喜んでくれる人がいる。
……その笑顔を見ているだけで嬉しくなるなんて……。
こんな感覚、わたしは知らない。
* * * * *
「スカーレット、今日はずっと上の空ね」
夕食後、お茶を飲んでいるとバネッサにそう言われた。
それを即座に否定出来なかった。
昨日の夜会でアシュリー殿下と出かける約束をしたものの、それから、ずっと殿下のことばかり考えてしまっている。今日が護衛任務でなくて良かった。こんなに気が抜けていては近衞騎士失格である。
バネッサがこうして声をかけてくるくらいだから、相当ぼんやりしていたのだろう。
確かに、今日の訓練のことは覚えているけれど、少し記憶が曖昧だ。
「何か悩みごとがあるみたいね?」
「ええ、まあ……」
思わず視線を逸らしてしまった。
バネッサがテーブルに頬杖をついて、声量を落として言った。
「アシュリー殿下のことでしょ?」
わたしは視線を戻して苦笑する。
「バネッサに隠し事は出来なさそうですね」
「そうでもないわ。ただ、この国に来たばかりのスカーレットが悩むとしたら、近衞騎士のことか、殿下のことくらいじゃない? あなたを見てる限り近衞騎士の仕事に不満も不安もなさそうだから、後は殿下のことだけかなって」
そうして、バネッサが周囲に視線を巡らせる。
食堂にはわたし達以外にはもういない。
他の者達は夕食を終えると早々に部屋に戻って行った。
誰もいないことを確認して、バネッサが『どう?』と訊くように小首を傾げてみせる。
「……そうですね、殿下のことで悩んでいます」
「やっぱり。何かあったの? まさか、迫られたとか?」
「いえ、そのようなことではなく、休日に一緒に出かけようと誘われまして……」
バネッサがキョトンとした顔をする。
「え? それだけ?」
昨日の夜会について説明すると、バネッサが尚更、不思議そうな顔をした。
「で、一緒に行こうってなったのは分かったけど、何が悩みなの?」
訊き返されて、わたしも説明に窮してしまった。
今のわたしの、この気持ちはどう表現すればいいのか分からない。
つい黙ったわたしに、バネッサが訊いてくる。
「スカーレットは殿下が嫌い?」
「いいえ」
「そうだよね。嫌いだったら、スカーレットは一緒に出かけるなんてしなさそう」
深呼吸を一つする。
「わたしは恋をしたことがありません」
「んっ? え?」
「十二歳でレンテリア王国の王太子と婚約し、それ以降、王太子の婚約者として振る舞って来たので、誰かに恋をするとか、憧れるとか、そういう経験をしたことがないのです。今、わたしが感じているこの気持ちも初めてのことで、これが『恋愛感情』なのか、それとも『親愛』なのか、それすら分かりません」
バネッサは目を丸くしていたけれど、ややあって、何か納得したふうな表情をした。
「あ、あー……殿下のことは嫌いじゃないけど、その気持ちが恋愛感情の好きなのかどうかも分からないから、どうすればいいか分からない……みたいな?」
「はい、そうです」
頷くと、バネッサが呆れた様子で眉尻を下げた。
「王太子の婚約者って良いことばかりじゃないのね」
「そうですね。知識や礼儀作法なども徹底的に叩き込まれますし、わたしの場合は王太子の苦手分野を補えるように学んでいたので、騎士の仕事と合わせると休日なんてありませんでした。男装も許可を得るのに苦労しましたよ。本来はドレスや装飾品、靴に至るまで、相応しい物を身に着けるべきというのが当然でしたから」
「好きな服も着られないなんて何が楽しいの?」
「さあ、それはわたしも分かりませんでした」
バネット様が頬杖をやめて、小さく息を吐く。
「話を戻すけど、そういうものに経験なんて必要ないわ。その人のことで悩んで、喜んだり悲しんだり、その人のことを思うとドキドキしたり、そういうのって恋愛でしか感じられないものだと私は思う。相手のことで頭がいっぱいになるのもね」
「そうだとしても、どうすればいいのか……」
そして、何故かビシッと指差された。
「どうもこうもないわ。好きならそう伝えればいいのよ。殿下はスカーレットが好きで、スカーレットも殿下が好き。それで丸く収まることじゃない。むしろ、そこでどうして立ち止まるの? 家柄も血筋も経歴も、王族の婚約者に相応しいだけのものをあなたは持ってるのに」
……わたしはアシュリー殿下が好きなのだろうか?
まだ、出会って二月も経っていないのに。
「仕方ないわね。自分の気持ちを確かめるのに一番良い方法を一つ、教えてあげる」
そして、立ち上がったバネッサはわたしのところに来ると、耳元に顔を寄せて囁いた。
その内容に驚いて思わず身を引けば、バネッサがニッと笑う。
「試してみればきっと分かるわ」