第1話 悪意の果実 その7
二人は静かに扉を開き車から降りて辺りを見回した。車は似たような建物の内の一つの前にあった。いかにも高級住宅、と言わんばかりの、テラス付きの一等地の建物だ。とはいえ、富裕層向けの間にもランク分けがあるのか、それが隣に並んだ家のコピー品でしか無いというのが、その希少性を下げているようにも見える。入口には『山岡』という二文字が刻まれた石製の板が壁に取り付けられている。
庭の植え込みに植えられたパンジーが、うつむき加減で風に揺れている。水やりも行き届いているからか、植物はどれも元気に育っている様子だった。対して、元気がないのはどんよりとした曇り空の方だ。くすんだ灰色が空全体を憂鬱に覆い隠している。
「こういうお庭のある家に、いつか住みたいんですよね」
「住めばいいじゃん?」
「できるならとっくにしてますよ。……まったく、この国も格差がひどいことになりましたね」
格差ねえ、と黒川は自分の部屋を頭の中で想像する。それは、かつて自分が暮らしていた実家の狭いアパートの一室であり、現在の烏三課の宿舎であった。プライベートでは徹底したミニマリストである彼にとって、なぜ力のある者がこうして大きな屋敷を持つのかは理解が出来なかった。
「どっちがインターホン押しますか?」
「俺がやる」
黒川はそういいながら、扉の前に据えられた小さなボタンを右手で押した。
数秒もしないうちに玄関に現れたのは、40代後半くらいの女性だった。かつての美貌を感じさせる整った顔立ちには、化粧でも誤魔化すことの出来ない、老いの始まりが感じられる。丸眼鏡越しにこちらをじっと見つめて来た彼女に、黒川の方が口を開いて答え始める。
「トンキン警察の黒川刑事です。こちらは部下の仁藤です」
「ああ、大杉さんからお話は聞いています。どうぞ中へ」
玄関から真っすぐに伸びた廊下を進むと、広々とした応接間のような部屋がある。部屋の隅に据え付けられた階段から二階へ上ることができるようで、吹き抜けの天井はガラス張りだった。晴れていれば、気持ちの良い太陽の光が差し込むのだろう、と思いながら、値打ち物のシャンデリア状のライトの下にある黒いソファーに、二人は腰掛けた。
「こんなものしかありませんが」と言いながら、山岡は紅茶の注がれたティーポットを机の上に並べる。「それで、お話というのは……」
「別に大したことではありません。あの事件に関連することで、いくつかお話を伺いたいのです」
「ははぁ…」
仁藤が静かに紅茶に口をつけ、バックの中から資料を取り出す。それは、先ほど大杉から連絡を受けた際に届いた、異臭騒ぎに関連する一連の記録だった。黒川がその資料を読みながら、山岡に質問を繰り返す。
「以前、山岡さんの方から、異臭がするとの通報を受けたのですが、それについてお話を聞きたくて」
「ああ、あれですか」山岡は嫌な記憶を思い出すときのような口ぶりで言った。
「ひどい臭いでしたよ。まるで肉が腐敗したみたいな、そういう感じです」
「何度もあったのですか?」
「ええ、3回ほどでしょうか」
「どのあたりから?」
「すぐそこですよ。うちの裏手の建物です」
山岡は部屋の窓を開き、カーテンが閉められたままの家屋を指さした。大人の背丈の1.5倍ほどの垣根の向こう側にある、他の建物と何一つ変わらないように見えるその建物を、仁藤と黒川もじっと観察する。昼だと言うのにカーテンが閉められたままで、人の気配らしいものはあまり感じられない。
「いたって普通の建物に見えますけどね」仁藤が妥当な感想を口にする。「今の住人はどなたなんですか?」
「それが、なんだか変な話でしてね。……住人どころか、家自体がちっとも見つからないんですよ」
山岡は机の上に自分の地区の地図を引っ張り出すと、ペンを手に持ってしるしをつけ始める。確かに、地図上では道路に面した山岡家のすぐ真裏の位置に、例の異臭がするという建物が存在するように書かれている。建物自体は、反対側を走る道路から少し私道を進んだ場所に立っているようで、四方を別の住居に囲まれているような立地であった。
「ここが私の家で…そこが、例の家です。地図を見ればわかるでしょうけど、ここに小さな私道があって、確かにこの家に行けるはずなんです。でも、あたしが何度自分で調べようとしても、この家が見当たらないんですよ」
これが普通の警察ならば話を聞くはずがない、と仁藤と工藤は視線を合わせて互いに感じたことを共有する。そして黒川の方が、話の本筋へと切り込んでいく。
「見当たらない、というのは、たどり着けない、ということですか」
「そうです。ここに確かに道があって、ここに家があるはずなのに、あたしが行こうとするとそんなものは無いんですよ…」
「警察の方にはその話をしたことは?」
「初めの内はしていましたよ。ただ、何度調べてもあの家にたどり着けないもんですから、あたしがボケたんじゃないかって思われる始末で。あんなにひどい臭いがするのに、あたしにしか分からないっていうんだから、本当に恐ろしくて……」
山岡の声には、確かに自信の感覚に対する恐怖の念が宿っている。仁藤は静かに彼女の手を握ると、声をかけて落ち着かせようとする。
「大丈夫です。貴重なお話、どうもありがとうございます。どうか、落ち着いてください。私たちの方で調査はしてみますから」
「そうは言いますけれど、今まで一度だって信じてはくれなかったじゃないですか!」
「警察の方でちゃんとした捜査をすることになったんです」黒川は言った。
「……本当ですか?」
「ええ、本当です」黒川は言った。「あなたが“感じているもの”…私にもわかります」
その言葉に、山岡が驚きの表情を浮かべる。
「…“今”も、しますか?」
「はい」黒川は言った。「ですから、ここからは我々に任せて……」
仁藤に視線で合図を送る。その隙に、仁藤は胸ポケットから小さな布のようなものを取り出すと、それをすぐさま山岡の鼻と口に当てる。とっさの出来事に抵抗しようとした山岡だったが、すぐに気を失い、ソファーの上にもたれるように倒れ込んだ。
「……ゆっくり休んでください」仁藤は静かにそうつぶやいた。
3日以内更新予定