プロローグ:彼女は伝説になり損なった
彼女はトップアイドルだった。紛れもなく、全人類を明るく照らす存在だった。
アイドルはグループを組んで活動するのが一般的で、巷では『会いに行けるアイドル』なんて概念が主流なものだから、握手会のチケットとCDの同梱販売が当然のように行われているのに、彼女はそんなことは一切しなかった。
「アイドルって、一等星みたいに語られがちじゃないですか。けど、『星』なんて、太陽の前では見えないですよね。私がなりたいのは『太陽』なんですよ。絶対に手が届かない、手を伸ばせば燃え尽きてしまう。けど、なくてはならないもの。私の存在で、ファンを焦がし尽くしたり、温かくする。それが私の夢です」
それが、武道館コンサート発表時の彼女の言葉。眩しすぎて直視できないような、綺羅星なんて言葉じゃ足りない彼女の、まさに集大成。会場をいっぱいにして、煌めくサイリウムの中。彼女は照明に潰されて、この世を去った。
「……また、生き延びてしまった」
男は光の入らない部屋の中で起き上がり、自らが生きていることに絶望した。とは言え彼が引き籠りであるだとか、虐められているだとかと言う事実は一切ない。あくまで彼は淡々と日々を消費していて、平日の朝である今日は仕事に向かう支度を整えているのみだ。ルーティンの一環として部屋の電気をつければ、アイドルのグッズで埋め尽くされた1Kの全容が浮かび上がる。
彼は部屋に日光を入れない。紫外線は、グッズを傷めるからだ。伝説的なアイドル、朝陽ヒナタは、本当に伝説上の人物になってしまった。
「……もう、一年か」
世間はなんとも無慈悲であり、それが人間の強みでもある。彼女の死から一ヶ月程度は盛んに行われていた追悼番組で「一生最推しです」と涙ながらに語った彼のオタ友は、すでに新しい最推しを見つけてヒナタのグッズを売却した。
その新しい推しは朝陽ヒナタの劣化版としか言いようのない、同じ事務所から出された新人アイドル。「ヒナタ先輩は永遠の憧れです!」がトゥイッターのトレンド入りを果たし、見事ポスト朝陽ヒナタを手に入れた。名前は覚えていない。
兎にも角にも一年の時を経た世間は、彼女の死後、彼女を昔の伝説として取り上げるほどではなく、彼女の死を悲しむほどでもないものとして朝陽ヒナタを消化し切った。
「……ちょうど、いいか」
彼女を潰した照明は、誤ったネジで固定されていたらしい。そんなささやかなミスで、朝陽ヒナタは失われた。とにかく彼は、この一年、世間の風潮から逆行し続け毎日毎日来る日も来る日も朝陽ヒナタの存在を追い続け――今、その緊張の糸がぷつりと切れたのだ。
「今日、死のう」
そう決めた彼はいつもより丁寧に身支度を始めた。会社に急用ができたと連絡し、間の悪いことにちょうど昨日で全ての手持ち作業を終わらせていた彼はなんともスムーズに遺書を書き上げ、スーツの内ポケットにそれをしまう。
いつもの通勤で使うよれたスーツではない、クリーニングにかけたばかりの上等なそれは、遺書をしっかりと飲み込んだ。
どうせ死ぬなら彼女と同じように死にたい物だが、生憎とそんなドラマティックな死因を享受できるような立場にはない。誰かの迷惑にならない、すぐに死体が見つかる場所で、できれば苦痛なく死にたい。そんなことを考えながら街を彷徨った彼の目に、ふと、子供が道路に飛び出す瞬間が映った。直後体はすでに動いていた。
「しまった、運転手を犯罪者にしてしまった」
それが彼の最期の言葉だった。