第一話 彼女はアイドルを諦めない
「あなた、大丈夫?」
その言葉を聞いた男は飛び起きた。なぜなら、それは朝陽ヒナタの声だったからだ。聞き間違えようもない、響き渡りながらも優しく耳を包み込むとろけるような極上の声。それを聞けば歌姫だって裸足で逃げ出すような美声。そんな声を持つ人間がこの世に二人といるはずがない!
「ヒナタちゃん!?」
「えっ……うん、そうだよ。こんなところで会うなんてびっくりちゃった。たしか、ルイくんだったっけ?」
「お、俺の名前……! 覚えててくれたの!?」
「うん! 私、一回しか握手会しなかったから、来てくれた子はみんな覚えてるよ」
朝陽ヒナタはレースを編んだような木漏れ日を浴びながら、柔らかに微笑んだ。彼――ルイは、大慌てで起き上がり、その場に正座する。
「あ、その、君が死んでから、その、ずっと生きてる気がしなくて」
「うんうん、落ち着いて。私はここにいるから」
「だ、だから俺、今日、もう死のうと思って……!」
「はぁ?」
ルイは、その声を聞いた瞬間硬直した。
「何? そんな理由で死のうとしたの? バカじゃないの」
「ひ……ヒナタちゃん……?」
「またハズレ!! こんな世界でこんな腑抜けが生きていけるわけないじゃない!! どうなってるの!?」
間違いようもない。朝陽ヒナタの口からは、彼女が到底言うはずもないような言葉が滑らかに発されていた。
「ヒナタちゃん、えっと」
「馴れ馴れしい。あたし今アイドルじゃないの。知り合いでもないのにちゃん付けでタメ口ってどうなの?」
「えっ……その、すいません……」
「ファンだってわかったからアイドル用の対応してあげただけ。そこのところ弁えて」
「あっ……はい、わかりました……」
その返答を聞いた彼女は深く息を吸い、それを吐き出した。
「……ま、いいわ。わかれば」
「それでその、ヒナタちゃ……ヒナタさんは、亡くなった……と思っていたんですが」
きっちりと敬語で話し直したルイに、ヒナタは少し驚いた顔をする。そのまま流れるように悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女は、妙な上機嫌で口を開いた。
「あなたがそうするなら、私もそれなりの対応をしてあげる」
「あ、はい……ありがとうございます」
「ここは……平たく言うと異世界、かな。まるでRPGゲームみたい。戦士、僧侶、勇者。魔法に魔物に冒険ギルド。なんでもありで、嫌になるくらい現代日本の常識が通じない」
目を逸らし、少し伏せる。長いまつ毛が瞳を翳らせるものだから、焦がし尽くすような夏の太陽が傾いて世界を淡い赤紫に変えるマジックアワーを思い出した。ルイは目の前でリアルタイムに動くヒナタを食い入るように見つめたままである。
「私は、照明に潰された後、ずっとここで暮らしてた」
翳りのない笑み。愛らしさの象徴。ルイにとっての最上のアイドルである彼女は、ファンサービスとばかりに唇を動かしていた。
「ここに来てから最初にするべきことは、冒険者ギルドに行って身元の証明をしてもらうこと。冒険者ギルドなんて名前だけれど、やってることは日本のお役所とあまり変わらないかな。この世界に居るだけで戸籍をくれる場所だと思っていい。そもそも戸籍がないと、まともに給料も貰えないし住むところだって手に入らないから。
それからギルドに登録すれば、前の世界で手に入れた能力を数値化したものを照会出来るから、自分が手にするべき職業がわかる。そのまま教会に行って、神の祝福を受けつつ職業を決めるの。そうすれば、とりあえずこの世界で生きるための最低限の手続きはおしまい。
……お分かり?」
「は、はい、ありがとう、ございます……」
ルイはヒナタの言葉を正座したまま最後まで聞き入れ、そのままじっと彼女を見つめた。
「何か質問があるなら聞いてあげるけど?」
勝気な笑みを浮かべ、得意げにそう言った。ルイは、その彼女を見つめたまま、発言の許可を得るかの如く手を挙げる。
「えっと、その……スキルとか、そう言うものって……あったり?」
「スキル? 男ってみんなその言葉好きなの?」
「え?」
「みんな、ちーとすきる? がどうだとか、毎回言うのよね」
誰だよヒナタちゃんをこんなに困らせたの。許されねえな。と脊髄反射で考えたルイなど気にも止めず、ヒナタは腕を組んでからゆっくりと考え始めた。
「よくわからないけど……スキルって、上昇補正みたいなものなんでしょう? それなら、あるとしか思えない人は居るかな……
筋力のステータスで物理攻撃の力が決まってるように見えるけど、たまに、桁外れの攻撃力を出してる人が居る」
あんなのに殴られたら、照明の下敷きよりもズタボロになるでしょうね。いまいち反応しにくい言葉を告げたヒナタに、ルイはヒナタちゃんのジョークが聞けたのに思いっきり笑うことすらできないな、と思いながら、しきりにヒナタの周囲を見ていた。
「あー……じゃあ多分、俺が見えてるこれ、隠しステータスなんですね」
そう言ったルイの目は。ボウ、と暗がりの中、淡く光を放って見えた。
ヒナタは、その目をまっすぐ見つめ返す。
「……見えてるの? 私の能力」
「ばっちり」
ズラリと並んだステータスは、ざっと見えるだけで約10個。円グラフが基礎能力だとすると、その他はきっとスキルだろう、とアタリをつけたルイの予想は的中していたようだ。ヒナタは、そのまま口を開く。
「周りに聞こえないように、小さな声で答えてちょうだい」
「は、はい」
「私のレベルは?」
「16です。あと経験値が200くらいでレベルアップですね」
「経験値? それはわからないけど……
じゃあ熟練度、体力、魔力、筋力、敏捷は?」
「多分、円グラフのこれかな? 熟練度120/300 体力150/200 魔力5/15 筋力26/35 敏捷200/260……こんなに値が違うのに、結構揃った形ですね」
「……おかしい」
彼女は、ぽそりと呟いて、ルイの肩に手を置いた。
「えっ!?!? アサヒちゃん!? 待ってオタクに刺激が強いから!!!!」
「いいから黙って」
白目と黒目の境がハッキリしていて、虹彩が花火のように煌めいていた。すごい、4KPVでも見れなかったのに、ヒナタちゃんって目までこんなに可愛いんだ。そんなことを考えながら黙り込むルイに、ヒナタは、高揚を抑えきれない様子で笑いかけた。どこにでもいる普通の、完璧じゃない、完全な笑顔。
「気に入った」
「……え?」
「あなたなら、きっとできる」
「な、なにを?」
「私の専属マネージャーになって」
今、いったい何を? ルイが話に追いつけない中、ヒナタは言った。
「これから、その目は私のために使うの。私を見て、私を映して、私を伸ばすためだけに」
「、え」
ルイは、そのまま硬直することしかできなかった。