第1話 悪意の果実 その2
「……どう見ても、被害者っすね」
扉を出た黒川は、扉の正面の壁に寄り掛かりながら煙草を吸っていた葛城にそう告げた。燃えカスが床に音もたてずに落ちてから、掠れるような音を立てて沈黙する。皮靴の底の汚れは眼に見えないからか、綺麗好きを自負する葛城はそのことを気にすることもなく、口を開いた。
「あれが、例の事件とは関係ないと?」
「ええ」黒川は言った。「あれは被害者っす」
「だが、同じ奴が、あれを使役していた可能性がある、そう言って、見せたのはお前だ」
「そうっ…です」
「そうです、じゃないだろ」
葛城の声にいら立ちが混じる。
「……最後にあの女が去るとき、何と言ったか覚えているか?」
「「おやすみ、“ラジョア“」…でしたっけ」
「その名前に覚えはなかったか?」
黒川はその質問を自分があえてしなかったことを思い出しながら、先ほどまで触れていた自分の術器に触れなおし、確認した記憶を遡る。むろん、他人の頭の中をそのまま相手に説明することは殆ど不可能で、あいまいなことしか伝えることができない。
「『無かった』と言えば嘘を吐くことになります」
「だったら…」と、口を開きかけた葛城の前で、さらに黒川は言葉を続ける。
「ですが、本人は完全に忘れています」
「…忘れている?」
「少なくとも、『ラジョア』という名称…それから、彼女があの怪物の腹の中にいた間の記憶はまるっと抜けていた…」
「……どういう意味だ?」
黒川は術器から手を放してから、静かに口を開く。
「あの子は、『怪物』を……もしくは、あの怪物を使役していたもう一人の彼女もそうなのかもしれませんが……「双子」として認識しています。彼女の記憶を読み取ってみましたが、確かに双子と思しき少女はいた」
「なら、双子の妹だか姉だかを庇ってるっていう可能性は?」
「彼女自身は、双子よりも深い関係だと言っています」
「深い?」
言葉の意味を捉えかねた葛城に、黒川はさらに続けた。
「洞門さんの意識を一時乗っ取ったレベルの思考汚染を可能な異常存在によくあることですが、……対象との深層心理での絆を後天的に植え付けられる可能性があります。それに、もしも本当の双子なんだとすれば、もっと自然な記憶が出てくるはずだ」
「ということは、自然じゃあ無かったんだな」
「ええ」
黒川と葛城は、薄暗い廊下を、エレベーターが設置された端へと向かって進みながら、互いに言葉を交わしている。先ほど出てきた扉と同じように、自動で開く機械式の灰色の薄暗い扉が両側面に並び、さながら、どこかの刑務所のようにも見える。
「断片的で、具体的なエピソードに欠けていながら、欠如に対して明確な嫌悪感、あるいは不快感を抱く…このパターン、どこかで聞いたことがありませんか?」
「……ストックホルム症候群……」
「そうです。彼女はそれに近い状態にあった」
「でも、ラジョアという名前は憶えていないんだろう?」
「あれが、彼女自身の名前かどうかは分かりません。聞いてませんし」
「どうして聞かなかった?」
「聞く必要性が無かったから。そうでしょう? 異常存在の可能性がある対象への取り調べの基本だって教えてくれたのは、あなたですよ」
葛城は、黒川にたいして歯がゆさを覚えながら、エレベーターのスイッチを押す。数秒と立たないうちに扉が開き、無機質な白色の小さな空間が姿を見せた。行き先は地上4階。普段、職員たちが職務を行うための事務スペースが存在する。
「ただ……例えば、人格そのものに作用するタイプの異常存在であれば、本人が自覚できる記憶に影響しない形で、…影の人格を作り出すことは可能だ」
「それで、あの女の子の中に眠っていたと? だとすればなぜ喰ったんだ」
「さあ…それが、都合がよかったから、とか?」
「都合?」
「あの手の異常存在は、人間を中間宿主として利用するんです。そして、本人の精神から十分に負のエネルギーを蓄えたら、宿主を殺すか、あるいは蝕してしまう。今回のように」
エレベーターが途中で停止し、扉が開く。
黒川はそのことは気にも留めないまま言葉を続けた。
「あるいは、誰かが内なる怪物を目覚めさせたのかもしれない」
「あの規模の妖を召喚したというのか?」
「『召喚』ではないですね…」
二人の目の前に、スーツ姿の眼鏡の男が一人姿を現す。
「洞門」葛城が彼の名を呼ぶ。「噂をすれば何とやら、だな」
洞門は小さく咳ばらいをしてから眼鏡を指で押さえると、黒川と葛城に書類の束を渡した。
「どうしてお前がここに?」
「あなたたちも知っておいた方がいいと思うことがあったのでそれを伝えに参りました」
「…壊れたあの巫器はどうしたんだ?」
「ああ、これですか?」
洞門は胸元から同じものを取り出したが、変色した木は別のものと入れ替えられていた。
「よく、適合する素材があったな」
「私の巫器は特殊でしてね。天狗は代々、自分たちで素材となる植物や岩石を採掘、栽培するのです。私のは樹齢250年以上の霊力の宿った松、と決まっています」
「…それで、伝えたいことって?」黒川は本題に戻そうと話を振った。
「ああ、そうでした」洞門は再び、咳ばらいをする。
「例の妖…663号を過去に出現した異常存在と照らし合わせて確認したんです。黒川君の報告によれば、……“人を操る女型蝕魔”……でしたね」
黒川は黙ったまま、視線を静かに書類の上に落とし、はじめのページを読む。
「……どうした?黒川」
数秒の沈黙を破ったのは、黒川自身の、いつもよりトーンの低い声だった。
「……『八狂:オオジョロウ』…」
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