第1話 悪意の果実 その18
一瞬だけ、「恐怖」が怪異を襲う。
それは、“彼”が怪異になってから一度も味わうことのなかった感情だった。
「グアアア」
自らの中に湧いた感情を振り払い、現実を否定しようと葛城の方へ伸ばした触手で前方を薙ぎ払った怪異は、次の瞬間、自分の顔の目の前に張り巡らされた細い糸の正体に気が付いて戦慄する。それは先ほど黒川が巻いた灰をまとった、ピアノ線のように細くピンと張られた人間の髪の毛だった。
血しぶきと共に怪異の触手が真っ二つに切り裂かれ、どす黒い血が周囲に飛び散る。
「ギアアアアアアア!!!!」
「……死体を人形みたいに操るのは、何もあんただけじゃない。最も、俺の場合はあんたほど完全な擬態はできないがな」
怪異は、自身の胴体と触れた糸が、青白い炎を出しながら火花を散らしたことに気が付く。髪の毛を辿っていくと、その終端は黒川の右手に結び付けられ、そこから巫力を送り込まれている。
「……巫力ガ……流レテイル!?」
「あんたが散らしてくれた死体のおかげだ。人間は通常、巫力を感知できない…なぜなら、人間の身体が最も純粋な巫力伝導の媒体だからだ。だからこそ、あんたのまき散らした人間の死体から作った灰は、最も効率のいい巫力の伝導率を誇り、俺の巫術を強化してくれる。あんたの相手が俺だったのが、運の尽きだ」
「コ…コシャクナ!!……グッ」
攻撃を加えようと体を動かした怪異の身体に触れた糸が食い込み、白い煙を上げながら燃える。それは、さながら熱した刀剣が水の中に入れられた時のような音であった。
「どうした? 零式巫術だからって油断したか」
「グギギギ……」
「悪いが、俺の巫術は状況に依存するだけで、使い方さえ考えれば、巫術展開のサポートをする『八界領域』よりも強力なんだ。それに、あんたら怪異みたく鍛錬を怠りはしない」
「……デナオス」
葛城は怪異が何をするかは分かっていた。すぐさま巫力を送り込もうと髪の毛に力を込めたが、しかしわずかにタイミングがずれる。怪異は次の瞬間、自分の身体を黒い靄のように変化させると、周囲の闇に溶け込むようにして姿を消す。葛城もそのことはわかりきっている。だが、だからと言って自らの術式でこれ以上攻撃を加えることは、自分の身体の限界的にも難しい。
その事実は、葛城の頭の中に自分の無力さを思い出させるものだった。
ガンッ。
突然、部屋の壁が不自然な音を立てて縦に裂けた。真っ黒な亀裂のようなものが入ったそこから姿を現したのは、黒川だ。一瞬、警戒をした葛城に向かって、不愛想な顔をした黒川はため息をつく。
「ふう……本体はこっちっすか」
「……形象変化して逃げた。巫力残量的にも俺の『修羅糸』での追撃は限界だ」
部屋を見つめた黒川のぶっきらぼうな口調は、彼が獲物を仕留めた時の癖だった。いつもは殆ど笑うことのない彼の顔が、少しだけニヤついている。口元に飛んだ返り血を静かに舐めるのは、おそらく彼の悪い癖だろう。
ぐらり、と葛城はバランスを崩し、付近の机にもたれかかる。