赤髪の少女と彼女
* * * * *
「本日も騎士の訓練場に行かれるのですか?」
近衛騎士のリシアン・シェーンベルクに問われ、アシュリーは頷いた。
使節団として何度もレンテリア王国に来ていたが、今回は一番の収穫かもしれない、と思う。
アシュリーには忘れられない人がいる。
十年も前に出会った、自分よりもずっと歳下の、赤髪の少女。
あの頃はまだ剣の腕もあまり立たず、弱かったアシュリーを助けてくれた人。
レンテリア王国への使節団として名乗り出たのは、その少女にまた会いたかったからだ。
「ええ、今日も行くわ」
「あの赤髪の、レヴァイン公爵令嬢でしたっけ? あの女性騎士が気に入ったんですか?」
リシアンの問いに、横にいた同じく近衛騎士のバネッサ・アルウェンが、リシアンに肘打ちをした。
相変わらず綺麗に入り、リシアンが「ぐ……っ」と小さく呻く。
このリシアンは実力はあるのだけれど、少々変わり者だ。
バネッサの肘打ちも本気を出せば避けられるだろうに、いつも受け入れている。
その表情が僅かに嬉しそうな理由は何となく想像がついたものの、他人の恋路に口を出すと拗れるし、リシアンもそれは望んでいないだろうとアシュリーは黙っていた。
「あなたは黙ってなさい」
「でも、レヴァイン公爵令嬢は王太子の婚約者だそうですよ。すごいですよね。あの歳で王太子妃教育を受けなくてもいいくらい優秀で、剣の才能もあり、公爵令嬢という血筋と身分もあるなんて。話を聞いた時は物語の中の登場人物が抜け出して来たのかと思いましたよ」
「まあ、その気持ちは分からないこともないけど……」
スカーレット・レヴァイン公爵令嬢。レヴァイン公爵家の長女にして、レンテリア王国の王太子の婚約者。しかも現在は王妃の近衛騎士まで務めているという驚くべき経歴の持ち主だ。
初めて剣を交わして以降、何度か手合わせをしたが、その強さは驚くべきものだった。
アシュリーはミレリオン王家に稀に生まれる『加護持ち』である。
この『加護持ち』は特殊な能力を生まれながらに有しており、体が頑丈だったり、武術に優れていたりすることが多い。これまで死ぬほど剣の腕を鍛えてきたつもりではあるが、努力だけではここまで強くはなれなかっただろう。
「そうね、彼女に興味があるわ」
レヴァイン公爵令嬢に関する話は耳にしている。
王太子の婚約者でありながら、王太子から蔑ろにされている令嬢。
しかし、どうやら彼女自身も王太子に関心がないらしい。
政略結婚とは言え、これほど冷め切った関係も珍しい。
王太子とレヴァイン公爵令嬢の婚約は王家からの打診により決められたもので、レヴァイン公爵令嬢はどうしようもないのだろう。拒否するのは王命に逆らうことと同義である。
たとえレヴァイン公爵令嬢が王妃になったとしても、幸せにはなれない。
王から疎まれる王妃など、貴族達からも軽んじられてしまう。
そんなことすら分からない王太子には呆れてしまうが。
レヴァイン公爵令嬢について哀れに感じる部分がないと言えば嘘になるが、それ以上に気になることのほうが多い。
「もしかしたら『あの子』かもしれないの」
昔出会った少女の困ったように微笑む顔が、レヴァイン公爵令嬢と重なった。
たった一度しか顔を見ていないので記憶は朧げだが、似ていると感じた。
「昔、殿下を助けてくれた少女ですか?」
「そういえば、レヴァイン公爵令嬢も赤髪でしたね」
リシアンとバネッサが言う。
「年齢的にも近いわ」
「そうなんで──……え、殿下を助けてくれた子ってそんな歳下だったんですか!?」
「あら、言ってなかったかしら?」
「聞いてないですよ! 助けてくれた少女がいた、とは聞いてましたけど!」
リシアンの横でバネッサも頷いている。
話している気でいたのだけれど、どうやらそうでもなかったらしい。
アシュリーは立ち上がり、手を振った。
「その話はまた今度改めて説明するわ。それより、今は訓練場に向かいましょう」
日によってはレヴァイン公爵令嬢は訓練場にいないこともある。
他の騎士達に聞いたところ、彼女は王太子の婚約者として必要な社交と近衛騎士の護衛の任務以外──……つまり休日は大抵、訓練場で過ごしているという。
何が彼女をそこまで剣の道に駆り立てるのかは分からないが、レヴァイン公爵令嬢の剣筋には必死さがあった。対峙した時、戦争に向かう兵士のような覚悟と気配を感じたのだ。
だからこそ彼女は強いのだろう。
ただの手合わせ、ただの訓練ではなく、常に戦場に身を置いている。
恐らく、彼女にとってはそうなのだろう。
……ある意味では間違っていないわ。
王太子に疎まれている彼女は貴族達から既に侮られているはずだ。
決して弱い姿を見せられないという緊張感もあるのだろう。
客室を出て、廊下にいた騎士に声をかけて訓練場までの案内を頼む。
ここ最近はほぼ毎日訓練場に行っている。
……事実を確認して、どうするというのかしら。
もしレヴァイン公爵令嬢があの少女だったとしても、彼女は既に王太子の婚約者だ。
まさか友好国の王太子の婚約者を横取りするなどということは出来ない。
幸せになれないと分かっているのに。
まだ彼女がそうと決まったわけではないが、心のどこかでは何故か確信があった。
……きっと、レヴァイン公爵令嬢は『あの子』だ。
騎士の案内で到着した訓練場に目を向ける。
大勢の騎士がいても、彼女はその鮮やかな髪もあって目立つので、一目で見つけられる。
今日は手合わせではなく体を鍛えているらしい。
こちらの視線に気付いたのか、レヴァイン公爵令嬢が振り返った。
周囲の騎士達に声をかけつつ近づいた。
「おはよう。レヴァイン公爵令嬢は今日も来ているのね」
「おはようございます。……休日はいつもここで鍛錬をしておりますので」
「あら、騎士は有事の際に備えて体を休めることも仕事の内よ?」
そう言えば、レヴァイン公爵令嬢が目を瞬かせた。
少し驚いたような表情は幼さを感じ、年相応に見える。
……そういえば、彼女はまだ十八歳なのよね。
落ち着いた普段の様子から、ついもう少し歳上のような気がしてしまっていた。
「そんなことを言われたのは初めてです」
困ったように眉尻を下げる姿に、やはり赤髪の少女が重なって見えた。
「ですが、少しでも休むと色々鈍ってしまいそうなので……それに、体を動かしているほうが気分も落ち着きます。何もしていないと、あれこれと考えすぎて不安になるので」
「こんなに強いレヴァイン公爵令嬢でも不安に感じることがあるのね」
「微妙な立場ですから」
レヴァイン公爵令嬢は己の状況をよく理解しているようだ。
「第二王子殿下は本日も手合わせをしにいらしたのですか?」
話題を変えられたのでアシュリーも、それ以上その話をするのをやめた。
「今日は騎士の方々ともっと話してみたくて来たの。レヴァイン公爵令嬢も、よければ少しお喋りをしてもらえないかしら? もちろん、訓練を優先してもらって構わないわ」
「いえ、問題ありません。今から休憩しようと思っていたところなので」
恐らく、アシュリーに予定を合わせてくれたのだろう。
訓練場の端にあるベンチに行き、そこにレヴァイン公爵令嬢と並んで腰掛けた。
レヴァイン公爵令嬢はタオルで汗を拭っている。
ふわりと吹く風は爽やかで、初夏の雰囲気も僅かに感じられる。
「レヴァイン公爵令嬢は剣がお好き?」
「そうですね、好きだと思います。努力した分だけ強くなれますし、仕事もやりがいを感じますし、いざという時に自分や大切な人を守る力になります」
「王族は命を狙われることもあるものね」
何故か、レヴァイン公爵令嬢が苦笑した。
「はい、そういう時、何も出来ないことが一番恐ろしいです」
「確かに、自分の身くらい守れたほうがいいわね」
「一瞬の油断が命取りになりますから」
そう言ったレヴァイン公爵令嬢は訓練場の騎士達を眺めた。
しかし、その目はどこか遠くを見つめているような気がした。
……その目には何が見えているのかしら。
それを知りたいと思ってしまう。
相手はレンテリア王国の王太子の婚約者なのに、こんなに惹かれるのは何故だろうか。
「その気持ち、分かるわ。こう見えてもアタシ、昔は捻くれていてね、よく剣の授業をサボっていたの。だからその頃は剣は振れるけど、戦うのは苦手だった」
もう十年も前の話だ。
あの頃には既に兄が王太子となっており、いつも兄と比べられた。
誰もが『王太子殿下には出来るのに』『王太子殿下はすぐに覚えたのに』と教師達に言われ、王族教育を受けるのがとても嫌だった。
兄のことは家族として好きだし、尊敬していたし、兄弟仲も悪くはない。
だが、周囲から比べられるほどに劣等感に苛まれていた。
比べられるのが嫌で授業から逃げ出してばかりいた。
そんなアシュリーを見て、国王である父はレンテリア王国への使節団に同行し、少しの間だが国を離れて気持ちを落ち着けられるようにしてくれたのだ。
その時、赤髪の少女と出会った。
「十年前、初めてレンテリア王国に来た時、ある女の子に助けられたわ」
レヴァイン公爵令嬢が振り向き、こちらを見る。
「そう、レヴァイン公爵令嬢みたいな鮮やかで綺麗な赤い髪の子だった」
あの時、自分よりも歳下の少女に助けられたのが恥ずかしくて、悔しくて、同時に自分があまりに弱いことを思い知った。どれだけ周りの人々に守られていたのかも気付いた。
それから、国に帰り、真面目に勉学に励んだ。
知識も剣も己の武器になる。
今までは兄と比べられることが嫌だったが、比べられて当然だ。
あの頃のアシュリーは第二王子という身分に甘えていたのだから。
真面目に剣の鍛錬もするようになると、面白いほど努力は成果に繋がった。
「いつか、その女の子にお礼が言いたくて。もうアタシは守られるだけの存在じゃないと、今度はあなたを助けられるようになったと、そう言いたくてアタシは勉学も剣術も学んだわ」
レヴァイン公爵令嬢の綺麗な紫色の目が伏せられる。
そして、その顔がまた訓練場の騎士達に向けられた。
ややあって、レヴァイン公爵令嬢が口を開いた。
「わたしも昔、人助けをしたことがあります」
紫の瞳が、膝の上に置かれた訓練用の剣に向けられ、その手が剣を撫でた。
「あの頃、わたしは普通の令嬢でした。剣を握るどころか触れたこともない。……本当は花祭りに行ってはいけないと両親にきつく言われていたのに、祭りの話をしている使用人達の会話を聞いて、羨ましくて、どうしても行きたくて、騎士達に無理を言ってこっそり寄りました」
その話を聞きながら、ドクン、ドクン、とアシュリーの心臓は早鐘を打っていた。
アシュリーは祭りについて一言も触れていないのに、レヴァイン公爵令嬢はその時の話をしている。赤髪の少女と出会ったのも春の花祭りだった。
「そこで、たまたま荒くれ者に絡まれていた少年を助けました。わたしが頼んだだけで、実際に助けたのは護衛騎士達でしたが。少年を警備隊の詰め所まで送りました。名前を聞かれたけれど、でも、教えることは出来ませんでした」
両親に黙って祭りに来ていたのであれば名乗れないだろう。
もしも相手が礼をしに来たら、言いつけを破ったことがバレてしまう。
……レヴァイン公爵令嬢、あなたはあの少女なのね……。
顔をこちらに向けたレヴァイン公爵令嬢が微笑んだ。
「歳上の少年でしたが、そういえば、第二王子殿下とよく似た鮮やかな金髪でした」
恐らく、レヴァイン公爵令嬢も少年がアシュリーであることに気付いている。
目の前のあの少女がいると思うと手を伸ばしたくなった。
だが、それは叶わない。
レヴァイン公爵令嬢が立ち上がる。
「さて、そろそろわたしは訓練に戻ろうと思います」
「……そう……そうね、お喋りに付き合ってくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ第二王子殿下の話し相手になることが出来て光栄でした」
アシュリーも立ち上がり、レヴァイン公爵令嬢に手を差し出した。
「あなたが王太子殿下の婚約者でなければ、我が国に招きたいくらいだわ」
その手に、己の手を重ねたレヴァイン公爵令嬢が優しく握り返す。
女性にしては皮が厚く、マメのある、騎士の手だった。
レヴァイン公爵令嬢は微笑み、手を離すと背を向けて歩き出した。
だが、数歩行ったところで不意に立ち止まった。
振り返ろうとしたのか、しかし、途中でそれをやめる。
こちらから表情は窺えない。
「……わたしもミレリオン王国に行きたいです」
ポツリと、そう呟いた声にはどこか切実そうで。
恐らくそれは本心なのだろう。
レヴァイン公爵令嬢はそのまま訓練場の中に行ってしまう。
伸ばしそうになった手を強く握り締めた。
「殿下、レヴァイン公爵令嬢はもしかして……」
リシアンの言葉にアシュリーは頷き返す。
……何とか出来ないのだろうか。
あの日、助けてくれた赤髪の少女はレヴァイン公爵令嬢で間違いない。
彼女の現状はあまり良いものではなく、きっと、王太子妃になっても彼女は幸せにはなれない。
それでもレヴァイン公爵令嬢は微笑むのだろう。
あの日のように、困ったように眉尻を下げて、静かに受け入れるのだ。
……やっと見つけられたのに。
強くなれば助けられるという考えは思い上がりだった。
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