第1話 悪意の果実 その3
「『オオジョロウ』……なんだそれは?」疑問の言葉を口にした葛城に、驚いたような視線を向けて洞門は答える。
「ご存じでない?これは困ったな。三課は過去の事件データを扱うのも仕事でしょうに」
「……俺は活字を読むのが苦手なんだ。洞門。そういう仕事は黒川に任せている」
「そういえば、そうでしたね」
無心でページをめくりながら書類を読み続ける黒川を気遣って、洞門がそのまま説明を続ける。エレベーターが地上4階にたどり着くと、一行はそのまま廊下をまっすぐ歩きだした。先ほどまでの収容房とは異なり、入れ違うようにして多くの職員がエレベーターの中へと入っていく。それぞれの廊下から伸びた部屋では、異常存在対策庁の職員が仕事に追われているのが見えた。
「『八狂』は過去に帝都に出現した異常存在の中で、特に再出現した際の被害が大きくなる可能性のある、強力な妖に対して与えられる別名です。読んで字のごとく、全部で八体がその対象として選出されます。そして、今回私たちが対処した663号の特徴が、これに非常に似通っていた」
「でも、俺には蜘蛛には見えなかったぞ。ジョロウって、要はジョロウグモのことだろ」
「それは生物の方です。妖のジョロウグモは別物です。美しい女の姿に化けて、人を食うとされる存在…最も、ジョロウグモと同様、蜘蛛のような妖怪であることには変わりありません」
「なら、合ってるだろう?」
「ですがそれは、一般的に知られているオオジョロウの話。我々が遭遇した方が本来のオオジョロウ……針のような突起物、捕食対象の肌で覆われた表面、女性の姿をした特徴的な部位…、『人を操る女型蝕魔』という黒川君の証言とも一致しています」
黒川は突然立ち止まり、葛城に書類を渡す。開かれたページには、確かに、葛城たちが昨日目撃した怪物と似たような姿を捉えた白黒写真が載せられている。
「これは万が一の可能性ですが…もしあの……怪物の中にいなかった方の少女が……このレベルの異常存在を使役できる可能性があるのだとすれば、潜在的な災害リスクは桁違いに跳ね上がるでしょうね」
「……笑いごとか?」
「おっと…これは失礼。つい、癖で」
葛城の鋭い視線に、洞門は思わず身をすくめる。
「…お前は以前、こいつに遭遇したことはあるのか?」
「最後の出現記録は…17年前、ですか…。生憎、当時は大陸支部に居ましたので、対処には当たっていません。報告書を確認した程度です」
「再出現の可能性がある、ということは、沈黙までは出来なかったのか?」
「ええ、おそらくは」洞門は言った。「当時は、黒川君のような情報系巫術の重要性があまり周知されていませんでしたから、これ以上詳しいことは分かりません。暫定的に封印を施したか、あるいは沈黙したように見えただけだったかのどちらかでしょう」
「記録は残っていないのか?」
「ご覧の通り」
洞門が次のページをめくるが、そこに書かれた「対応」の欄は空白のままだった。
「…ったく、こういう大事な情報に限ってどうして無いんだ」
「黒川君のような記録系の巫術の問題点は、人間依存の記録になることですからね。人間は短命の種族ゆえ、欠けてしまえばその人物の記録がごっそり抜け落ちてしまう。紙と情報媒体ベースの記録保管が義務付けられたのは、ここ数年の話ですし、やれやれ、どうも烏は新しいテクノロジーを覚えるのが苦手なようです」
呆れたような口調で両手を開き、首を軽くひねりながら、洞門は続けた。
「それに、何が重要かなんて、その時々で変わりますからね。『八狂』だって、我々が勝手にそう名付けているだけで、実際にはよくある妖怪の類の一つに過ぎませんから」
「あんたたち天狗からすればそうだろうが、人間様からすれば違うんだよ」
「短命の種族の宿痾、ですか。どうりで、戦争なぞというくだらない争いごとをいつまでも続けられるのですな」
洞門ののらりくらりとした口調の底には、人間に対する哀れみと同情が宿っていた。それを知っているからなのだろう。葛城は大きくため息をついて、三課の職員用執務室の中央に置かれた自分の机に腰かけた。
「では、書類はここにおいて、私は失礼しますよ」
そう言うと、洞門は足早に部屋を去っていく。
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