7.孤立 ①
その男性にストーカーのようにつきとまとわれるようになったのは、半年前ぐらいからだった。
彼は私よりひとつ年上の、子供の頃の知り合いだったのだが、数年前に勤め先のあった市内で再会するまでほぼ記憶になかった。
顔だけでなくて、名前すらもすっかり忘れていたのだ。
だから、彼から「僕だよ僕」と言われてもまったくピンと来なかった。
それがもしかしたら彼の気にさわってしまったかもしれないのだけれど······。
かつては幼い頃に遊んだその仲間の一人(モブに近い)だったとしても、大人になるまで片時も忘れない相手なんて稀だと思う。
自分が好感を持っていたとか、 余程印象に残るような別れをしたか、何か大切な約束をしたとか、当時から今に至るまで常に近くで関わるとかしている相手でもない限り、ずっと覚えていることは難しいものだ。
それに私は、子どもの頃からその人が好きではなかった。
妙に馴れ馴れしくて距離感がおかしい人だったからだ。
一緒にいて楽しいというわけでもなく、彼への苦手意識から、どちらかと言えば避けていたと思う。
子供の頃の彼についてなんとか思い出せたのは、そこだけった。
再会した時、手紙がどうとか言っていたけれど、私は彼から手紙をもらったことは一度もない。
引っ越してしまったから届かなかった可能性もあるけれど、返事をくれなかったのは酷いよとか責められても困ってしまう。
本当に手紙など届いていなかったのだから。
仮に私が相手に勘違いさせる言動を悪気なく取っていたとしても、それは子供の頃の一時期のことなので、大人になった今もその時のままの関係性や感覚がそのまま通じると盲信されるのは迷惑だ。
彼は明らかに、私のことは自分のもの、自分の恋人のように思っていて、私も彼に対してそうあるように要求されている、いや、そうでなければおかしいという思い込みが強すぎるようだった。
仮に子供の頃は多少好意があったとしても、大人の今、現在の対応の仕方で嫌いになるとか、この人にはもうついていけない、この人とは付き合い切れないという感覚になることはあるものだ。
こちらの都合を一切度外視する一方的なあり方、何度断っても通じない、嫌がっているのにまるで伝わらない、話の通じない怖さは尋常ではない。
長かった髪を切ったら、何で切ったんだと怒って責めて来たり、彼の好みではない色の服を身に付けるとダメ出ししてくるという
私の彼氏でもない癖に、なんなのだろう?!
気持ち悪すぎる。
この人はどうかしている、頭がおかしいとしか思えないのだ。
職場の近くで待ち構えていて
「迎えに来たよ」
とか言われても、それは怖すぎるだけだった。
「乗って」
「嫌です」
「いいから、乗って」
「一人で帰れますから!」
即答で断っても、懲りずに何度も来る。
「ええ~? 情熱的でいいじゃないのぉ!」
と羨ましがる女性もいるけれど、自分も彼のことが好きとか、両思いの相手ならばそんなこともあるかもしれないけれど、
付き合ってもいない相手、想いすら寄せていない相手に、まるで当然のようにそれをされる側の立場は全く想像できないのだろう。
私にこれをしたら嬉しいと思う筈だとか、こうすればすぐに落ちる筈、自分にメロメロになるだろうとか思われていたとしたら心外だし、見当外れも甚だしい。
この人は、私のことなど全く見ていないし、私の気持ちを理解しようとすらしていないのだ。
どうやっても埋めようのない、どこまでも不毛さしかない。
私は知らなかったけれど、彼は以前の職場にも来ていたらしい。
今の会社に転職してから、会社の門の前、駅前、バス停などで待ち伏せされるようになったのがここ数ヶ月。
彼の職場は他県(隣接県)にあるため、毎日来れないにしろ、多い時には週二から週三で来ていたこともあった。
彼が定時で終わって来ていたとしても、そこから私の勤め先に来るまでは高速道路を使ったとしても1時間以上かかる筈だ。
でも彼は、私が定時で帰る時には既に正門で待ち構えているのだ。
その間、彼は仕事はどうしていたのだろうか?
それを考えると、彼の行動の異常さに凍りついてしまう。
現在改築中の私の実家と、その期間の仮住まいの周辺でも彼の姿を見かけることがあるので、本当に勘弁してもらいたいとしか言いようがない。
一向に彼に靡かない私を振り向かせるために、社内の女性をダシにして婚約までいったらしいのがつい最近のこと。
婚約者ができれば、嫉妬を抱いた私が自分に靡く筈という計画だったらしい。
元々その気は全くない私なのだから、彼が誰と付き合おうが誰と結婚しようが、なんの問題もないというのに。
全く好きでもない相手に、どうやったら嫉妬などするのだろうか?
そこを全く無視している時点で、はじめからその計画は破綻している。
私は、むしろそれでしつこい彼から解放されるならば、どうぞどうぞ、サクサク結婚しちゃって下さいませ!
お願い、誰かこんな彼と結婚してあげて!って願ってしまうぐらいなのに。
彼の予想が外れて焦っているのが今らしいのを、なぜか私の同僚が教えてくれた。
その同僚こそが、私の味方をしているふりをして、彼に私の個人情報を垂れ流しにしている張本人だった。
また、職場の四十になるお局様的存在が、どうしてそうなったのかは知らないけれどストーカーの彼の肩を持ち、私の悪評を社内に流している。
彼を焚き付けて、私の気を引くにはダシを使ってみなさいと唆したことが判明したばかり。
どういう思考回路をしているのか、全く理解不能。
第一、ダシにされた人の気持ちや立場はどうなるのだろうか?
そこが恐ろしく抜けていて大丈夫なのだろうか?
もう、嫌な予感しかしない。
社内外の友人にストーカーされていて本当に困っているという相談をすると、それはノロケではとか、モテる自慢をしたいのかと悪く取られてしまい、こちらの真剣さが全く届きもしないという現実に驚かされた。
しかも今度は、実は私もストーカーされているのよと言う、謎のマウント行動、嘘をついてまでストーカー被害のでっち上げまでして張り合おうとしてくる始末。
当分女性不信に陥りそう。
その点、女性よりも案外男性の方が優しく親切なものなのだと身に染みた。
つきまとわれているのを知った親切な男性の先輩や同僚が私を助けようとしてくれたり、帰る方向が同じだから送ってくれたりしていたことを知ると、女性社員達はそれが気に食わなかったらしく更に私を罵るようになった。
その同僚の男性にも迷惑になると困るので、もう私を助けてくれなくても大丈夫だからと言って、有難い申し出を断るしかなくなってしまった。
容子はここのところ、友人だと思っていた相手に手の平返しを食らうような目に遭い、味方のふりをした敵にしてやられるという苦い経験をしている真っ最中なのだった。
なぜか社内では、婚約者のいる彼を容子が婚約者から奪おうと誘惑している悪女という噂が流れていた。
特に女性社員からは総スカン、冷たい視線とつっけんどんな態度に出られたり、あからさまに無視されるなど、業務に支障が出そうな嫌がらせを受けるようになってしまっていた。
「女ってほんと怖いよなあ、頑張れよ」
「女同士は、なかなか大変だね」
そう言ってこっそり慰めてくれる男性社員はチラホラいた。
女性から敵という烙印を一斉に押されてしまうと、もうどうにもならない。
正論が全く通用せず、こちらの主張には耳を貸さない人には、何を言っても届くことはないからだ。
女性陣から孤立無援の状態では、もうこれ以上はこの会社にいることは難しいと判断し、容子は辞表を出した。
ここにいる限りあのストーカーからも追いかけられてしまうので、早く逃げたかった。
一度目は上司に引き留められたが、二度目にはようやく受理された。