初めてのデート(2)
グラタンを食べ終えた頃、店員が今度は別のものを持って来た。
アイスコーヒーとよく似たグラスに、僅かに茶色っぽさの混じる白い液体と、黒いゼリーが砕けたものが入っている。こんなに黒いゼリーは見たことがない。
店員が出て行ってから、アシュリー殿下が言う。
「スプーンで掬って食べてみて」
言われた通り、スプーンでゼリーを掬うと白い液体も一緒に入る。
口に入れるとコーヒーの香りとミルクの香り、優しい甘さが広がった。
思わず口元に手を当てたわたしにアシュリー殿下が微笑む。
「美味しいでしょう? コーヒーゼリーっていうのよ」
まだ口の中にゼリーがあるので、代わりに二度頷いた。
アイスコーヒーにミルクを入れて飲むのとはまた違う。
ゼリーはコーヒーそのものの苦味があるけれど、この白い液体がミルクと砂糖の甘みがあって、それのおかげでコーヒーゼリーをほどよい甘さと苦味の美味しいデザートに変えてくれる。
アシュリー殿下もコーヒーゼリーを食べている。
あまりに美味しくて、そのまま二人で無言のまま食べてしまった。
「食べ物でこんなに満足したのは久しぶりだ」
ふう、と満足感から息が漏れる。
「良かったわ。スカーレットが美味しそうに食べてくれるから、アタシも嬉しい。今日はコーヒーゼリーだけど、季節の果物を使ったタルトも絶品なのよ」
「そう聞くと食べたいところだが、さすがにもう入らないな」
「また一緒に来ましょう? パングラタン以外のお勧めメニューもあるの」
「ああ、是非。次も楽しみだ」
残ったアイスコーヒーを飲みながら、のんびりと過ごす。
……こんなに穏やかな気持ちになったのも久しぶりだ。
レンテリア王国でもお茶会には出席していたが、常に気を張って、心から楽しむことはなかった。
アイスコーヒーを飲み終えたアシュリー殿下が言う。
「この後は何かお買い物にでも行きましょうか。観劇もしたいところだけれど、時間が足りないわ」
「それなら便箋とインクが欲しい。弟と手紙のやり取りをしていて、意外と便箋をよく使うんだ」
「それなら近くに専門店があるわ」
そういうわけで、わたし達は店を後にした。
支払いはアシュリー殿下がしてくれた。
食べた分は自分で払うと言ったのだけれど「あら、男に恥をかかせるつもり?」と返されて、今日だけは甘えることにした。笑顔なのに圧が強くて断れなかった。
店を出るとふわりと手が重なり、優しく引き寄せられる。
「文具店はこっちよ」
歩き出すアシュリー殿下に手を引かれて、わたしもその後を追う。
殿下はよく街に出ているのか大通りの店に詳しいようだ。
あの店は何が有名、この店は何が美味しい、と色々教えてくれながら歩いていたからか、文具店に着くまでの道も楽しかった。
扉を開けて店に入れば、カラン、とベルの音が鳴る。
店内は落ち着いた雰囲気で、インクやペン、便箋にメッセージカードなども並んでいた。
するりと手が離れてアシュリー殿下がペンの並んでいる場所に近づいた。
一瞬、離れていく手を追いかけそうになり、我に返って踏み止まる。
殿下はこちらの様子に気付いたふうはなく、ペンを見て、振り返った。
「ねえ、初デートの記念にお揃いのペンを買わない?」
その言葉にドキリとする。
「デート、ですか……?」
「アタシはそのつもりだったのだけど、違うかしら?」
「……いえ、違わないと、思います……?」
男女が二人で出かけるのだからデートと言ってもおかしくない。
ただ、わたしはこれまで異性と二人きりで出かけたことがなかったから、これがデートだと言われても実感が湧かないのかもしれない。
「それと言葉遣い、戻ってるわよ?」
「あ」
手招きされてアシュリー殿下の横に立つ。
殿下が視線を下に向けたので、わたしも釣られてそちらを見る。
仕事で使えそうな装飾品の少ないものから、華やかなものまで、色々なペンがあった。
悩むようにアシュリー殿下の手がペンの上を滑っていく。
「どれがいいかしら? どうせなら普段使い出来るものがいいわね」
真剣な表情でペンを眺めるアシュリー殿下。
「これはどうだ?」
「あら、綺麗ね」
黒地のペンの表面に、金で植物をモチーフにした絵柄が描かれており、華やかだ。装飾は少ないので書きやすく、王族が私物として持っていても悪くはないだろう。
さすがに騎士のわたしが持ち歩くのは難しいが。
「頼めば自分の好きな色で作ってもらえるそうよ。お互い、自分の目の色に合わせて注文するのはどうかしら?」
並ぶペンの横に、確かにそんなようなことが書いてある紙が置かれていた。
「そうしよう」
アシュリー殿下が店員に声をかけ、自分とわたしの分とを注文する。
それから、わたしはインクと便箋を見に行った。
弟に送る手紙なのであまり華やかなのもどうかと思い、赤い花の描かれた便箋にした。
今使っているものはほとんど無地で、実用重視だったが、弟には不評だった。
……インクはこれでいいか。
やや赤みのあるインク。わたしも弟も鮮やかな赤い髪だから。
もう一つは私的に使う用に黒いインクも買っておく。
アシュリー殿下はずっとわたしのそばでニコニコしている。
「スカーレットは買い物で悩まないのね」
「ああ、大体直感で買ってるから悩むことはないな」
「アタシはいつもどれを買うか迷っちゃうわ」
第二王子という身分なら、欲しいものくらいいくらでも買えると思うが。
わたしの内心を読んだようにアシュリー殿下が微笑んだ。
「買おうと思えば買えるけど、欲しいものを悩んで、選んで買ったほうが楽しいでしょう?」
「そういうものか? わたしは必要なものを買うと決めて買い物をする」
「色で悩んだりしない?」
「自分に合う色を選ぶけれど、それも直感だ」
「スカーレットは決断力があるものね」
インクと便箋を包んでもらい、受け取る。
アシュリー殿下はメッセージカードを見ていた。
「アッシュは他に買うものはないのか?」
と聞けば、困ったような笑みを返された。
「メッセージカードが欲しいと思うのだけれど、いつも買いすぎて結局使い切れずに余っちゃうから。仕事で使うものは別にあるし、私用ではあまり使わないのよね」
……なるほど。
確かにアシュリー殿下が私用でメッセージカードを使うとしたら、国王陛下か王太子殿下だろう。
しかし、二人に会うには正式に手紙を送ったほうがいい。
そうなるとメッセージカードは買っても使い道はほぼない。
とりあえず欲しいものは買えたので、二人で店を出た。
「っと……」
目の前を子供達が走り抜けて行った。
楽しそうに「早く早く!」という明るい声を上げながら、人混みに子供達は消えた。
「噴水広場で何かやっているのかしら? ……ちょっと見に行ってみない?」
「ああ、構わない」
アシュリー殿下が差し出した手に、わたしは手を重ねた。
手を引かれながら人混みを歩く。
……ああ、そうか。
歩きやすいのは殿下が前にいてくれるからだ。
わたしが人とぶつからないよう、気を配りながら歩いてくれている。
レンテリア王国では『王太子の婚約者』であるわたしはいつだって目の前に道が出来た。
でも、ここでは違う。自分の道は自分で切り拓かなければいけない。
……だけど、こうしているのも悪くない。
アシュリー殿下の後ろは安心する。
ふと、喧騒が大きくなった気がして顔を上げれば、アシュリー殿下が振り返る。
「噴水公園に旅芸人が来ているみたい。だから人が多かったのね」
「旅芸人……」
「ええ、せっかくだから見ていきましょう」
促されて人混みに交じる。
アシュリー殿下は背が高いから、人波の中でもそれほど困らずに動けるようだ。
ギュウギュウとまではいかないまでも、かなり人が多い。
そんな中で手を引かれて、殿下の前に移動する。
「ほら、ここでもよく見えるわ」
殿下が視線で示した先にはちょっとした舞台があった。
そこで旅芸人だろう、目立つ装いと化粧をした人々が芸を披露していた。
ナイフを両手で投げて遊ぶ者、口から火を吹く者、そっくりな双子の息ピッタリのダンス。
芸が成功する度に人々から歓声が上がる。
旅芸人は初めて見たけれど、どれも感心した。
「すごいな。……あんなに身体能力が高いのか」
「着目するのはそこなの?」
「芸も素晴らしいが、それを成功させられるようになるまでの訓練を思うと尊敬する」
「そんなにスカーレットが彼らを褒めると妬けるわね」
振り向けば、困ったような顔のアシュリー殿下がいた。
一際ワッと歓声が広がった。
顔を戻すと丁度全ての芸が終わり、旅芸人達が挨拶をするところだった。
ふと懐中時計を取り出したアシュリー殿下が微笑む。
「そろそろ戻りましょうか」
「ああ、そうだな」
楽しい時間というのは、いつだって一瞬だ。
アシュリー殿下に手を引かれて元来た道を戻る。
……曖昧な関係のままでいいのだろうか。
いつか、殿下は誰かと結婚するだろう。
その時、殿下はその人の手を引いて微笑むのだろうか。
そう考えると胸の中にモヤモヤしたものがあふれて来る。
不意にバネッサの言葉を思い出した。
「アッシュ」
名前を呼ぶとアシュリー殿下が振り返る。
手を引いて、近くの路地に入る。
大通りから一本外れただけなのに人気が全くない、細い道だった。
「スカーレット、どうかし──……」
アシュリー殿下の服を引き寄せ、背伸びをして、口付けた。
誰かと口付けをするなんて初めてだった。
殿下の薄い唇は少し乾燥していて、でも、柔らかくて。
……嫌ではない。むしろ……。
もう一度唇を重ねようとすれば、殿下に抱き寄せられた。
「っ、我慢してたのに……!」
今度はアシュリー殿下から唇が重ねられる。
長く重ねられた唇に息が続かない。
ふらついたわたしの体をアシュリー殿下が支えて、壁に寄りかかった。
わたしと壁の間に挟まれた殿下が「ああ、もう……!」と自身の目元を手で覆う。
「スカーレット。これでもアタシだって男なんだから、あんなことしちゃダメよ」
ダメだと言いながらも、殿下はわたしをしっかりと抱き締めている。
「……バネッサが……」
「バネッサ?」
「好きかどうか、知りたいなら……口付けてみればいい、と」
そう、あの時言われた助言はこうだった。
『恋愛感情で殿下のことが好きかどうか知りたいなら、口付けてみればいいわ。嫌だと感じたらそれは恋愛ではないし、嬉しかったりもっとしたいと思ったりしたなら、それは恋愛感情として好きってことよ』
そして、わたしは殿下に口付けた時、とても心地好かった。
……もっとしたいと思った。
それはつまり、わたしが殿下に感じている好きは『恋愛感情』だということだ。
こうして触れて、体温や意外とがっしりとした体の固さを感じるのも気持ちが落ち着く。
そっと殿下に腕を回すと、殿下の体が硬直した。
「バネッサ……!」
何故か殿下が唸るようにバネッサの名前を呟いた。
「アッシュ……いえ、アシュリー殿下」
名前を呼べば、殿下の視線を感じた。
顔を上げると、赤い顔の殿下が見下ろしてくる。
「わたしは恋愛感情として殿下を好きなようです」
そう囁くとアシュリー殿下にギュッと抱き込まれた。
「あんなことしておいて、そうじゃなかったら許さないわ……!」
「申し訳──……」
ありません、という言葉は殿下の唇に遮られてしまう。
もう何度目かも分からない口付けに、体の力が抜ける。
「……謝らないで」
掠れた、低い囁き声にドキドキと心臓が早鐘を打つ。
「アタシも、恋愛感情としてスカーレットが好きよ。……でも、口付けないと分からないなんて、スカーレットはちょっと鈍感すぎるのではなくって? いえ、無防備と言ったほうがいいのかしら。他の男にこんなこと、絶対にしてはダメよ?」
「しませんよ。多分、殿下だから出来たんです。……口付けも初めてでしたし」
ピシッとアシュリー殿下が固まった。
ややあって、訊き返される。
「……初めて?」
「はい」
「その、レンテリアの王太子と婚約していた……のよね?」
「婚約はしていましたが、ご存知の通り、わたし達は仲が悪かったので」
何故かギュッと抱き締められた。少し苦しいくらいだ。
「……嬉しい」
耳元で熱のこもった掠れ声で囁かれて、息が詰まった。
急に気恥ずかしさが込み上げて顔が熱くなる。
わたしを見たアシュリー殿下が楽しそうに微笑んだ。
「スカーレットでも照れることがあるのね」
……殿下はわたしを何だと思っているのだろうか。
顔を寄せた殿下がわたしの額に口付ける。
「可愛い」
わたしには不似合いな言葉なのに、嬉しいと感じる。
他の誰かに『可愛い』と言われたとしても喜べないだろう。
「好きよ、スカーレット」
その言葉にわたしも返す。
「わたしも殿下が好きです」
三度目の人生で、今更、恋を知るなんて思わなかった。