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烏三課  作者: 千歳 翁
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第0話   -48H

この小説の続きが読みたい、と思った方はコメント、ブックマークをお願いします。

ブックマーク10件以上で、第一話以降の連載をします。よろしくお願いいたします。

2089年(皇紀987年) スメラ国 首都:トンキン郊外

11月某日。           11時29分。



「……帰りたい」


黒川廉也くろかわれんやはうなだれる。白いシャツに黒いスーツ。黒いネクタイ。黒い手袋。虚ろな視線。巨大な目元の隈。細くて色白な腕と足。ぼさぼさの黒い髪の毛。これでも刑事なのだ。こうして誰かが書かなければ、彼のことを刑事だと見抜く人間はまずいない。黒川以上に不健康で、不健全に見える人間はそうそういない。

 警察車両の赤いファンを見ていただけだというのに、催眠にでもかかったような気分だった。行き交う人々が向ける、規制線への奇異の視線が、嫌でもそちらから漂ってくる生臭い不快な臭いのことを思い出させた。くたびれた顔の警官も、自分と同じことを考えているようで、額には青白い汗さえ浮かんでいた。筋骨隆々の彼でさえこの様である。


「黒川、空いたぞ」


 声をかけてきた方を見る。180センチ越えの大柄な男は、額に巨大な傷をつけている。どいつもこいつもまともじゃないな、と、黒川は内心声を漏らした。あの大男は、この臭いが嫌いにならないのか不思議でたまらない。


「どうした、また気分を悪くしたか?」

「……なんでもないっすよ」

「いいかげん現場に慣れろ。お前もこの仕事を始めて半年だろう」

「葛城さんほど、俺は鈍感じゃないんすよ」

「鈍感?」


 葛城淳かつらぎじゅんは規制線のテープを持ち上げて、現場の奥へと入る。鑑識や他の警官たちと言葉を交わしながらも、その意識ははっきりと黒川の方を向いていた。これでいて、現場に落ちている僅かな証拠すらも見逃さない。

 彼のエピソードといえば、現場に落ちていた一本の毛の匂いから、犯人が被害者を“食わせた”犬の品種を当てて見せた、というのがある。変人なのか、特殊能力なのか。それともただの代わり物なのか。


 黒川は心の中で自分たちが周囲にどう見られているかを想像した。最初に、あの小太りの警官。ああ、ほら、見ろよ。あいつはいつも俺たちを怖がって、そうして他の奴に話しかけるんだ。ほっとけよ。俺たちはただいるだけだ。それなのになんだ? その眼は。

 睨みつけて挑発してやれば、奴らは一目散に仕事に戻る。誰ひとりとして自分から話しかけてくることはない。俺たちは、そういう役回りなんだ、と自分に言い聞かせる。


 トンキン中央駅の改札をくぐり、階段を上る。エスカレータの上に残った血痕と組織片の量だけで、この場で起きた凄惨な事件が何か、犯人がどんな奴かはすぐに予想できる。きっとたくさんの人間が死んだんだ。目の前で、一瞬にして、あっという間に。吐いて倒れる女、泣きわめく子供と母親。ヒステリー状態の野次馬たち。その視線の先には爆弾魔。通り魔。狂った人間。自己陶酔に陥った宗教者……飛び散った動脈血。刃物。金属片…


「……黒川も分かるか?」

「こんだけ臭けりゃ、誰にだって分かりますよ」


そうだ。普通の人間ならそこまでで終わり。

でも、俺たち化け物は、それ以上のことを知っている。


「……あと何人殺せば気が済むんだ?」


 黒川と葛城は、天井に張り付いた“それ”をじっと見つめた。


 歪んだ空間から異様に白い肌を露出させ、胸の前で交差させているそれは、まるで聖女のように、静かに死んでいた。

 だが、嫌でも分かる。

 その白い肌は、剥がされた皮膚によって作られているのだ、と。

 彼女の肉体は、その一部から見え隠れする赤い肉の塊で、腐敗して壁と同化してしまった両足は、巨大な人食いヒルのように、どす黒い血に染まりながらも、赤紫色へと肥大化している。背中から生えている羽のようにも見える部位も見えた。

 彼女の体から伸びた赤い槍のような構造物は、理科室の実験で作り出した水溶液の結晶のような複雑な構造を孕んでいる。それが何十本と空に浮かんで、何かを突き刺している。


“何を”と、人は聞くだろう。


“目玉”だ。


周囲に転がっている多くの死体は、目玉が繰りぬかれている。それらをすべて、あの赤い槍が突き刺したのだ。一体何のために、どのような方法で? そんなこと、こっちが知りたいくらいだ。


「お疲れ様です、黒川刑事、葛城刑事」


 刑事、という肩書が、黒川と葛城の公式な立場だった。

後ろから声をかけて来たのは、先に現場に到着して捜査を指揮していた別の刑事だろう。手に持った手帳には「大杉」という名前が書かれている。案の定、彼の顔も真っ青だ。だが、あの天井にいる女を見れば、彼は確実に卒倒するに違いない。

 幸運でしたね、と、黒川は心の中で彼に言った。


「所見は?」質問をするのは葛城の仕事だ。

「何も分かりはしませんよ。目撃者はいませんから、ね」大杉は嫌味を言うかのように言葉を吐いた。

「発生時刻は?」

「今朝の8時です」

「通勤ラッシュを直撃、か。被害者は全部で?」

「13人ですね……運の良いことに」

「そうっすね。よかったと思います」

「黒川」


 叱責する葛城をよそに、大杉は首を少し傾げるだけだった。どこに目がついているんだか、と考えてはみるが、そもそも“あれ”が見えたら彼はここにいない。


「“処理”状況は?」

「クラス3Aのトリプロマ合成薬を散布済み。カバーストーリーは『猟奇殺人』です。代用犯は未公開の死刑囚。市内住民への影響力は“微小”なものと思われます」

 ゼロではないんだな、と葛城は心の中で小さくつぶやいてから、大杉に改めて礼を言う。

「また、あんたらが迷惑を被ることになったな」

「いいんですよ」大杉は少しだけ笑みを見せた。顔色が悪いことも相まって、一層不気味だ。

「目星は?」

「ついているさ。目の前にいりゃ、誰だって分かる」

「相変わらず、あなたたちは……不気味な存在ですね…」

「黒川」

「はい?」


葛城に呼ばれ、黒川はだるそうに返事をした。葛城は静かに振り向くと、元来た道を引き返し始める。


「本部に戻るぞ」

「いいんですか? あれ。あのままで」


黒川は天井の化け物を指さしながらそう言った。他の人間にはただの天井にしか見えない。それゆえに、黒川と葛城に奇異の視線が注がれる。


「俺たちがどうこうできる物じゃない。俺たちの仕事はここまで。続きは二課の仕事だ」

「そしたら、飯でも食いに行くっすか?」

「本部に戻るんだ。あれを見て、食欲が湧くのか?」


黒川はしばらく考えた後、あっさりと答えた。


「飯は飯、怪物は怪物。まったく別物っすよ」


=================


同日 15時22分。

トンキン中心部。内閣府付属異形存在対策室“八咫烏”第三課。課長室。


「……以上のことから、本件は二課出動を必要とする案件と結論します」


報告を終えた葛城に、玉川静江は、冷たい視線を向けた。となりでジャンクフードを頬張る黒川にちらりと目を配り、内心呆れたかのようにため息をついてから、彼女はキセルに火をつけて吸い始める。灰色の細長い煙が、ぼんやりとしながら消えていく。部屋の中にその独特の香りが、静かに広がっていた。黒縁の眼鏡からは、燃えるように青い瞳が覗いている。白髪の先には伝説上の生き物である鳳凰を模った髪飾りをつけていた。


「二課を出動させるということは、“アレ”を封じる手段が他にない、ということになる。間違いないのかね?」

「経緯は報告した通りです。カバーストーリーのみであれを隠し通すのは困難でしょう」


葛城の発言に、玉川の瞼が少しだけ動く。そんなことは、ありえない、それが彼女の抱いた一つ目の感想だ。


「本件の対応は通告した通り、カバーストーリーの流布のみで対処すると言ったはずだ。例えそれが現場の判断であれ、今更変えることは不可能だ」

「しかし、課長。類似事件が多すぎることは、いくら一般市民とはいえ気づくはずです。それに、トリプロマ合成薬の散布量のこれ以上の増加は、中毒症状を引き起こしかねません。その危険性はあなたもお判りでしょう?」


玉川はキセルを静かに机の上に置いてから、じっと睨みつける。


「……確かに、あれは危険な薬だ。異常な出来事を忘れさせるために、記憶を特定の“正常な出来事”にあわせて改変しようとする。精神病を患った患者が、自己防衛のために行う妄想や記憶喪失と、本質は同じだ。だが、あれは必要なのだよ。異常存在の露見は、我々が培ってきた秩序の破壊につながりかねない」

「であればなおさら、二課の出動が必要では? “あれ”が問題を起こしたのはこれで3度目です。根本的解決をしましょう」

「根本的解決? 奴らがどうすれば根本的に“解決”されるというのかね?」


玉川の怒りのこもった声が、周囲の空気を凍り付かせる。


「そうしたら、死んだ人間はどうするんですか? 遺族にはどう説明を?」

「『不幸があった』・・・それで解決だろう?」

 葛城は、玉川の口からでた言葉に、動揺と怒りを隠しきれなかった。


「…これで何人目だと思っているんですか? 妖が一般人を好き勝手にしていいと本気で思っているんですか?」

「…これ以上、“八咫烏”関係で暴力沙汰は増やしたくないんだ、私はね」


玉川は、手元の葉巻入れから新しいものを取り出すと、先を丁寧にナイフでカットし火をつけて吹かしはじめた。


「……本件の対応は今言った通りだ。君たちは仕事場に戻り給え」

「ですが…」


玉川は口調を強めて言葉を遮る。


「妖との共存こそが、陛下のご意向だ。それは知っているだろう?」

「はい」と葛城は返す。

「…お前は30年前の戦争をまた繰り返すつもりなのか?」


 三人の脳裏には、かつてこの国を覆った血なまぐさい歴史がよぎっていた。

 “妖”と呼ばれる異常存在と人間の間で起きた戦争、通称「59事変」は、人類史上最も悲惨な“人妖”戦争とさえ言われた。人ならざる者と人との間の果てしない憎しみの連鎖は、いつしかかつてこの地にあった国を滅ぼし、壊滅させたのだった。

 

「妖の存在を知らぬ一般市民は、そもそも戦争の存在自体を知らない。だが、あの時この国で起きていたことを、お前ならば知っているはずだろう」


静江の言葉には、葛城の人生をゆがめた事実が確かにこびりついていた。

 あの“名も無き”戦争で、自分の両親が死んだという事実。それが葛城をひどく苦しめている。あれと同じことを繰り返してもよいのか? という話自体が、彼にとっては不快極まりない発言だった。

 しかし立場上、葛城は玉川に何かを言うことはできない。

 奥歯を噛み締めたそのとき、ふいに隣にいた黒川が口を開いた


「……静江課長…」

「……なんだ?黒川捜査官」

「そういうやり方、はっきり言ってクソっすよ」

「おい、黒川」


葛城の制止もよそに、黒川はいつもの口調で玉川へと詰め寄った。


「妖と人間の共存を歌っておきながら、妖が一方的に人間を殺すのは許すんですか?」

「!?…」

「妖様が好き勝手しているのを黙って認めて、世間にばれないように隠し続ける。それが俺たち八咫烏の存在意義だって言うなら、俺と葛城さんはこの仕事を辞めます」


バカなことを言うな、と言った玉川に、黒川は振り返って言葉を続けた。


「俺たち“烏三課”は、二課のような戦闘能力も一課のようなエリートの集まりでもない。ただ、一般人とそうでない化け物集団の仲介役。現場を確認し、妖の仕業か、人の仕業なのかを見分けるのが仕事だ。だからって、同じ妖によって、目の前で大勢の人間が死んだって分かることを、どうにか隠し通そうとするのは、バカなジジイかババアのやることっす」

「…今陛下のことを何と!?」

「陛下か馬の骨かなんて俺には関係ないっすよ。だが、これだけは譲らねえってだけです。自分の立場を守るのが大事か、市民の安全を守るのが大事か、考えてください」


少しの間、静寂が両者の間を分かち合っていた。

口を開いたのは、玉川の方だ。


「……二課には私の方から出動要請を出す。お前たちは現場に戻って巫術展開の用意をしろ」

「……了解」


黒川は満足した顔で、呆然として立ち尽くす黒川に背を向けて部屋を去っていった。


==================


同日 16時49分。


現場は既に、立ち入り禁止区域が設定されていた。黒川と葛城の乗った車も、検問所をいくつも通過しなければならない。“妖”という異常な存在を隠蔽するために、それとは知らぬ多くの人間が仕事をしているのには違いなかった。

付近の渋滞の列に車を並べながら、葛城は窓の外を飛んでいる一匹のカラスを見ていた。


「葛城さん」

「なんだ?」

「三課の人って、今日は誰が来るんですかね?」

「……知らん。誰だって関係ないだろう?」

「知ってるくせに。そういうことを言うってことは、いつものメンツなんですね?」


面倒くさそうに、黒川はため息を吐いた。

現場に入って車を降りた二人の目の前に、巨大な刀を背負った侍のようないでたちの男が一人、化け物の方をじっと見つめていた。半人半妖の彼にとって、狩るべき獲物の匂いは、異様なまでに濃く、そして甘い誘惑でもあった。それをここまで制御できるというだけで、彼の“烏”としての腕の高さが容易に想像できた。

胸元には三本足のカラスの印章と共に「つじ 十手じって」と書かれた名札がぶらさがっている。


「…いくつ、いるんだ?」生気のない男の声には、代わりに殺気が宿っている。

「俺たちに見えたのはでっかいのが一つだけだ。まだいるのか?」

「いいや……あまりに大きすぎるから、確認しただけだ」

「あっ、廉也くーん! おっひさー!」


声のかかった方を見ると、今度は背の低い少女のような姿をした人物が表れる。身長はおそらく160センチにも満たないだろう。派手なメイド服のようなものを着こなしているのは、彼女の完全な趣味だ。はつらつとした短い髪の毛は、彼女のすばしっこさと明るさをアピールするのにまさに最適だ。


黒川は内心、またか…という呆れにも近い気持ちで彼女のことを見る。

「八咫烏三課 皐月さつき 瑠璃るり」という彼女の名札は、ピンクや青のシールで可愛らしくデコレーションされていた。猫又の混血らしく、腰から猫のしっぽのようなものさえ生えていた。


「まーた痩せたんじゃないの?廉也。最近ちゃんとご飯食べてる?」

「さっきバーガー食べた」

「そんなんだから痩せちゃうんだよ。もっと元気出してこ、ねー!! 今度あたしがご飯作ってきてあげようか」

「絶対に断る」黒川の言葉には、はっきりとした決意のようなものがにじみ出ていた。


「葛城捜査官もお疲れ様―! 今日の獲物はけっこう大きいみたいね」

「…見立て通りのデカさだよ」

「じゃ、いつもより派手に暴れられるってことね」

「相変わらずはしゃぎ過ぎですよ。皐月さん」


彼女の後ろから姿を現したのは、寡黙そうな眼鏡の青年だ。それを見て、葛城はようやく安堵したような表情を浮かべた。問題児ばかりが揃っている二課の連中の中で、かろうじてまともな会話のできる人間。二課課長の部下であり、立場的には葛城と同じポジションの人物。


「烏三課 洞門どうもん たく

 彼も他の二課所属の人間と同じく、半人半妖だ。確か、天狗の血だっただろうか…。言われてみれば、その高貴な雰囲気に、山伏の威厳のようなものも感じられる。彼の下駄の歯が一枚しかないのは、そうでないと落ち着かないから、らしい。器用にバランスを取りながら、彼は言葉を続ける。黒縁の眼鏡が、その深みを伴った視線を印象付けている。


「今日はこれで全員か? 洞門捜査官」

「あと一人来る予定ですが。寝坊をして遅刻してるみたいです。先にちゃっちゃと初めて、終わらせてしまいましょう」

「……あんたらのところの部下は、もっとマシな奴にならんのか?」

「これでも精鋭を集めたつもりなんですがねえ…」

「精鋭かどうかじゃない、マシな奴、と言ったんだ」

「それはお互い様でしょう。黒川君だって、変り者らしいじゃないですか」

「聞いたのか?」

「ええ、聞きましたよ。課長に詰め寄って二課の出動に踏み切らせたって。よほど胆力のある人間じゃなきゃまず無理だ。玉川さんは、我々妖ですら、怒らせたら怖い存在ですからねえ…」

「天狗が恐れる人間もいるとは驚き、だな」

「なんですかあ、そりゃあ。俺のじいさんはあの平義経に散々苦労させられたたんですよ。そんないいかたされなくたってよいじゃないですか」


 義経と比べられる偉人ではないが、少なくとも奇人であることは間違いない。葛城はそう思いながら、全員に号令をかけて指示を出し始めた。


「これより、異常存在第663号の無力化作戦を実行する。作戦実行中の全体の指揮権は洞門捜査官に移行する」

「引継ぎは省略で大丈夫ですよ」洞門はそういいながら、眼鏡を取り外し拭き始める。

「といっても、作戦らしい作戦を立てたところで、その通りに動く人はこの課にはいないのですがね…」

「…切って、切って、切る」十手がそう言うと、皐月も嬉しそうに笑う。

「派手に暴れりゃいいんですよね!?あたしちょーたのしみなんだー!」


 これだから、彼らは嫌いだ。葛城はそうつぶやきつつも、しぶしぶ仕事に入り始める。


「黒川、術式展開可能領域はどれくらいだ?」

「ざっと半径150メートル。俺のは展開済み」


 黒川はそういいながら、胸元から勾玉のような形をした小さな道具を取り出す。『巫術』と呼ばれる超常の力を操る者がその展開のキーとする道具、『術器』だ。一人一人の術師の魂と連動し、理を超えた力をもたらすと呼ばれる、古代のオーパーツに他ならない。


 葛城は満足そうにそれを聞き遂げると、自身の術器を取り出す。彼が用いるのは日本のお猪口のような形をした術器だ。小さく目を閉じながら、葛城は心の中で術式を再現する。周囲の気の流れと、己の魂を連動させることで、初めて可能になる力。


「「巫術基本法」特別条項第3条に則り、巫術階位一式までの限定的使用を認める。対象の完全沈黙までの間、領域内での街頭巫術展開を許可」


葛城は自らに課せられた仕事を静かに遂行する。器に酒が注がれるようなイメージを思い浮かべながら、彼は自らの魂に刻まれた能力の名を告げた。


「巫術一式『八界領域』」


 彼の言葉と共に、周囲の空間が青白く輝き、全員の首筋に稲妻のような紋章が沸き上がる。「巫術」を感知できる者に表れるそれは、自身の力のリミッターを解除するための、ある種の通過儀礼でもあった。


「…全員、即刻作戦を開始せよ」

『了解!』


 辻、洞門、皐月、そして黒川が、同時に返事を返した。


===================


「巫術一式『鬼武者』ッ!!!!」


 初めの一撃を加えたのは辻だった。それまで沈黙を装っていた「それ」が動き出したのは、彼の突き刺した大太刀の一撃に対する反応だ。斬撃と共に、怪物は幾人もの人間の悲鳴を重ね合わせたような不快な声をまき散らす。


 何もない空中を自在に移動できるのは、彼の巫術『鬼武者』によるものだ。鬼はすべての道を我が道とする、という名の通り、彼にとって巫術の展開された領域のあらゆる場所が、彼の「行く道」となる。

 妖に与えられた一撃は、彼が先祖代々受け継ぐ『抜魂刀』…読んで字の如く、魂を抜くを持った刀である。本来魂を与えられたはずの刀が、他の魂を求めるのだ。それは妖であろうが人間であろうが、関係はない。切るべきものは切られる定めにあると言わんばかりに。


 だが、辻は明らかに違和感を覚えていた。自分の一撃が、『芯』まで通ったような感じがしないのだ。無口ながら、彼は怪物の動きを見極める。槍上の突起が、突然足元に向かって伸びる。ひび割れた地面と立ち込める砂煙が消えたかと思えば、今度はそれを伝って、皐月が本体へと忍び寄り始める。


「巫術一式『炎雷白虎』ッ! てやぁっ!!!」


 彼女の身体が炎と雷を帯びた虎のようになり、その幼く見える体からは予想だにしない力があふれ出る。一撃は重く、鈍い。だがそれだからこそ、はっきりと対象の内部にまで到達する。

 怪物の身体が項垂れ、天井に張り付いていた「根」のようなものがだらりと垂れ下がる。すかさず辻がそれを切り落とし、怪物を地面に引きずりおろそうと画策した。


 だが当然、怪物も黙ってはいない。幾本もの触手を巻き付け、こん棒のようにして振り回す。先ほどと同じ槍を投げつけるような攻撃も、雨あられのように襲い掛かっていた。


「あっぶな!」


素早く攻撃をよけながら、皐月はそう叫んだ。明らかに今まで相手にしてきた存在と、異なっているように見える。怪物の一撃は、建物を支えていた柱を倒壊させ、天井に巨大な穴を作り出す。ぽっかいと空いた巨大な穴の向こうは、真っ黒な闇に包まれていた。この場所が、あくまで葛城の巫術によっておおわれていることを示す様々な証拠の一つだ。


 戦闘を横目に見ていた洞門も、何もしていないわけではない。小さな木製の札のようなものを手元に並べながら、彼もまたそこへ攻撃の準備をしていた。天狗の血を引く彼の魂には、他の巫術使用者とは異なっている。


「巫術『百獣使役:骸大蛇むくろかがち』」


 『百獣使役』…彼の一族に伝わる天狗の巫術だ。その能力は、百獣と呼ばれる妖怪、動植物の類を召喚し、自在に操ることである。彼の言葉と共に、付近の地面から髑髏の姿をした巨大な蛇が姿を現す。天狗が従える百獣が一つ、骸大蛇は、素早く対象の肉を切り裂く。うめき声が一段と大きくなりがら、怪物の身体は天井からさらに剥がされていた。


 怪物の切り裂かれた体の一部から、人間の体のようなものさえ露わになる。それを見つけた黒川は、静かに言葉を発した。


「……“蝕魔”だ」


 黒川はそう、はっきりと口にした。


「目星はついていたが、やはりな」葛城もそう言葉を続けた。すぐに彼はその言葉を他のメンバーに共有し始める。


「今の黒川の言葉が聞こえたか?」

「聞こえてるわよ!!!…ったく、こいつ、どんだけ殴っても肉を盾にしてくるんだけど…」

「それが蝕魔の本性です。奴は襲った相手の魂を自らの魂と同化させ、その肉体を自らの肉とするのです。攻撃にさらされれば、食べた肉体で自らを防ごうとします。もちろん、私たちが肉や魚を食べるのとは少しばかり構造が違いますがね…」

「御託はいいから、さっさとあんたは蛇で殴りなさいよ!!!」

「これは失礼…『百獣使役:虚食蛾』」


洞門は少々不満そうにしながら、新たな獣を召喚し始める。今度は、巨大なあごを持った奇妙な見た目の虫の大群だ。金切り声を挙げながら襲い掛かるそれは、辻と皐月が攻撃を加えた怪物の中心部に群がり、傷口を広げようとする。ぼとり、ぼとりと、天井からいくつもの人間の死体が転がり落ちてくる。その様は、まさに悪夢と形容するのがふさわしい光景だった。


突然、怪物の身体がすさまじい音を立てながら地面に倒れ始める。辻が最後の触手を切り、怪物の身体を地面に叩き落したのだ。すぐさま他の2名が、追撃に走る。


「“蝕魔”であれば胃袋があるはずだ。それを破壊すれば活動を停止する。今は肉を切り裂いてそれを見つけろ」


葛城の指示に合わせ、3人は一斉に攻撃を加え続ける。黒川はただ、その虚ろな視線を向けながら、怪物の細部をくまなく観察していた。それは探偵の推理にも似ている作業だ。対象の性質についての「仮説」を立て、「観察」し、「立証」する…。戦闘中に敵の特性を理解し、支援するのが彼の仕事である。


 「そこ!」


 黒川が指したのは怪物の身体から漏れ出た赤い巨大な袋状のもの。辻が素早く刀で切りつけると、怪物は苦しそうに悲鳴を上げる。間違いない、黒川はそう確信する。これを破壊すれば……。


 その時だ。

 黒川は、突然あまりに恐ろしい寒気を感じ取る。それは、彼が生来持っている本能が告げる危険信号だった。辻がとどめの一撃を加えようと刀を振り下ろすその一瞬の間に、それは

言葉となって宙を舞う。


「いや!待ってくれ! そいつを攻撃すると!!!」 


バン。


赤黒い膜が破裂すると同時に、大量の赤い液体が宙を舞う。同時に、すさまじい音量の赤子の鳴き声が、周囲を覆った。その場にいた全員が、耳を塞がなければならないほど巨大で不快な音だ。何千、何万という声だった。いや、声よりももっと悲惨なものだ。苦痛そのものが声となって、あらゆるものを脅かすような感覚を、全員が味わった。


「何…よ……これっ…!いやっ…嫌っ!!!!!」


皐月は身の毛もよだつ恐怖に体を震わせ、耳を抑えながら、突然胃袋の中身すべてを吐き出した。その中には、先ほど洞門が展開した虫が何匹も混ざっている。


 体中を虫が這いまわるような感覚だ。何が起きた? と黒川はすかさず洞門の方を見る。攻撃の瞬間、怪物の身体のすぐそばにいた洞門は、血走った眼でこちらをじっと見つめてくる。


「……『百獣使役:山猿』」


 彼が召喚した獣の群れは、しかし怪物ではなく、その場にいた八咫烏のメンバーを襲い始める。その瞬間に全員、気が付いた。“洞門の魂が乗っ取られた”のだ。おびただしい数の狂った猿が、次々に周囲の職員に襲い掛かり始める。


「…奴は“蝕魔”じゃない……“蝕魔に化けた別の奴”だ!」

「危ない!黒川! そっちに行ったぞ!」


葛城の声に、すかさず身をかがめた黒川に向かって、数匹の猿が群がり始める。黒川は瞬時に胸元から拳銃を取り出すと、その引き金を正確に猿の脳天に打ち込んだ。のけぞったサルたちの身体は、地面に落ちると共に、灰のようになって姿を消してしまう。


 黒川は応戦をしながら、先ほどの化け物の様子をじっと見つめる。開いた赤い膜は“子宮”だ。その中に赤子がいて、それが今表れたのだ…。眼に見えるわずかな情報を頼りに、それが何を意味するのかを、黒川は必死で考える。


「…この天狗…敵になると厄介極まりない……」冷静な十手の声に焦りさえ混ざる。

「廉也君!どうすればいいか早く教えて!」


 他者を使役する異常存在…そして女性のような姿を取っていること…この二つは、黒川にとってある一つの結論を想定させるものだった。だが、それが事実であると、黒川自身が認めようとはしたくない。それが現実であるということを、どうして受け入れられるというのだろう、と黒川は思った。


 辻の斬撃もむなしく、サルが彼の身体を覆い始める。骸大蛇を押さえつけていた皐月も、徐々に押され始めていた。

このままでは、ここにいる全員が危ない。そうなれば誰のせいだ? 自分か。その感覚は、黒川になじみのない不安を覚えさせた。孤独が好きであるはずの彼に、孤独への恐怖が湧いて来た。

突然、サルの一匹が黒川の手に握られていた拳銃を高く蹴り飛ばす。しまった、と気づいたときには遅かった。猿の群れが自分の体に群がり、次々に噛みついてくる。痛みが、はっきりと体を伝わるのが分かった。


失敗?


今まで自分が避け続けてきたその文字が、脳裏によぎる。そんなことはありえなかった、そしてありえてはいけないはずなのに。あの忌々しい女に、自分の仲間が殺されるところを見せられるのか…。


絶望が、まさに黒川の心の扉をこじ開けようとしたその時だった。

 時間が止まったかのように、周囲を白い光の帯が包み込む。そして、視界には一面の白い雪のようなものがちらつき始める。同時に突如として音が消え去った。その瞬間、全員に襲い掛かっていた猿の姿が消え去り、怪物の悲鳴も遠ざかる。体の痛みが消え、手には拳銃が握られたままであることに、黒川は気が付いた。


「…巫術? 誰がいったい?」


それは、その場にいる全員が抱いた疑問だった。


明らかに、ここにいるメンバーと状況に対して、及んでいる影響の範囲が大きいことから、少なくとも黒川たちが操る「一式」巫術でないことに、黒川は気づいていた。

本来、巫術というものは、その強大な力を暴発させないように、葛城のような“現象領域”…すなわち、「巫術を展開することを許すための巫術」が展開された場所でしか発動することが出来ない。その発動可能な巫術の強さも制限される。今の場合ならば、ここにいる全員が展開できるのは「一式」と呼ばれる巫術までだ。作戦遂行時には、事前に事件の規模に合わせて現象領域を決めたうえで術式を使用するため、こうして“二式”が発動されているという事実自体が奇妙だった。


自分が見たことのない巫術が展開されたことに、黒川が動揺を隠せないでいると、一人の少女が彼らのいる場所へと近づいていた。声は聞こえないとはいえ、その場にいる“八咫烏”の面々も、誰かが近づいてきたことに気づいたようで、一様に視線を向けている。


透き通るように青白く長い髪の毛と、白い肌。そしてすべてを吸い込むかのように輝きを放つ瞳。か細く、今にも折れてしまいそうなほど細い腕。美しくすらりとした体。白いワンピース。そして、傷一つない裸足。そこに立つ一人の少女は、目の前にいる怪物のすぐそばまで寄っていく。


「待て。誰だお前は…」


黒川は、自分の喉から声が出ないことに気が付き始める。そして、今展開されている術式が「音を奪うものである」ことに初めて気が付いた。領域内へ立ち入った人物は、情報漏洩を防止するために、トリプロマ合成薬を投与された上で立ち退かせるか、その場で「終了」することが義務付けられている。だが、警告を告げられない以上、前者の安全策をとることは出来ない。

 黒川が覚えた戸惑いをよそに、葛城が拳銃を少女の方へと静かに向ける。警告が通じない以上、対象が敵性であるかどうかさえ不明だ。それに、彼女のような少女が目の前に起きている巫術を展開できるほどの力があるようには思えない。


 無音だったが故に、その行為ははっきりと見えた。

 葛城は、確かに拳銃の引き金を引き、少女へ発砲したのだ。

 だが、その弾は、彼女のすぐ背後でピタリと止まり、そのまま音を立てずに垂直に落下した。


 「……おやすみ“ラジョア”。よく頑張った」


 少女はそう静かにつぶやくと、目の前の怪物の身体に触れる。パリン、というガラス細工が砕けるような音と共に、怪物の身体が急速に凍り付いていくのが分かった。そして、氷漬けのそれが砕ける音と共に、展開されていた巫術が急激に解除されていく。

 黒川らが苦戦を強いられた怪物が、一人の少女の手によって沈黙する。少女はその様子を黙って眺め、少しだけ、悲しそうな表情さえ浮かべていた。


 言葉が聞こえるようになったことに気づいた葛城が、再び拳銃を少女に向けながら警告を発する。


「誰だ貴様は。ここで何をしている。奴に何をした?」

「……なにもしていない。眠らせただけ」


少女はそう、静かに答えながら、葛城をじっと見つめた。


「“眠らせた”だと?」

「あの子が生まれるきっかけを、わたしがつくっただけ」

「“あの子”?」

「もっと、もっと、必要なのよ」

「何の話だ。子供のおふざけを聞いているんじゃないぞ」

「いずれわかる。それまでは、わたしも、わからない」

「……貴様…」

「質問はおしまい」少女は静かにそう言った。「帰らなきゃ」

「待て! 動いたら撃つぞ!!」


葛城がそう言い切る前に、再びあの白い光が周囲を包みこんだ。次に黒川たちが眼を開いた時には、そこには息絶えた“怪物”の崩れ行く残骸と、不詳した他の職員だけが残っていた。

眼前で起きた出来事に戸惑ったまま立ち尽くしていた黒川も、すぐに動き出し、倒れた他の仲間たちのもとへと駆け寄った。


「大丈夫ですか? 辻さん、皐月さん、洞門さん」

「……あぁ、俺は、な」辻がそう言いながら、頭を抱える。「嫌な気分だ」

「あんたの猿のせいで、危ない目に遭ったじゃない!」皐月は既に体の傷が回復しつつある。さすがは猫又、といったところだが、顔には明らかに、普段見ない疲労が出ていた。


周囲の警戒の必要性が薄いと判断した葛城が自身の巫術を解除すると同時に、壁や天井に空いた穴がまるっきり治ってしまう。現象領域の展開を伴う巫術は、異常存在による社会への影響を可能な限り薄くするための、一つの防衛策だった。葛城は、洞門の身体に異常がないか黒川に確認を促した。


「……大したケガもないっす…精神状態も、問題ないですが、一応救急車を…」

「…その必要は、ないですよ」


洞門がそういいながら、閉じていた目を開け、体を起こす。


「ったく!一体何があったっていうのよ! 天狗のあんたが精神汚染でも喰らったわけ!」

「ことはそう単純ではありませんよ」中指で眼鏡を治しながら、洞門は自分の体の状態を確認する。


「……誰かの横入りが入ったんです。私の術式に」

「横槍?」葛城が質問する。

「ええ、見てください」


 黒川は、自分の眼を疑った。

 洞門が持っていた術器である木札の一部が、腐敗して黒く変色しているのだ。


「何があったんです?」黒川が真剣なまなざしで問い詰める。

「さあね、200年近く生きてきて、こんな経験は初めてだ。巫術の展開中に、耳の穴から誰かが私の中に入ってこようとする感じがしたんだ。そこから、自分の巫術を保つので精いっぱいだった」

「ばっかじゃないの!?ピノキオ!」皐月は怒りを込めて叫ぶ。

「そんなんならさっさと巫術を解除しなさいよ! あんたの精神が乗っ取られたせいで、バカ猿共があたしたちを襲って大変だったんだからね!!」

「それは無理だ、皐月」


皐月の講義を遮ったのは黒川だった。


「さっきあの怪物にやりあえたのは、洞門さんの『百獣使役』があったから。それに、襲い掛かったのは猿だけで、骸大蛇や虚食蛾は化け物をずっと攻撃していた。完全に使役されていなかったのは、洞門さんが抵抗していたから、そうっすよね?」

「ああ、そうだよ」洞門は立ち上がると、周囲を見渡した。

「でも、私がいなくてもあれを倒してくれたんだろう? 実に頼もしかったよ」

「…それがそういうわけでもないんだよ、洞門」

「というと?」葛城の方を洞門は振り向いた。


「あれを倒したのは我々じゃない。少女だ」

「少女?」

「黒川、何があったか確認できるか?」

「巫術零式『真理眼』展開」


 黒川は言われた通り、自分の術式を静かに展開しはじめる。

 黒川の能力は“零式”の名の通り、現象領域が無い状態でも展開可能な低階位の巫術だった。その能力は、『眼前の物を見極める』力。葛城が頼んだのは、彼のその能力によって、葛城が目にしたものを全員の意識に再生することだ。


 黒川が全員の“眼”を借りながら、自分が思い浮かべる記憶を同時に確認する。確かに、底には少女が現れて、怪物を沈黙させるまでの一連の流れが記録されていた。


「彼女に心当たりは?」黒川はそう質問するのに対し、洞門は静かに首を振った。

「…二課所属の巫術師に、このような技を使う人間はいない。それに、これは二式巫術だ。どうやって発動したというんだ?」

「知らないけど…」皐月は少し間を開けてから、うつむいた。全員が何か重要なことを言うのかと思った瞬間、彼女の口から出たのは「すっごい可愛かったなぁ…」という感想だ。のろけるような表情を浮かべる皐月に、黒川は思わずツッコミを入れてしまう。

「仕事中に何言ってんだ、お前」

「だってだってだって~! あんなに可愛くて強かったら惚れちゃうでしょ!!! あたしが男だったらイチコロだよ!!!!でも、黒川君があの子のこと好きになったら、あたしやきもち焼いちゃうかも」

「ならねえよ!」

「ってことは、やっぱりあたしのこと好きなんだぁ! あたしもだーいすき」

「違うわ、馬鹿猫」

「バカって何よ!ひどい!あんたのほうが馬鹿なんだから!」


皐月と黒川がそうして会話をしていると、烏三課の職員証を胸につけた別の人間が一人、現場に合流する。それを見て、洞門はため息を吐いた。


「…遅刻魔が今になって来ましたよ」

「わりぃわりぃ! ちょっと道迷っちまってさあ、それで、怪物はどこにいんだぁ?」


金髪の陽気な声を挙げる彼の姿を見て、二課の全員の顔の雲行きが怪しくなる。


「どーしたんすか? さっさと任務やりましょうよ!」

自分が遅刻してきたことを気にも留めない彼に、洞門が口を開ける。


「…敦くーん、君が遅刻して、仕事は全部終わったんだ」

「え…はぁ!??!?!嘘でしょぉ!」

 敦、と呼ばれた彼の胸元には『烏二課:工藤敦くどうあつし』という文字が書かれている。ぼさぼさの茶髪に眼鏡、そして若々しいはつらつとした表情は、黒川と彼が同い年の25歳であるということを疑ってしまうほどである。


「じゃあ、俺のふじゅちゅ展開はまたお預けっすかぁ!!!

「また、じゃねえんだよ。それにお前、巫術って言えてないぞ」

「ちがうし!じゅじゅつだし!!!りょーいきてんかい、って、いえるし!!!」

「それは多方面から怒られるからやめろ!!!」


 なんだかんだといって、黒川と工藤は仲が良い。それは二課と三課のメンバーからすればよく知られていることだった。ただし、どちらも致命的に空気を読まず、後者に至っては遅刻が多すぎるのである。それでも八咫烏をクビにならないのは、憎もうと思っても憎めない彼の底抜けた明るさと、遅刻しようとも働くときはきっちりと働くという彼の性格に由来するのだろう。


「…とりあえず、敦君。君の仕事はあれの片づけだ」

「はぁ? また俺がやるんですか???」


 工藤の視線の先には、急速にしなびつつある怪物の身体があった。妖の特徴として、死んだ後にその肉体は跡形もなく消えてしまう、という点があった。代わりにその場には、ひと山の小さな白い灰だけが残る。その灰を清掃するのが、地味ながら面倒な仕事なのである。


「黒川、俺と二課は先に引き上げる。報告はしておくから、そいつのことは頼んだ」

葛城はそういいながら、後ろを向いてその場を後にしようとする。


「ちょっと、なんで俺なんすか?」

「君たちが相性いいからだよ」洞門もうなずきながら、それぞれに撤退の指示を出す。


「ダーリン。戻ったらあたしの部屋に来てね。おいしいクッキー焼いて待ってるから!」


絶対に行かない、と黒川は皐月に返しながら、仕方なく敦の隣に立って仕事をすることにした。残りの面々も、駅の近くに止められた車に乗り込み、八咫烏の本部が置かれたビルの方へと向かい始める。もう、2時間後にはここの封鎖も解かれることになるだろう。それまでに仕事を終わらせた方が早い。



「なんで毎回、お前と一緒なんだ」

「なんだ、悪いか?」


工藤は懐から自分の術具である扇を取り出しながら、展開の準備を始める。その手際だけはよいな、と、黒川は以前と同じように思うのであった。


「お前と一緒にいると面倒ごとに絡まれるからな」

「苦労は買ってでもしろ、だろ?」

「お前の場合苦労を避けてるようにしか見えない」

「ま、そういう話はあとにして、さっさと片づけようぜ。…巫術零式『虚無円』」

「都合が悪くなるとすぐ逃げるよな、お前」


 工藤の術式はいたって単純なものだ。空中に小さな黒い円…本人は「ブラックホール」と呼んでいる……を生み出し、そこに入れた物を跡形もなく消すこと。戦闘で応用すれば、敵の身体を文字通り削り取ることが出来るような能力だが、工藤にはそこまでするほどの実力はない。従って、巫術の階位も零式として登録されていた。

 黒川も『真理眼』を展開しながら、周囲に妖の痕跡が残っていないかを確認する。残っている場合には、工藤がそれを片付ける。二人の仕事は、放課後の教室の掃除当番のように、雑談を交えた気長なものになることが多かった。


「なあ、廉也」

「なんだ? 馬鹿な質問には答えないぞ」

「バカってなんだよ……。お前、あんだけ皐月にラブコールされて、答えてやろうとは思わねえのか?」

「…面倒なんだよ、ああいう女」

「へえ、言うねえ」敦は言った。「ま、お前はみどりご園にいたころからモテたもんな」

「昔の話はよしてくれ」

「なんでだよ」

「前にも言っただろ、昔の話は嫌いなんだ、って」


 黒川は、頑なに過去の話を拒んだ。それを工藤も深く問い詰めはしない。時々こうして言葉を交わすこともあったが、工藤はきちんとそこの線引きができる男なのだ。だからこそ、黒川とはなんだかんだといって、相性が良いのかもしれない。実際、黒川は工藤のことを、数少ない「友人」の一人として考えていることもあった。

 怪物がいたはずの場所にできた灰の山は、後に分析をして研究するためのサンプルを確保した後には、すべて工藤が片づけてしまう。帰りにコーヒーでも買おうかと考えていた矢先、不意に黒川の視線の先に奇妙なものが移った。


「敦…灰の下に、誰かがいるぞ」

「は? 誰か?」


 黒川はそういいながら、灰の山を手でどかしながら、その下にあるものを掘り出した。

 そこにいたのは、ちいさく寝息を立てて眠っている一人の少女だった。

 しかも、黒川を驚かせたのは、その彼女の姿が、先ほど戦闘中に見かけた、あの少女にそっくりだったことだった。


烏三課  第零話 END

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