26.思い違い ③
仮住まい中のアパートの自宅に到着すると、容子がドアを開けて修司を玄関に通した。
「ただいま。お母さんちょっと来てくれる」
なあにと少し億劫そうな返事とともに母が出てきた。
父はこの日は出張で、まだ帰宅していなかった。
「はじめまして、八神と申します。玄関先で大変申しわけございませんが、容子さんを私にいただけませんでしょうか」
深々と修司は頭を下げた。
修司のお辞儀の姿勢は美しく、動作は小気味良かった。
「夜分につき、また日を改めましてお願いに上がります。本日はこれで失礼させていただきます」
なんの前触れも無く連れて来たために、面食らった母は何も言えなかった。
それを見た容子は、少し笑ってしまった。
愛弓はもう嫁いで子どももいるんだから、あなたも早く結婚なさいと普段は急かすくせに、実際にこんなシチュエーションに遭遇する心の準備は母ですら全くできていないのだ。
父が帰宅してこの事を聞いたら、さぞ驚くことだろう。
以前、この家の最寄りの駅で私がストーカーに出食わしていたのを父がたまたま見かけたらしかった。
「容子、あれは彼氏なのか、ずいぶん親しげだな」
「ぐっ···」
夕食中にそう言われて食べ物を喉に詰まらせそうになった。
(親しげですって? あれはあの人が距離感がおかしいだけよ)
「あの人は、絶対に彼氏じゃないから!」
「そうなのか?」
父は残念そうだった。
父よ、あれはストーカーだとは、その時は言えなかった。
そのうち諦めて来なくなるだろうと楽観視していたのと、単身赴任で家を空けている父に心配をかけたくなかったからだ。
もっと早く相談できていたら、早期に解決できたのだろうか?
でも、ここまで長引いてしまったからこそ、修司と知り合えたわけなのだけれど。
今度修司を紹介する時に、やっとこれまでのストーカーの件を両親に告白できそうだ。
もし父が良い顔をしなければ、ストーカーの件を盾にすれば、結婚と仙台行きをよりスムーズに了承させることができそうな気がする。
そして彼には、我が家に対して、かつてのみつわ荘の客という最強の武器があるのだから。
修司を見送るために荷物だけ置いて、容子はすぐに階下に降りた。
「ご両親には改めて挨拶しに来るよ。今日は突然で驚かせてしまってごめん」
「いいえ、ありがとうございました。父の都合を聞いたら教えますね」
「転勤じゃなければ本当はもっと時間をかけて丁寧にやりたかったんだけど、色々急かしてすまない」
「それは仕方ないです。もし両親に許してもらえなくても、私はちゃんと仙台に行きますから」
「わかった」
修司は満足げな笑みを見せた。
明日は修司の姉に会いにゆく。
「じゃあまた明日迎えに来る。例のカードを絶対に持って来てくれ」
「はい。おやすみなさい」
「容子、おやすみ」
名前を呼び捨てにされ照れる容子の髪に修司はキスを落とした。
出会って間もない頃の偽装夫婦の演技ではない本物のキスに容子は照れに照れた。
世間一般では、プロポーズされたその場で、「呪いのカード」なんて不吉なワードを出す女性もそうそういないだろうなと容子は思った。
いくら容子がストーカーに悩まされていたからと言っても、それを言われる修司が少し気の毒になった。
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プロポーズへの返事よりも先に、容子から呪いのカードのことを聞くと、修司は車のハンドルに身を突っ伏した。
更にカードがいつから届いていたのかを聞かされると、深い嘆息の後、何が『すこぶる平和です』だよと、以前容子が送ったメールに対して修司は文句をつけた。
呆れすぎて怒る気も起きないよ、なんでこんなことを内緒にできるんだと嘆いた。
「君は怖くはないのか?」
「それほど怖くはないですね」
「は?!」
「プリントアウトした文字ではなくて、肉筆だったらもっと怖いかもしれませんね。毛筆とかなら念とかが凄そうですから」
そう平然と答える容子に「無駄に勇ましいな」と修司は呟いた。
不幸の手紙を中学時代にもらったことがあり、それにも容子が動じなかったと知ると「年季がちがうな」と唸った。
「それで、後から行きますと言うのは、俺と結婚してくれるということでいいのかな?」
「······私で良いのでしたら、かなりのふつつか者ですがどうぞよろしくお願いします」
容子は頭を下げた。
「本当に?」
修司の顔が途端に明るくなる。
「はい。でも、まさか自分がこんなスピード婚をするなんて信じられないのですが···」
(知り合ってから1ヶ月も経っていないのに結婚を決めるなんて······)
「俺はじめから狙ってたから、本望だけどね」
「は、はじめから?!」
修司は驚く容子の唇を優しく奪った。




