加護の力
わたし達は舞踏の間から続くテラスに出た。
今日は明るい夜だった。空には丸い綺麗な月が浮かんでいる。
思わずそれを見上げれば、アシュリーも視線を辿るように顔を上げた。
「いい夜ね」
ふわりと吹く風がアシュリー殿下の髪を揺らす。
もうすぐ夏も盛りになる頃だが、こうして時折、過ごしやすい夜もある。
二人で何とはなしに月を見上げたまま、テラスの手すりに寄りかかる。
それから、わたしは視線だけをアシュリー殿下に向けた。
濃い金髪が月明かりを受けて柔らかく光り、鮮やかな翠色の瞳は優しく月を眺めている。整った顔立ちは美しいけれど、完全に中性的ではなく、どこか男性らしさも感じられた。誰もが振り返るほどの美形であることは確かだろう。
……この人がわたしの婚約者か……。
なんだか、まだ、実感が湧かない。
ほんの少し前に婚約破棄をされたばかりのわたしが、また婚約している。
しかも、今回は互いに想い合っての婚約だ。
貴族や王族の結婚は政略が多く、好きな者同士で結婚出来ることのほうが少ない。
そういう意味でわたしは幸運だ。自分を愛してくれて、愛した人と共にいられる。
わたしの視線に気付いたアシュリーが微笑んだ。
その柔らかな微笑みにドキリとした。
「綺麗だわ」
それに頷き返す。
「はい、綺麗な月ですね」
「あら、違うわ。スカーレットのことを言ったのよ」
ふふふ、とアシュリー殿下がおかしそうに笑い、わたしの頬に触れる。
「ねえ、婚約したのにまだ言葉遣いは変えてくれないの?」
「癖で、つい……。これからは普通に話す」
「ええ、そうしてちょうだい。普段の丁寧な言葉遣いのスカーレットも好きだけど、その口調のスカーレットも格好良くて好きよ。凛としていてドキッとしちゃうわ」
……そんな顔で言わないでほしい。
わたしまで心臓が高鳴ってしまうから。
頬に触れているアシュリーの手に、自分の手を重ねる。
「それなら良かった」
いつも、わたしばかりがドキドキしていると思っていた。
けれどもアシュリーも同じようにときめいてくれているのなら、嬉しい。
近づいて来るアシュリーの顔に目を閉じる。
唇に触れる柔らかな感触に、鼓動が高鳴るけれど、それが心地好い。
離れていくのが少しだけ名残惜しい。
手を伸ばしてアシュリーの頭を引き寄せ、わたしからも口付ける。
「……アシュリー、好きだ」
そう告げると何故かアシュリーが両手で顔を押さえて俯いた。
「アタシの婚約者、格好良すぎてつらい……!」
「えっと……すまない? つらいなら、また言葉遣いを戻した方が──……」
「いいえ、そのままでいて!」
ガシリと両肩を掴まれ、真剣な表情で言われたので頷いた。
そうして、顔を見合わせてどちらからともなく噴き出した。
こんなに穏やかで温かな時間は久しぶりだった。
レンテリア王国の王太子と婚約する前にはあったけれど、それはあまりに遠い記憶である。
わたしは今で三度目の人生を歩んでいる。十二歳から十八歳までを余分に二度も繰り返し、全て合わせて計算すれば三十歳。アシュリーよりも歳上である。
……そう思うと、騙しているような気が……。
「どうしたの、スカーレット。変な顔をしているわよ?」
「ああ……いや、何でもない」
人生を繰り返していることは伝えているので騙してはいない……はずだ。
アシュリーが眉尻を下げ、わたしの顔を覗き込む。
「もしかして、さっきのことを気にしてる? 扇子が当たったところが実は痛いとか──……」
言いながら、アシュリーがわたしの頬に触れて扇子が当たったところを確認する。
その手つきが慎重で、丁寧で、もしもわたしに怪我があったとして、触れられたとしてもきっと痛くはないだろう。そう思えるくらい、優しい手つきだった。
つい、笑みが浮かぶ。
「大丈夫だ。痛くないし、怪我もない」
「それならいいのだけれど──……彼女のこと、本当にごめんなさい。少し傲慢なところはあることは分かっていたわ。でも、普段からあんなことをするような子じゃなかったのに……」
目を伏せたアシュリーの頬に触れ、顔を上げさせる。
「バートランド公爵令嬢にも色々とあるんだろう。……分からなくはない。今までアシュリーの婚約者になるのは自分だと言われ続け、そう信じていたのなら、今回のことで自尊心が傷付けられたはずだ」
わたしが衆人環視の中で婚約破棄された時に近いかもしれない。
わたしは二度経験しており、三度目にはもう王太子のことは何とも思っていなかったから心構えも出来ていたし、婚約破棄宣言をされた時も何も感じなかった。来るべき時が来た。それだけだ。
だが、バートランド公爵令嬢にとっては受け入れがたい現実だっただろう。
周囲から散々『第二王子の婚約者に相応しい』と言われ、持ち上げられ、いずれはそうなると思っていたのに、その未来が突然閉ざされた。口さがない者達はきっと公爵令嬢について、あれこれと噂をする。その内容は決して良いものではないことくらい、わたしでも想像がつく。
自尊心も誇りも傷付き、社交界での立場もバートランド公爵令嬢は危うくなっている。
だが、それはわたしがどうにか出来ることではない。
そもそも前回もそうだが、アシュリーは否定しているし、王家も認めていなかったはずだ。
可哀想だけれど、人々の言葉に流されてしまった結果である。
「しばらく、社交界には出られないかもしれない」
それは貴族として、つらい……いや、貴族でなかったとしても苦痛だろう。
社交界に行けばその話題を耳にしてしまうが、社交界に出なくても、人々が自分のことを嘲笑っているかもしれないと思うと人前に出るのが恐ろしくなる。
一度目に婚約破棄をされたわたしがそうだった。
ただ、そうなる前に両親に毒を飲めと言われて死んだが。
……確かに、両親の判断はある意味では間違ってはいなかった。
もしもわたしがあのままいても、人々は『王太子に婚約破棄された令嬢』『婚約破棄されるほどの瑕疵があるのではないか』と噂をするだろうし、わたしは好奇の目で見られ、きっと嘲笑われていた。
公爵家の名誉だけでなく、結婚出来なくなったわたしを思ってのことだったのかもしれない。
修道院で寂しく、苦しく過ごすより、令嬢のまま潔く消えた方がいい。
そういうことだったのかもしれない。
……そうだとしても。
両親に死ねと言われた事実は変わらない。
その時に傷付いた一度目のわたしの記憶も、気持ちも、苦痛も、何も変わらない。
「分かったわ。バートランド公爵令嬢について、王家のほうで手を回してみるわ」
アシュリーの言葉にハッと顔を上げれば、困ったような顔でアシュリーが微笑む。
「だから、そんな顔しないで──……」
視界の端でキラリと何かが煌めいた。
咄嗟にアシュリーを突き飛ばし、自分も半歩後退る。
一瞬の後、目の前を銀色の何かが鋭く通り抜けていった。
ほとんど本能的に剣を鞘から引き抜く。
わたしが突き飛ばしてしまったアシュリーが床に座り込むが、気にしている余裕はなかった。
暗闇から襲い来る複数の銀色を剣で弾くと、それらはナイフだった。
刃の色がおかしいのは何か塗られているからだろうか。
「アシュリー、中へ!!」
今、アシュリーは帯剣していない。
この暗い中でアシュリーを庇いながら戦い続けるのは難しい。
一人ならどうとでもなるし、もし負けても自分の命一つで済むが……。
しかし、アシュリーが立ち上がりかけた瞬間、その背後に人影が現れた。
無礼など気にする暇もなく、アシュリーの胸倉を掴み引き寄せる。
アシュリーとわたしの位置が変わり、振り下ろされたナイフを剣で受け止める。
相手は相当な手練れのようで力が拮抗している。
けれども、このままでは押し切られるかもしれない。
「衛兵!! 侵入者だ!!」
腹から声を出して叫べば、舞踏の間の騒めきが強まった。
だが、騎士達が来るまで時間がかかる。
相手のナイフを押し返し、アシュリーのそばに下がる。
たった数歩の距離だが、ここから舞踏の間に飛び込むのは厳しいだろう。
暗闇からは複数の気配を感じる。
こちらに勘付かれたから気配を隠すのをやめたか。
月明かりの下でまたキラリとナイフが襲いかかる。
キン、キィンッと剣とナイフのぶつかる甲高い音が響く。
遠くから「こっちだ!」「声がしたぞ!」と騎士達のものだろう声が聞こえた。
「はぁっ!」
気配を辿り、剣を振る。
いくらか何かを切り裂く感触はしたものの、致命傷には至らないだろう。
微かに血の臭いが漂ってくる。
……早く、早く来てくれ……!
恐らく相手は五人はいる。
アシュリーも剣を持っていたなら、また違っていたかもしれない。
もしくはここにバネッサとシェーンベルク殿がいたなら……。
何とかアシュリーを守っているものの、ナイフで腕を、肩を、浅くだが切り裂かれる。
「っ……!」
切れたところが熱い。先ほど予想した通り、毒が塗ってあるのだろう。
体が少し重く感じる。動きが鈍っているのが自分でも分かる。
……それでも、後少し……少しだけ……!!
「スカーレット……!!」
弾いたナイフの向こうから短剣が現れる。
咄嗟に反応したけれど、右肩を大きく切り裂かれた。
「ぐ……っ!」
即座に暗闇に剣を突き立てる。確かな感触と重みがあった。
剣をそれから引き抜き振り返った。
視界に鋭く銀色が輝いた。
……避け切れないか。
けれど、わたしがここで刺されてもアシュリーは助かる。
もうすぐ騎士達が来るから、それまで時間稼ぎが出来ればいい。
────……そう、思っていたのに。
アシュリーに突き飛ばされた。
床に転がったものの、慌てて跳ね起きれば、アシュリーが微笑んでいる。
「な、んで……?」
その胸から、剣の切っ先が突き出ていた。
ずぷ、と容赦なくそれが引き抜かれ、アシュリーの口から血があふれた。
膝をつき、アシュリーが前のめりに倒れた。
それと同時に暗闇の気配が引いていく。
わたしは立ちあがろうとして、でも毒のせいか上手く立ち上がれず、床を這うようにアシュリーの下へ向かった。
急いでアシュリーを抱き寄せて仰向けにすると、まだ息があった。
「どうして……っ、何故わたしを庇った!?」
アシュリーの震える手がわたしの頬に触れる。
「こん、やくしゃを、守らない……男は、いない、わ……」
「馬鹿! わたしは騎士だ! 守るべきお前がわたしを庇うなんて間違っている!!」
「っ、そう、ね……」
困ったような微笑みを浮かべたものの、アシュリーが咳き込んだ。
それにハッと我に返る。
すぐに自分のマントを外し、傷に押し当て止血しようとするが間に合わない。
赤いマントに染みが広がっていく。
この傷では助からない。
「アシュリー、わたしに傷を移せ!!」
そうすれば、アシュリーは助かる。
「なに、い……てる、のよ。そ、んなこと、出来ない……わ」
「っ、一騎士のわたしよりもアシュリーの、王族の命のほうが上だ!!」
たとえわたしが公爵令嬢であったとしても、それは変わらない。
何より、わたしは──……。
「死なないでくれ、アシュリー……!」
震える手に自分の手を重ねれば、アシュリーが微笑んだ。
「ア、タシも、お……なじ、気持ち……よ」
わたしの頬を涙が伝う。
布越しに感じる濡れた感触に、体が震える。
今更、騎士達の足音がして、テラスの扉が開かれた。
しかし、背後の喧騒などどうでも良かった。
「……レティ」
今は一言でも聞き逃しては行けない。
「……愛し、て……る…………わ……」
アシュリーの手が力を失くし、体の重みが増す。
……もう……もう、どうにもならないのか。
動かなくなったアシュリーを抱き締める。
白い服が赤く、血で染まっていた。
「っ、ぁああああぁあぁぁぁあぁっ!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
言葉に言い表せないほどの激情が駆け巡る。
一度目で死んだ。二度目で死んだ。それでも三度目こそは幸せになれると思ったのに。
……どうして、どうしてこうなるんだ……っ!?
「スカーレット!」
「何がっ? ……っ、殿下!?」
バネッサとシェーンベルク殿の声が聞こえた。
二人がわたしの腕の中で動かないアシュリーに気付いて、手を離させようとするけれど、抗った。
この人から離れたくない。失いたくない。
……ああ、そうだ。
ふと浮かんだ考えに顔を上げる。
アシュリーを床に寝かせ、手放していた剣を掴み、わたしは自らの首に押し当てた。
「……バネッサ、シェーンベルク殿……」
アシュリー、あなたはわたしを助けてくれたけど。
「……すまない、アシュリー……」
わたしだけが残されるなんて耐えられない。
「っ、ダメ、スカーレット……!!」
バネッサの声がしたけれど、わたしは微笑んだ。
……アシュリー、わたしは同じ道を歩むから。
……今度こそあなたを守ると誓うから。
首に当てた剣をわたしは一気に滑らせた。
痛みと熱と苦しみの中で、喧騒が遠退いていく。
……また、あなたは声を上げてくれるだろうか?