1.みつわ荘 ①
容子が幼い頃に暮らしていた家は、とある温泉郷で「みつわ荘」という名のこじんまりとした保養所だった。曾祖母と祖父を亡くした祖母が営んでいた。
既に曾祖母は他界し、母が手伝っていた。
みつわ荘の由来は、曾祖母が趣味で習っていた長唄の師匠が好んでする「みつわ髷」という髪型から取ったものだと祖母から聞かされていた。
大正時代まで見られたみつわ髷は妾がする髪型でもあったが、容子の曾祖母も祖母も、そして母も容子も誰かの妾であったことは一度たりともない。
実家の倉庫には、亡き曾祖母の愛用していた三味線が、壊れたまま修繕されずにそのまま今でも残っている。
祖母も母も長年捨てる機会を逸して来たその三味線は、いつか手に取り愛でてくれる誰かを待っているのかもしれない。
容子は二人姉妹の長女で、殊の外このみつわ荘という家を好んでいた。
客人のいない時には、大部屋や客間に連なる庭でよく遊んだものだった。
母屋と客間のある別館を行き来する時は、なぜかときめくような感覚があった。
別館は自分の家ではあるのだけれど、子供の自分がいつもそこを通るとか使うのを許されているわけではなかったから、客人のいない日にだけ許される特別な時間がいつも待ち遠しくて仕方がなかった。
母屋は自分と家族の居住スペース、そして客人に提供するための料理と配膳をするための広い台所で占められていた。
祖母と母、繁忙期にだけ駆り出される手伝いの者がその台所で忙しくしている姿を興味深く眺めているのが好きだった。
砂抜き中のシジミの貝からはみ出たところを面白がって指でつついたり、黒いナマコにギョっとして引いたりしていた。
坂道の多い土地柄、半地下になっているガラス張りの台所の窓からは、温泉客の行き交う足元がよく見えて、楽しげに歩く下駄の音が心地よく響いていた。
勝手口に御用聞きの人がやって来て、その日の注文をする祖母の姿を今でも憶えている。
企業や大学所有の保養所や旅館が建ち並ぶなか、みつわ荘の向かいの旅館では正月になると朝から餅をついていた。容子はその餅つき作業の音で新年は目を覚ましていた。
そのつきたてを毎年分けて貰うのが恒例なのだった。
家族と親戚とで別館の玄関前に集まり、それぞれが晴れ着に身を包み記念写真を撮るのが正月の定番となっていた。
それが幼い頃の容子の変わらぬ日常で、そんな日々がずっと永遠に続くものだと信じて疑っていなかった。