婚約準備
あれから、わたしはその場でアシュリー殿下との婚約届にサインをした。
ミレリオン王家として『加護持ち』のわたしを手元に置いておくための措置だと言っていたけれど、アシュリー殿下の嬉しそうな様子からして、きっとそれだけではない。
……陛下も人の子だ。
アシュリー殿下とわたしの婚約を早く認めてくれたのは、恐らく殿下を思ってのことだろう。
しかし、即座に婚約発表をするには時間も準備も足りない。
せめてある程度の準備を整えてから、婚約発表を行うという話で決まった。
そうして婚約発表がされるまでわたしは近衛騎士として──……いや、婚姻後も騎士の仕事は続けられるようにしてもらえる予定だ。騎士の道はわたしにとって大切なものだから。
今は水面下で婚約の準備を整えている。
……とは言え、ほとんどはアシュリー殿下が進めてくれている。
次の王家主催の夜会で発表するとのことだが、わたしがそれまでに出来ることはほぼない。
むしろ、周囲に悟られないように普段通りにしているのが一番いいのだ。
……婚約、か。
レンテリア王国で王太子から婚約破棄をされて、まだ二月ほどしか経っていない。
アシュリー殿下と出会ってからまだ二月ということに驚いた。
護衛として一日中そばにいることもあってか、もっと長く共に過ごしてきたような気がする。
執務室の端に控え、いつも通り殿下の護衛の任をこなしていると、書類を置いたアシュリー殿下が両腕を上げて背筋を伸ばした。
「ちょっと休憩しましょう。お茶を持って来てもらえるかしら?」
アシュリー殿下の言葉に、殿下の侍従が頷いて部屋を出て行った。
立ち上がった殿下がソファーに移動する。
そして、わたしに手招きをした。
「スカーレット」
と、呼ばれたのでそばに行けば、引き寄せられる。
よろけてしまい、咄嗟にソファーの背もたれに手をついたけれど、何だかアシュリー殿下をソファーに押し倒して迫っているような体勢になってしまった。顔が近い。
「あら、大胆ね」
アシュリー殿下が嬉しそうにわたしの腰に腕を回す。
「仕事中の悪戯はおやめください」
「だって、あなたがあまりにも熱心に見つめてくるから、つい」
どうやら、考え事をしながらジッと殿下を見てしまっていたらしい。
そのまま殿下の足を跨ぐようにして座らせられ、抱き寄せられる。
「バネッサもいるのですが……」
騎士は基本的に二人一組で行動する。
今日のわたしの相方はバネッサで、同じく部屋の反対隅に控えていた。
見られていると思うと、どうにも落ち着かない。
「バネッサは口が堅いから大丈夫よ」
……そういう問題ではないのだが。
アシュリー殿下の嬉しそうな様子を見てしまうと、まあいいか、となった。
バネッサはシェーンベルク殿と違って揶揄ってくることもない。
「そうそう。明後日に仕立て屋を呼ぶから、あなたも同席してね」
「夜会用の衣装の注文ですか?」
「ええ、その通り。アタシとあなたと、似た雰囲気の衣装で揃えましょう?」
アシュリー殿下はとても乗り気らしい。
楽しみで仕方がないという気持ちが伝わってくると、わたしも嬉しい。
「もちろん、衣装はあなたの好きな形でね」
パチリとウィンクをしてみせるアシュリー殿下に笑みが浮かぶ。
……この人と出会えて良かった。
* * * * *
「やだ、迷っちゃうわ〜」
仕立て屋の持ってきたドレスのデザインカタログを見て、アシュリー殿下が喜んでいる。
今日は『殿下の夜会用の服を仕立てるため』という名目で仕立て屋を呼んでいるはずなのに、殿下は自分のものよりも、わたしの服のデザインばかり眺めている。
その姿はまるで新しいドレスを作るのを楽しむ令嬢のようだった。
仕立て屋には殿下から既に話を通しているらしく、殿下に熱心にデザインについて話す。
「でも、これだけだと少し華やかさが足りないと思わない?」
「それでしたら、マントをつけるのはいかがでしょう? 表を赤に、裏を黒にして殿下のものと同じ色合いにすれば華やかになりますし、全体の色を二人で統一させれば並んだ時に一対に見えますわ」
「それは素敵ね! スカーレットの服はもう少し、ここをこうして、騎士の雰囲気を持たせてちょうだい。夜会でも彼女には帯剣を許すつもりなの。それ用のホルダーも用意してほしいわ」
「かしこまりました」
わたしの服だが、わたしよりアシュリー殿下のほうが気合が入っている。
採寸を終えたわたしが戻って来たことに気付くと、アシュリー殿下は微笑んだ。
「お疲れ様、スカーレット」
手招きをされて殿下の横に腰掛ける。
「この服はどうかしら? アタシと色を合わせつつ、スカーレットのほうは騎士らしくしてみたわ」
そこには白地に金と赤とを使った騎士の制服と同じ色合いで、でも制服よりも華やかなデザインが描かれていた。腰には帯剣用のベルトがある。ズボンにブーツ、そして横に描かれたアシュリー殿下のものだろう服のデザインと同じ、表は赤で裏は黒いマント。
男装についてはアシュリー殿下も分かっていたのだろう。
……レンテリア王国の夜会でも、わたしは男装のままだった。
この国に来て以降も一度もドレスを着ていない。
わたしにとっては華やかなドレスよりも、動きやすい男装のほうが好きだ。
騎士の制服を着ると気持ちが引き締まるから好きだ。
「……とてもいいですね」
殿下と同じ色合いでありながら、騎士の装いで──……まるで殿下だけの騎士だというような服だ。
この服を着て、アシュリー殿下の横に立てるのだと思うと胸の内が温かくなる。
「本当に? 勢いでアタシが選んでしまったけど、嫌ならそう言っていいのよ?」
「いえ、本当にこちらで良いと思っています。これまで服についてあまり興味がなかったので、殿下に選んでいただけて嬉しいです。……わたしはつい、動きやすさや場に合わせたものという点ばかり重視してしまいますから」
普段から装いに気を遣っている様子の殿下なら、素敵なデザインを選んでくれる。
そう思っていたし、実際にデザインを見て、わたしなりに納得した。
動きやすく、騎士の雰囲気を感じながらも夜会の場に着ていても違和感のない華やかさ。
婚約発表の場となる夜会でも帯剣を許してもらえることも嬉しい。
今のわたしにとって剣は全てだった。
身を守り、身を立て、そしてアシュリー殿下を守るために必要なもの。
初めて剣を握った日から、これを一日も手放したことはない。
「でも、どうして騎士風に?」
「どうしてって、スカーレットは騎士としての自分に誇りを持っているでしょう? それに夜会や外出の時も帯剣していたから、剣がないと落ち着かないのかと思って。帯剣するなら騎士の装いのほうが似合うし、誰も疑問を抱かないわ」
「そうですね、その通りです。……殿下には敵いませんね」
「ふふ、これでも人を見る目は鋭いほうなのよ」
わたしの手に、アシュリー殿下の手が重なる。
左手の薬指を殿下の指が辿る。
「婚約したら、ここに指輪を贈らせてちょうだいね」
嬉しそうな表情のアシュリー殿下にわたしも頷き返す。
きっと、その指輪はわたしの宝物になるだろう。
* * * * *
夜会の衣装を注文し、応接室を後にする。
普段ならば王城で対応するのだが、今回はわたしの服も注文することもあって、今日はアシュリー殿下の離宮にいた。
後ろにはバネッサとシェーンベルク殿がいる。
殿下とわたしの私的な用事がある日は基本的にこの二人が護衛の任につくようだ。他の騎士達を疑っているわけではないが、どこから情報が漏れるか分からないし、わたしの護衛も兼ねている二人ならば信用出来る。
「スカーレット、お茶でも飲んでいかない?」
そっと手が繋がれる。
「もう少し、あなたとの時間を過ごしたいわ」
婚約発表がされるまで、わたし達は主君と騎士でしかない。
人目のある場所では不用意に触れることも出来ない。
ジッと見つめられ、その熱い眼差しにわたしは繋がった手を握り返す。
「はい、わたしも殿下と共にいたいです」
パッとアシュリー殿下の表情が明るくなり、手を引かれる。
そして、別の応接室に案内された。
ソファーに座るとアシュリー殿下も横に腰掛け、わたしを抱き寄せる。
すり、と頭に頬擦りされるのを感じた。
「……夢みたいだわ」
アシュリー殿下がそう呟く。
「夢、ですか?」
「ええ、そうよ。だって初恋の相手と両想いになれるなんて、なかなかないわ」
「王族の殿下ならば相手を指定出来ると思いますが……」
「自国の令嬢なら、それも可能でしょうね」
……ああ、わたしは他国の令嬢だったからか。
レンテリア王国にいる、名前も知らない貴族の令嬢を妻にと望んだところで、それが叶えられるのは難しいだろう。その令嬢を探すにはレンテリア王国に協力を仰ぐしかない。
そして他国とは言え、一方的に王族が婚約を申し出れば、それは通る。
だが、もしわたしに婚約者がいたとしたら?
事実、わたしは王太子と婚約していたし、そこにアシュリー殿下から婚約の打診をされれば、レンテリアとミレリオンの交友関係にヒビが入る可能性が高い。
王族だからこそ許されないわがままもある。
「……婚約破棄されて良かったです」
一度目も二度目もつらい目に遭ったけれど、三度目の婚約破棄は転機だったのだ。
あの場で婚約破棄をされなければ、わたしはアシュリー殿下と出会えなかったし、こうしてミレリオン王国に来て殿下と婚約することもありえなかった。
「アタシとしては複雑な心境だわ。婚約破棄されたからスカーレットとアタシは一緒になれるけれど、スカーレットを意図して傷付けようとしたあの王太子の行いは許せないもの」
「怒ってくださり、ありがとうございます。ですが、わたしはもう何とも思っておりませんので、殿下もレンテリア王国の王太子のことは気にしないでください」
手を伸ばして殿下の両頬に触れる。
「殿下は笑顔のほうが素敵ですから」
「スカーレットにそう言われたら怒れないわね。……それにしても……」
「?」
アシュリー殿下がジッとわたしを見つめる。
「そろそろ『殿下』ではなく『アシュリー』と呼んでほしいわ」
期待のこもった眼差しに少し躊躇ってしまう。
異性の名前を呼び捨てにするのは勇気がいる。
騎士同士で家名を呼び合うのとは異なり、これは特別な呼び方だ。
「……アシュリー……」
わたしがそう呼べば、アシュリー殿下──……いや、アシュリーが嬉しそうに笑った。
「スカーレット、もっと呼んで?」
「アシュリー」
「ええ」
「アシュリー」
「うん」
ニコニコしながらアシュリーがわたしの呼びかけに相槌を打つ。
「アシュリー、わたしのことを揶揄っていませんか?」
「そんなことないわ。好きな人に名前を呼んでもらえる幸せを噛み締めているだけよ。出来れば、言葉遣いも前に出かけた時のようにしてくれるとうれしいのだけれど」
「それは婚約してからではいけませんか? 呼び方も、婚約前にうっかり人前で呼んでしまうと問題がありますので、しばらくはアシュリー殿下のままでお願いいたします」
「そう……じゃあ婚約後の楽しみにしておくわ」
抱き寄せられ、額に口付けられる。
「アタシはスカーレットのことを『レティ』って呼ぼうかしら?」
「わたしには可愛すぎると思いますが……」
スカーレットという名前の一般的な愛称だと分かっていても、少しむず痒い。
男装をして、剣を振るっているわたしに『レティ』は似合わない気がした。
「スカーレットは格好良くて可愛いから『レティ』も似合うわ。でも、そうね、恥ずかしいなら二人きりの時だけ、そう呼ぶのはどうかしら?」
「それなら構いません」
二人きりならそれほど恥ずかしくない。
「ありがとう、レティ」
また額に口付けられ、頭を撫でられる。
何だか今日は随分と可愛がられている気がする。
手を伸ばし、わたしもアシュリーの頭を撫でた。
「婚約発表が楽しみですね、アシュリー」
「そうね、レティ」
寄せられる顔に目を閉じる。
唇に触れる柔らかな感触が心地好い。
顔が離れたところで、アシュリーの背中に手を回して抱き着いた。
誰かを頼ることがこんなに安心するなんて、今まで知らなかった。
「婚約発表までは、秘密の逢瀬を楽しみましょう?」
悪戯を企む子供のような顔で笑うアシュリーに、わたしも苦笑する。
「バネッサとシェーンベルク殿には申し訳ないですね」
壁際にひっそりと控えていた二人は何も言わなかった。
ただ、シェーンベルク殿が右手の親指を立て、横にいたバネッサの肘打ちを食らっていた。
何度見てもバネッサの肘打ちは的確に鳩尾に入っていて、とても痛そうだった。