第1話 悪意の果実 その14
突然、廊下の中央に置かれた花瓶が激しい音を立てて割れる。その破片が鋭く宙を舞い、周囲を傷つけた。その様は、まるで巨大な滝つぼに落ちた水しぶきのような激しい物である。飛び散った破片は、黒川の頬に小さな傷をつける。
そしてそれは、潜入中の二人を導く唯一の光源となっていたイヅナの喉を掻っ切った。甲高い鳴き声と共に、精霊の仮初の姿が消え失せる。瞬く間に周囲は深い闇の底へと沈んだ。
「……葛城さん!?」
イヅナの光源の代わりに手元の小さな懐中電灯を取り出し、葛城の方を見た黒川は、目の前にいる彼の右目に、巨大な傷がついていることに気が付いた。
「葛城さん、大丈夫ですか?」
「片目がやられただけだ…それより黒川、『真理眼』はどうなってる!?」
「無茶言うんじゃないっす。見えなきゃそもそも『真理眼』だって……」
「ソウダヨナ、ソウダヨナ!!!!ミエナキャイミガナインダ!!!!」
突然、暗闇の中に声が聞こえる。それは、大人と子供を駆け合わせたような、奇妙な不協和音の塊だった。吐き気を催しそうになる、あまりに気持ちの悪い声に、思わず葛城と黒川は顔をしかめてしまう。
「お出迎えという訳か……」
突然建物全体が大きく揺れ、彼らの両足に、壁を張っていたおびただしい数の蔦が、一斉に体を捕まえようと向かう。黒川はすぐさまスサノオを起動すると、それらに向かって発砲し、応戦する。無線が使えない今、葛城か黒川のどちらかがダウンすれば、それは致命傷になりかねない。
そもそも、烏三課は潜入は出来ても、戦闘は完全に己の能力に依存する。それは、黒川の反撃が一時的な時間稼ぎにしかならないことを意味していた。
黒川は触手の群れに向かって、胸元から取り出した小型グレネードを投げつけると、葛城の身体を押し込むようにして、隣の部屋へと転がり込む。隣室からの激しい爆発音が響く中、黒川はすぐさま部屋の中の様子を確認した。
そこは、もとはダイニングルームであったように見えた。だが、机の上に置かれた料理や鍋の中からは、白く細長いシラミのような触手がわらわらと湧いている。そのうごめきは、決していい気分のものではない。
再び、壁の中から飛び出した触手が二人の身体をめがけて振り下ろされる。間一髪よけた黒川であったが、そこには葛城の身体があった。
「葛城さん!?」
力を振り絞って倒れた葛城ではあったが、触手の一撃は、葛城の右腕を粉々に砕いている。
「気を取られた」痛みに耐えながら葛城が声を上げる。
「大丈夫なんですか?」
「なんてことはない」葛城はそういいながら、左手にスサノオを握ると、口でトリガーを引き抜いた。
「左手だけでも銃は打てる。『真理眼』で敵の位置を探知できるか?」
「やってみるっすけど……」黒川の顔に、一瞬だけ嫌な表情が映る。
「……どうした?」
「さっきからずっと、頭の中に何かが無理やり入り込もうとしている感じがするんです」
「精神干渉か?」
「干渉しようとしているんじゃない……こいつは“既に”……俺の身体を……」
パンッ。
次の瞬間、葛城は自身の身体に起きた異常を理解することを拒んだ。
黒川の右腕が静かに正面へと持ち上がり、手に握られたスサノオの引き金が、何の躊躇もなく引かれたのだ。それは、もはやそれ以外の動きが不自然であるかのように思わせるような、あまりに単純で、美しい体の動きだった。その一撃が向けられた先は、脳天に風穴の空いた自分の身体が立っている。
鈍い音を立てて、葛城の身体が倒れる。それは白い灰のような姿となって跡形もなく消失し、暗闇の中に消えていく。自らの身体が、目の前にいた仲間を撃ち抜いたことへの絶望が頭をよぎる。
「……葛城…さん?」
黒川の言葉に、底知れぬ絶望が響く。
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