初めてのデート(1)
アシュリー殿下との外出当日。
わたしは普段通りの男装で行くことにした。
というより、ドレスといった女性モノの服は持っていない。
普段が男装であり、他国の来賓と公式の場で顔を合わせるという時でもない限り、ドレスは着なかった。最初は王妃様は眉を顰めていたけれど、男装姿のわたしは男女共に人気があると分かると何も言わなくなった。
……一度目や二度目の弱い自分を思い出すから、ドレスは着たくない。
最後に手袋を着けて、姿見で確認する。
後頭部の高い位置で一つにまとめた髪に、気の強そうな顔立ちの男装をした女が映っている。
ドレスでないことに殿下がガッカリするだろうか。
そうだとしても、これがわたしだ。
私物の剣を腰に下げてから部屋を出て、寮の外に向かった。
アシュリー殿下の離宮まで歩いていると、道の向こうから地味な馬車が近づいて来た。
紋章がないので貴族の馬車ではなさそうだが、城内で見かけるにはあまりに質素すぎて違和感がある。城に出入りする商人の馬車だとしても、後ろに荷馬車がいないのは不自然だ。
立ち止まって見ていれば、わたしの目の前で馬車が停まった。
中から扉が開けられると見慣れた顔が現れた。
「おはよう、スカーレット。今日は絶好のお出かけ日和ね」
「……アシュリー殿下?」
そこにいたのはアシュリー殿下だけれど、髪色が金髪ではなく茶髪になっていた。
服装もあまり華やかではなく、貴族の令息としては可もなく不可もなく、といった感じである。
手招きされたので馬車に乗り込めば、私服のバネッサとシェーンベルク殿もいて、わたしは空いているアシュリー殿下の横に座るしかなかった。
「バネッサとリシアンは護衛として来るけれど、少し離れてだから気にしなくていいわ」
もちろん、二人で出かけようと言われたが、本当に『二人きり』でとは思っていない。
王族が一人で好き勝手に出歩くなんてことは許されないし、護衛がつくことは理解している。
むしろバネッサとシェーンベルク殿が護衛と分かって、ホッとした。
他にも護衛として騎士はついて来るのだろうけれど、この二人が一番信用出来る。
「改めて今日はよろしくね、スカーレット」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「あら、そんな言葉遣いじゃダメよ。今日は友達で街に遊びに行くようなつもりで、アタシに接してちょうだい。それから、アタシのことは『アッシュ』って呼んでね?」
「……わたしの言葉は男性的ですが……」
「それでいいのよ。今日は王子と近衞騎士じゃなくて、ただのアッシュとスカーレットで出かけるんですもの。言葉遣いも態度も、かしこまっていたら変に思われちゃうわ」
向かいの座席に座るバネッサとシェーンベルク殿は黙っている。
つまり、二人もそれについては目を瞑るということだ。
……アシュリー殿下がそう望むなら、いいんだろう。
「……分かった。今日はよろしく頼む、アッシュ」
アシュリー殿下が嬉しそうに笑って頷いた。
「ええ、よろしくね、スカーレット」
* * * * *
馬車が街中でも人気のない路地で停車する。
バネッサとシェーンベルク殿が先に降りて、それからわたしと殿下も外に出た。
「それでは、お楽しみください」
「また後ほど」
「ええ、二人もよろしくね」
アシュリー殿下が振り向く。
「じゃあ行きましょうか」
促されて、馬車から離れる。振り向けば、二人が小さく手を振っていた。
大通りに出るとそれなりに人通りが多かった。
「あら、今日はいつもより人が多いわね……?」
「そうなのか?」
「ええ……」
振り向いたアシュリー殿下がわたしに手を差し出した。
「スカーレット、逸れないように手を繋いでもいいかしら? この人混みだと逸れたら簡単には会えないでしょうし、美人なスカーレットが一人になったら心配だもの」
その手に、そっとわたしは手を重ねた。
「わたしも逸れるのは困ります」
「まあ、もし逸れてもバネッサかリシアンが見つけてくれるでしょうけれど」
「バネッサには叱られますね」
「そうね」
思わず、互いに顔を見合わせて小さく噴き出した。
わたしよりも大きく、筋張って、マメが出来た皮の厚い手は温かかった。
行きましょ、と促されて歩き出す。
街中を侍女や護衛をつけずに歩くのはいつ振りだろうか。王太子の婚約者となって以降は気紛れに買い物に出歩くことも出来なかったし、のんびりと過ごす時間も余裕もなかったように思う。
「この先に美味しい喫茶店があるわ。アタシ行きつけなのよ」
と言うアシュリー殿下は嬉しそうだった。
少し歩くと柔らかな薄緑の壁に白い屋根の可愛らしい建物があり、ガラス張りの店内には女性客がそれなりにいるのが見えた。窓辺にはヌイグルミや花などが飾ってある。全体的に可愛らしい雰囲気だ。
……わたしでも少し気後れしてしまいそうだが。
アシュリー殿下は全く気にした様子もなく、店の扉を押し開けた。
チリリンとベルの音がして、中から「いらっしゃいませ〜」と声がする。
店内に入ると他の客の視線を強く感じたが、アシュリー殿下が店員に軽く手を上げてみせると「奥の席へどうぞ〜」と声が返された。
アシュリー殿下が店の奥に向かうと仕切られた空間がいくつかあった。
細い木柵を出来る限り狭い感覚で入れて仕切られており、少し離れた席からは何となく中にいる人間の形や動きは分かるものの、大声を出さなければ会話を他者に聞かれる心配はなさそうだ。
仕切られた空間の入り口は外からの視線を軽く遮るためかレースがかけてある。
外から何となく見えるので密室ではないが、ほどほどに視線は遮れる。
アシュリー殿下が椅子を引いてくれたのでそこに腰掛ける。
殿下はわたしの向かいの席に座った。
それほど大きくはない丸テーブルに丸みのある椅子、テーブルの上にメニュー表が置かれている。
「スカーレットは甘いものはお好き?」
「それなりには食べられるが、クリーム系は少し胸焼けがする」
「そう。コーヒーは飲めるかしら?」
「ああ、実は紅茶より好きだ」
甘すぎるお菓子より、ほどよく苦味のあるコーヒーのほうが好きだ。
紅茶も美味しいけれど、お茶会では令嬢達がジャムや砂糖をよく入れて飲んでいて、甘いお菓子に甘い香りが少ししつこい感じがする。
令嬢達からコーヒーはあまり好まれないが、レンテリア王国の近衛騎士達はコーヒーを好んで飲んでいたし、わたしも香ばしくて苦味とほのかな酸味のあるコーヒーが口に合った。
「コーヒー好きにお勧めのデザートがあるわ。でも、その前に少し早めの昼食にしましょうか。ここのパングラタンも、とっても美味しくてスカーレットに食べてほしかったの」
「そうか。アッシュが美味しいと言うなら、相当料理人の腕がいいんだろうな」
店員が来たので、アシュリー殿下が二人分のパングラタンとアイスコーヒー、それから何かを注文する。店員は頷くとすぐに下がっていった。
「アイスコーヒー?」
「ええ、ここは冷たいコーヒーが飲めるのよ」
アシュリー殿下がテーブルに頬杖をつき、わたしの顔を見る。
「それにしてもスカーレットのその口調、いつもと違ってドキドキしちゃうわね」
「アッシュは言葉遣いを変えないんだな?」
「だってアタシはこれが普通だもの。それに男口調にしたら、個性がないじゃない」
「そういう問題か?」
話していると「失礼します」と声がして、店員が入って来る。
大きめのグラスにコーヒーだろう黒い液体が入っているけれど、中に氷が入れてあり、グラスもうっすら汗ばんでいる。その後に長いストローと小さなミルクポット、砂糖も置かれる。
「ごゆっくりどうぞ〜」と言って店員は下がって行った。
まず、ストローを差して一口飲んでみる。
普段飲む温かなコーヒーよりも苦味と酸味がハッキリしていて、香ばしく、飲み込むと冷たい感覚が心地好い。これはミルクを入れたほうが飲みやすくなるだろう。
「アッシュ、これと──……」
顔を上げるとアシュリー殿下はグラスに口を付けていた。
毒見もなしに飲んでいることに驚いて固まったわたしに、アシュリー殿下が「大丈夫よ」と微笑んだ。
とりあえず、ミルクポットから少しばかりコーヒーにミルクを注ぎ、混ぜて飲む。
コーヒーが苦いから、ミルクの甘みをより強く感じる。ミルクが苦味を和らげて飲みやすい。
……訓練後にミルクなしで一気に飲みたくなる味だ。
冷たいコーヒーと聞いて驚いたが、これは非常に美味しかった。
「どう? 美味しいでしょう?」
「ああ、クセになりそうだ」
「アタシ、コーヒーはあまり好きじゃなかったのだけど、ここのアイスコーヒーを飲んでからは好きになったわ。ここは豆を厳選して、独自に混ぜ合わせて、専門家が淹れてくれるからとても美味しいの。豆も買えるわ。ただ、自分で挽いて淹れても店の味には敵わないのよ」
わたしも公爵家にコーヒー豆を置いていたけれど、扱いが難しかった。
挽いてからすぐに使わないと、あっという間に香りが飛んでしまうし、慣れない者が淹れると味が落ちてしまう。きちんと学んだ者が淹れると香り高くて美味しいのだが。
「兄上と父上もここのコーヒーが好きなの。今日も、豆を買って来るよう頼まれちゃったわ」
「確かに、アイスコーヒーがこんなに美味しいなら、温かなコーヒーもきっと美味しいのだろう」
「今は時期的に暑いから、涼しくなってまた来た時に飲んでみるといいわ」
「ああ、そうしよう」
二人でアイスコーヒーを飲み、穏やかな時間が流れていく。
うるさくはないが、ほどよく聞こえる人の声や物音が不思議と落ち着く。
会話が途切れても居心地が悪くない。
「失礼しま〜す。パングラタン二人分、お持ちしました〜」
と店員が来て、わたしとアシュリー殿下の前にそれぞれ、グラタン皿を置いた。
熱いから器に触らないようにと注意をして、カトラリーの入った容器を置くと店員はすぐに去って行った。
パングラタンという言葉から分かるように、グラタンにパンが使われているらしい。しかし、パンだけでなく、野菜やベーコンも入っているようで、意外にも色鮮やかで綺麗だ。
お互い、カトラリーを手に取った。
……熱そうだ。
しかし、とてもいい匂いがする。
スプーンで一口掬い、息を吹きかけて冷まし、そっと食べる。
まだ少し熱かったけれど、まろかやなチーズとホワイトソースに塩気のあるベーコンがよく合う。そのベーコンも柔らかくて、噛むと中から旨みのある肉汁が出てきて美味しい。ホワイトソースも美味しいけれど、溶けたチーズがまた美味しい。味の深みからしていくつかの種類のチーズを合わせているのだと思うが……。
つい味わって食べていると、向かいに座るアシュリー殿下と目が合った。
濃い水色の瞳が優しく細められた。
『美味しいでしょう?』と問われた気がして、わたしも微笑んだ。
口の中のものを飲み込んでから話す。
「このグラタンは今まで食べてきた中で一、二を争う美味しさだ。誘ってくれてありがとう。こんなに美味しいものが近くにあるのに、気付かないまま過ごすところだった」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。アタシ、グラタンの中ではここのが一番好きよ」
「その気持ちはよく分かる」
火が通って柔らかく甘みの増した小さなトマトも、柔らかくてホクホクとした芋も、入っている野菜類はどれも美味しいし、パンも香ばしくてグラタンのホワイトソースとよく合う。やや大きめの深皿だが、この味なら女性でも完食出来るだろう。
頷き合った後、わたし達は黙々とグラタンを食べ進めた。
この温かな料理は冷める前に食べたほうがいいと直感が告げている。
きっと、冷めても美味しいのだろうけれど、温かいうちのほうがもっと美味しい。
先に食べ終えたアシュリー殿下がアイスコーヒーを飲みながら、ニコニコしている。
「好きな人と美味しいものを食べるっていいわね」
どうやら、わたしの返事は期待していないらしい。
代わりにわたしが食べている姿を楽しそうに眺めている。
「スカーレットは苦手な食べ物はあるのかしら?」
「食べられない物は特にない」
「あら、すごい。アタシは辛い料理が苦手なの。口の中が痛いし、ずっとそれが残るし……でも、香辛料をよく使った料理のほうが貴族では好まれるじゃない? 兄上も父上も香辛料の効いた料理が好きだから、実はアタシの分だけ控えめにしてもらっているのよね」
それを聞いて思い出し笑いをしてしまった。
「わたしも子供の頃は香辛料が苦手だった」
「どうやって克服したの?」
「『辛み』というのは『痛み』だと聞いたことがある。……公爵家の騎士から剣を教えてもらい、訓練に参加するようになってからは平気になったな。筋肉をつけるためにも、成長のためにも、食事は疎かにするなと言われて、食欲がない時でも無理に食べた。まあ、好き嫌いが許されない立場でもあったしな」
わたしの好みなんて反映されない。
王太子が好きなものが出て、嫌いなものは出ない。
わたしと王太子は食の好みが全く違っていたらしく、お茶会や食事を共にしても、いつもあまり口に合わないと感じていた。美味しいのだろうけれど、わたしの好みではなかったのだ。
「スカーレット、ここでは好き嫌いをしてもいいわ。あなたの好きなものも、嫌いなものもアタシは知りたい。いえ、あなたのことならどんなに些細なことでも聞きたいの」
「……わたしの話はつまらないと思う」
「そんなことはないわ。あなたと再会してから今まで『つまらない』と思ったことなんて一度もないし、新しい発見をする度に、もっとあなたのことが知りたくなるわ」
……知りたくなる、か。
わたしも、アシュリー殿下のことは知りたいと思う。
主君だから知っておきたいという気持ちもあるが、それよりも、純粋な興味があった。
「わたしもアッシュのことが知りたい」
アシュリー殿下が頷いた。
「じゃあ、今日はお互いを知るために沢山話しましょう」
自分のことを知ってもらい、相手のことも教えてもらう。それはとても大切だ。
……アシュリー殿下ともっと話したい。
今は、純粋にそう思っている。